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悪意のない医療ネグレクト。重度アトピーと発達障害の私が実際に体験した"医療ネグレクト"について(人生振り返り)

1.まえがき
数日前、子供を出産しました。
もしも、私からの遺伝性の病気や特性などをこの先子供が引き継いでいるとわかったとしても、適切なタイミングで然るべき治療や療育を受けさせ、うまくコントロールしながら快適に人生を送ってもらいたい、そう考え、備忘録的に私が受けた医療ネグレクトについて、ここに記録していきます。

2.はじめに

医療ネグレクトとは、医療水準や社会通念に照らして、その子どもにとって必要かつ適切な医療を受けさせないことです。 連れて行くものの、治療に同意しない場合(「治療拒否」ともいう)などです。 後 者については、たとえば宗教上の理由による輸血拒否や手術拒否などがあります。…

これは私の主観なので、実際に該当するかはわかりませんが、適切な治療を適切な時期に受けれてさえいれば、私は"発達障害"と"重度のアトピー性皮膚炎"の二つに人生を狂わされることがなかったかもしれない、と思うのです。

この二つは遺伝の影響が強いと言われている症状のひとつです。
そして、やはり私の両親にも、強くその傾向を感じています。特に発達障害は見過ごせないと感じるほどに。そしてそのせいで、私は医療に繋がらなかったのではないかと考えています。

彼らの発達障害がなければ、私のアトピーはここまで悪化しなかったのでないか。
彼らの発達障害がなければ、私の発達障害はもっと早くコントロールできたのではないか。

たらればを考え出したらキリがないことは頭では理解しているのですが、ふとそんな思いに駆られてしまうのです。

3.病歴
私はADHDという発達障害です。大人になってから気づき、29歳で診断が下りました。
なお、ニ次障害として双極性障害(躁うつ病)も併発、現在心療内科に通院しています。
また、2歳から重度のアトピー性皮膚炎です。33歳の現在は寛解していますが、重症化し治療で14歳、23歳の2度入院しました。
さらに、アトピー性皮膚炎による若年性白内障を患い、眼内人工レンズにする白内障手術を右目14歳、左目20歳の時に受けました。以降、近視の老眼となり、遠近両用メガネを装用しています。

4.略歴(人生振り返り)
自然豊かな田舎で誕生。
マイペースで朗らか。
朝起きるのが大の苦手で時間にルーズ。
幼稚園から大学、社会人までほぼ毎日遅刻、頻繁な欠席(欠勤)を繰り返す。
その為人間関係の構築につまずく場面が多い。
騙されやすく、詐欺などに遭いやすい性格。

2歳〜アトピー性皮膚炎。
ステロイドを怖がる祖父や両親の方針で自然療法での治療を続けるが、成長を追うごとに重症化。

14歳(中学3年) 重篤な炎症に発展、学校へ通えなくなる。
死にそうになるくらいの痛み痒みの為両親に懇願し、やっと通院が叶い、ステロイド治療を開始。
10日間の入院集中治療措置が取られその後自宅療養で徐々に回復。
結果中学3年の4月〜11月の約7ヶ月間は完全不登校となる。
中学3年12月 復学。 
家庭教師をつけ、1日10時間の猛勉強の末、高校へなんとか進学。

16歳(高校2年) ステロイド治療を続けるも、アトピーが再悪化し約4ヶ月間不登校となる。
以降、約2〜3年周期で快方、悪化を繰り返す体質になる。
復学後イジメに会い、不定期に通学困難者となる。

18歳 大学進学とともに上京、一人暮らしを開始。
18〜22歳 同棲中の彼氏に、アルミパイプでの殴打などの日常的暴力、軟禁などの精神的支配や金銭的DVを受ける。
22歳 就職。苦肉の策で地方転勤族となり、なんとかDV彼氏から逃亡。仕事のストレスでアトピーが再悪化。
23歳 5日間のアトピー入院。
また、車で自損事故を複数回起こす。
23歳 4度の転勤引越しで千葉へ。同じころ恋人ができる(現在の夫)。
24歳 転職。上京。しかしパワハラで2ヶ月で退社。適応障害を発症し、診察をうけた心療内科でADHDの疑いがあると言われる。

