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好奇心が育む多様性

私は、「自分の中に多様性を」というテーマで、日本全国を旅しながら、農家や漁師など100以上の仕事を経験してきました。

なぜ、そのような生き方や活動をしているのか?
幼少期から現在に至るまでの物語について話そうと思います。


漢字と円周率への好奇心

幼稚園のときの愛読書は、新明解国語辞典。
小学1年生の夏休みの自由研究では、国語辞典に載っている「画数の多い漢字の書き取り」をしました。
小学1年生といえば、最も易しい「一」や「二」などの画数の「少ない」漢字の練習が一般的です。「鬱鬱鬱鬱鬱…」などとノート一面にびっしり書かれた自由研究を目にした担任の先生はさぞ驚いたことでしょう。
なぜそんなことをしたのか、当時の記憶ははっきりとは覚えていませんが、漢字の形や種類の多さに興味があったような気がします。

つぎにハマったのが小3の算数で出会った円周率です。
「なぜ円周率は数字が無限に続くのか?」ということが不思議で不思議でしかたありませんでした。何万桁、何億桁、何兆桁・・・さらにその先にも数字が続いていて、人間が知ることができない桁数のところにも、ある決まった数字が確実に存在しているというのは驚くべきことです。
その理由が知りたくて、算数の教科書を小6まで読み進めましたが答えは書いてありません。おこづかいを貯めたり、誕生日プレゼントで買ってもらったりして、中学、高校の数学の教科書も読みましたが、書いてありませんでした。そして、とうとう小5で大学レベルの数学の専門書を図書館で借りて読むようになってしまいました。

このように幼少期から好奇心が強く、興味を持つととことんやってみたり、深く調べたりする性格でした。


テクノロジーへの好奇心

大学レベルの数学ができたおかげで受験勉強をまったくせずに東大に合格します。東大では、宇宙や自然現象が数式によって鮮やかに表現されることに興味を持ち、研究や実験を行いました。世界には真理があり、数学がそれを解明するのではないかと信じていました。

同時に、大学ではリベラルアーツ(教養)を学び、自分の知らない世界が果てしなく広がっていることを知りました。受けたい授業があり過ぎて、毎日、朝から晩まで大学にいたほどです。
やがて哲学の授業で、科学は人間が世界を認識する方法の一つでしかないという認識論を知り、真理はどこにもないかもしれないと落胆します。
また、情報理論や統計学の授業では、予測や推定のテクノロジーに高度な数学が用いられていることを知り、興味を持ちます。そして、そのテクノロジーを実際に自分で作ってみようと、今で言うところの AI のプログラミングも行いました。さらに、その AI を使って有益なことをしようと、株価予測や画像認識へ応用したりもしました。まだ、第3次 AI ブーム前の2005年頃のことです。

このとき、予測や推定のテクノロジーは、さまざまな分野に幅広く応用できることを実感しました。そこで、企業ではどの程度まで研究が進んでいるのか、製品にはどこまで実装されているのか、知りたいと思うようになりました。
ちょうど、たくさんの企業が就職活動のための説明会や見学会を開催しており、手あたり次第参加して話を聞きに行くことにしました。

今度は、予測や推定に限らず、人々の生活を裏側で支えるさまざまなテクノロジーに興味を持つようになりました。
テクノロジーの社会実装に関心が移っていったのです。


運良く国家公務員試験に合格し、テクノクラート(技術官僚)になりました。


建前ではない本質への好奇心

官僚になり、持ち前の好奇心で「なぜ、その業務をやっているのか?」ということを聞いたり、調べたりしていきました。その結果、多くの業務が、「昔からやっているから」、「(法律やルールにより)やることになっているから」、「簡単にやめられないから」、「予算を取るため」など、思考停止や組織の都合で行われていることが明らかになったのです。
そのうえ、それらの業務に対して、社会的な必要性などを説明するための理屈や根拠をそれらしく作り上げる官僚の能力には脱帽しました。本質を探る数学や科学で必要とされる能力とはまるで真逆だったからです。