24歳 貯金が底をつき、家賃滞納で住む場所がなくなり、恋人の家に居候となる。
24歳 お金に困っていた時、悪徳マルチに勧誘される。組織に精神的洗脳を受け抜け出せなくなり、借金を負う。
また、派遣社員として働くも、うまくいかず退職を繰り返す。
26歳〜28歳 恋人のおかげで組織の洗脳からの脱出に成功。しかし、また他のマルチビジネスで出会った人に投資詐欺をされ、さらに多額の借金を追う。恋人に生活を援助してもらうも、借金返済に追われ精神的に追い詰められ、うつ病を発症。またアトピーが悪化、引きこもりとなる。
28歳 ついに自己破産。
28歳 ニート後、スーパーでアルバイトをする。お金の不安から解放され生活が安定してくると共に、アトピー、うつ病が快方に向かう。

29歳 うつ病(のちに双極性障害による抑うつ症状と判明)がなおったことで発達障害の心理検査を受けられることとなり(誤診を防ぐ為)、正式にADHDと診断が下りる。自立支援制度を受けられることとなり、安価にADHD治療薬を入手できるようになり症状が安定。
朝起きられるようになり、人生で初めて遅刻グセが減る。対人関係も良好になり、仕事が問題なく楽しく続けられるようになる。
また、アトピーも通院が不要な状態にまで寛解。

30歳 支え続けてくれた恋人と結婚。
31歳 一念発起し、パートを続けながら2ヶ月間の猛勉強。宅建士資格を取得。
不動産会社へ正社員として就職。広報として、HP作成、写真加工、SNS発信、経理処理、内覧会設営、現地案内、契約など多岐に渡る仕事を経験。
33歳 妊娠を機に退職。無事出産。
現在に至る。

5.家族について
私は夫婦仲の良い両親と、しっかり者の姉、優しい兄、気難しく暴君な面はあるが私を溺愛してくれる祖父のもとで、かなり愛されて育ちました。

父は大変社交的で、子育てが趣味のような子煩悩なタイプ、母は気が弱いが、子供たちの前では常に明るく楽天的な、少女のような可愛らしい女性です。

幼少期は比較的裕福で、お金に困ることはありませんでした。
父は婿養子で祖父の経営する町工場で、次期社長として働いていました。
私の家では祖父が絶対君主でした。その権限のほとんどを握っており、母は祖父に逆らえず、全て言われるがままとなっていました。
子供の教育についても祖父の意向が優先される状況で、そんな祖父に対し父は反抗をし、度々衝突している様子を目にしました。
また父は、実質の会社の運営をほとんど1人で行い、PTAや商工会議所の仕事など数多くの仕事を行っており、家に帰れる日がどんどん少なくなっていきました。
私が大学4年生の頃、祖父が亡くなり父が会社を完全に引き継ぐと、会社には祖父が隠していた莫大な借金があることが判明しました。
不景気の煽りも重なり、経営はかなり苦しく、すでに立て直すことは不可能な状況となっていました。
私の大学卒業を待って、父と母は自己破産を行い、会社と住んでいた実家など、ほとんどの財産を手放すことになりました。
そのころ姉は嫁いでいて難病の子の子育て中、兄も東京で一人暮らしを始めたばかり。
その時私は、帰れる家や頼れる人が完全に失われたように感じ、迷惑をかけないように1人で生きていく決意をしました。

6.悪意のない医療ネグレクト

【アトピー性皮膚炎】
2歳からのアトピー性皮膚炎は、適切な時期に適切なステロイド治療を受ければ、ある程度コントロールできたのではないかと思っています。
当時、現代ではステロイド詐欺と呼ばれる、ステロイドによる副作用を悪と謳う、様々な情報が流れ、それを信じた祖父の意向で、私は病院での治療の機会を与えられませんでした。
その代わり、デトックスができると言われる謎のサプリメントを飲まされたり、信憑性のかけらもない謎の効能を持つ活水と呼ばれる、ただの水を飲み、身体に塗りたくられていました。
また、20万もする謎の敷布団を買い、そこに寝かせられました。(のちにこの業者は逮捕されています)

母は祖父に逆らえないうえ、その状況を父に伝えることもしませんでした。(祖父から止められていたのかも知れません)
当然、アトピーは悪化し、幼児期、少年期、青年期とどんどんステップアップを重ね、どんどん強固な性質のものへと変わっていきました。
たまに病院へ行っても、中途半端にステロイド治療を勝手に止めることで、さらに悪化し、それを見てよりステロイドへの恐怖を強める悪循環のサイクルが出来上がってしまいました。
ついには、母は父に内緒で、カルト宗教に助けを求めるまで追い詰められていたようでした。

そして14歳になるころ、アトピーで荒れた肌からプール掃除で細菌がはいり、瞬く間に全身火傷のようなジュクジュクとした症状が顔や全身に広がり、服が擦れるだけで、風が頬を撫でるだけで、死ぬほどの痛みと痒みが起こるようになり1日中寝たきりになりました。
母は混乱しているだけで頼れず、父は大変忙しく私の状況に気づかない、姉や兄もすでに家を出ており、本当に誰にも頼れないんだと絶望しました。
このままでは気がおかしくなる、いっそ死んでしまいたい、そう願うようになっていきました。
不登校のなか、たった1人だけ連絡を取ってくれていた親友が、病院を探してくれ、私は母に泣きながら頭を下げその病院に連れて行ってもらうことができたのです。
そして、そこからアトピー治療を専門に扱う医師へ紹介状を出してもらい、入院することができました。

【ADHD】
私はIQが平均並〜平均より少し高く、知能の遅れがなかったため幼少期には気づかれず、社会に出てから様々な困難にぶち当たり初めて発達障害に気づいた、いわゆる大人の発達障害です。
その為、一切の療育を受けてきませんでした。
それが、私の人生に少なからず影響を及ぼしているのではないかと思っています。
もし療育を受けていたら..
もし両親に知識があれば..
もし自分に知識があれば..
何か違ったのではないかとどうしても思ってしまいます。


家族中でADHDの診断が下りているのは私だけですが、もしかしたら兄は小児科検診などで発達障害の疑いがあるようなことを言われていたのかも知れません。
小学生時代、学校をズル休みしていたとある日、母と共に徹子の部屋を見ていた時でした。
母がふと、「そうだ思い出した、お兄ちゃんもね、小さいころにトットちゃんとおんなじかもって言われたことがあったなぁ」と呟きました。
その時はなんのことか理解できませんでしたが、のちに黒柳徹子さんが発達障害であることを知り、その言葉の意味を理解しました。
しかし、当時発達障害が今ほど知られておらず、母はきっと発達障害の意味を理解しないまま、発達障害の療育を兄に受けさせることをしなかったのだと思います。兄はその後、中学3年間学校を不登校になりました。

私から見れば、母は完全な発達障害です。
そして、父もまたグレーゾーンなのではないかと思っています。

発達障害の連鎖が不幸を生んでしまうことは避けなければなりません。


無知は罪。
父親が無知ならその子は貧乏になり、
母親が無知ならその子は病気となる。

どこで聞いたかも覚えていないフレーズですが、聞いた瞬間に鳥肌が立ち、私の心の奥深くに今も強く突き刺さっている言葉です。


発達障害者の子が、しなくていい苦労や辛い体験をするのはあまりに哀しいことです。
私は両親のことは大好きで、現在両親とは一定の距離を保つことで、とても仲の良い関係を築いていますが、やはりほんの少し恨んでしまう気持ちがあるのもウソではありません。

彼らは私を全身全霊で愛し、もちろん今も愛してくれています。ただただ彼らが常に必死だったことだけはわかります。
でも、私は両親に対し、どうしても壁を感じてしまいます。心から信頼できないのです。

健康を、命を脅かされたという記憶が邪魔をするのです。

だからこそ、絶対に繰り返さない。
知識をつけ、然るべきタイミングで適切な対処をしてあげたい、そう強く強く心に決めています。

大切な我が子のために。

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