官僚の世界が建前だらけであることに愛想を尽かし始めていたころ、漁業の課題について地方自治体から相談がありました。当時は、国による地方創生が始まったばかりの時期でした。
建前ではない本質的な課題を解決したいと思い、「脱エリート」を決意。組織の都合や立場に縛られずに漁業の課題と向き合うために、「漁師になる」と言って国家公務員を退職します。

しかし、現場主義で漁業を手伝いながら、当事者である漁師300人あまりと丁寧に対話したところ、「困ってない」としか言われなかったのです。
ここでついに、地方創生も結局のところ建前であり、政府や地方自治体に都合よく利用されていることを確信します。
世の中を見渡してみると、地方創生だけでなく、ウェルビーイング、サステナブル、DX、イノベーションなどといった何ら本質的でない大義が流行していることが分かります。成熟社会では、大勢に共通の問題や解き易い問題といった「適度な問題」がおおむね解決し尽くされてしまい、平たく言うとネタ切れ状態となっています。そのため、世の中にはネタとしての建前が必要とされているのです。

地方創生が建前であることを確信する一方で、漁師の仕事をするうちに狩猟『本能』が開花し、生きるために『本当』に必要な食料生産のやりがいに目覚めました。さらに、建前で覆い尽くされた成熟社会において、建前ではどうにもならない自然と向き合うことに人間としての『本質』を感じたのです。また、そのような自然とともに暮らす農山漁村の共同体には、建前ではない『本音』の関係性による助け合いの精神があり、居心地の良さを感じました。

農山漁村には、その土地の気候や歴史、文化などの多様性があります。農業や漁業にも地域や種類ごとにさまざまな多様性があります。そのすべてを経験して本質を知りたいという好奇心を抑えることができませんでした。
以来、日本全国の農山漁村を渡り歩いて、農業や漁業の仕事を続けています。


人間と社会への好奇心

日本全国を渡り歩いていると、漁師や農家の人たちは承認欲求が満たされていないと感じることが多くあります。
「漁師なんて最低の仕事だ」、「子どもに漁師は継がせない」といった悲しくなるような言葉を何人もの漁師から聞きました。ほかにも、大企業の社員がワーケーションやボランティアなどで農村を訪れた際に、威勢のよい農家の人から「お前の仕事よりオレの仕事の方が社会の役に立ってる」などと吹っ掛けられて言い合いになってるのを何度も目撃したことがあります。
褒められたり感謝されたりする機会が少ない漁師や農家の人たちは承認欲求が満たされていないのです。

一方で、都会の人たち、とくにエリートについては、「適度な問題」がなくなってしまった結果、やりがいやモチベーションを見出す対象が、競争や地位などの承認欲求に向かってしまい



承認欲求については、じつは、ギフテッドによくある経験かもしれませんが、小学校や中学校のころ、私は勉強ができたせいで、教師から目の敵にされていた経験があります。そのころから、他者の承認欲求には敏感になっていました。

人間の持つ欲求やその葛藤について、および、個人間や集団間でそれらをうまく調整する社会システムについて興味を持ち始めています。
数学や科学のような演繹的、要素還元的なアプローチが通じないので嫌いだった、心理学、社会学、経済学、政治、歴史などを学ぶようになりました。


自分の中に多様性を持つ意味

さて、数学や科学がどうであろうと、真理や本質がどうであろうと、哲学の認識論が示すとおり、最後は人間の認識次第なのです。

分断が助長されています。


現時点では SF の世界の話ですが、仮想現実(メタバース)やブレイン・マシン・インターフェース(BMI)などのテクノロジーが発展すると、究極的には、電気信号や物質代謝によって脳や神経を完璧にコントロールできるようになり、あらゆる刺激や経験を自由に与えられるようになるかもしれません。自分に都合のよい事実や自分の好きな体験を思うように得られる、いわゆる "経験機械" の思考実験です。




分断を越境すること、演技にならないようにすること。

幼少期のころから私を突き動かしているのは、好奇心です。
好奇心に従って、現在まで100を超える仕事を経験。自分の中に多様性を作り続けています。
さまざまな仕事を理解するということです。


もっと詳しい話(長文)は …


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