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「わからない」不安を、仏様にお預けする。
例えば、アドラー心理学に曰く「怒りは他者をコントロールするために都合良く作られる」「感情は人と人との(人間関係の)間にある」という。
怒りが道具であるなら、それ以外の感情はどうなのか。
喜怒哀楽、矛先がどこに向かうか、それだけの違いだけではないのか。
人は感情によって「なんとなく」自分も他人もコントロールしようとする。時によっては喜びの感情もまた、己に酔っ払っているだけではないのか。
こんなこ
モノの見方を変えたい
ハッキリ意思表示をしたい、自分で決めたい
ぬるま湯のような関係性にいつまでも甘えず発展させたい
万象から学びたい
今わたしに足りてないことはなんだ
万物は仮の姿であって
子供ですら悪い縁に出会うと人を欺き、あやめる
しかしそれは生きたいがゆえのこと
釈尊は愛するなと仰ったらしいが、
果たしてそれは真意だろうか
唯除五逆誹謗正法、と同じ意味ではないのか
わからない、その苦を縁になまんだぶ
モノの見方を変える
ハッキリ意思表示をする、自分で決める
ぬるま湯のような関係性から出る
つまり万象から学ぶ
今わたしに足りてないこと
ドロの中から咲くハスの花、白蓮華。
「きれいなバラにはトゲがある」と言います。
最近は、生の花にふれる事はあまりないかもしれません。
せいぜい壮行会とかの花束贈呈、あとは冠婚葬祭の時。
観光地や近所の公園にいってながめるくらいですか。
画像や動画としては、ネット検索すれば膨大な数が出てきますが、
やはり自分の目で直接見て、鼻で香りを感じて頂きたいですね。
御教えにおいては、信仰厚い方のおすがたを、白いハスの花に例えます。
いつも
みなともに、阿弥陀仏の尊い願いに救われるべし(後編)悪人をうらむのではなく、みな救いの道へ。
(前編より)
この場合の救いとは、生きてる内の罪科が、生きてるうちに帳消しになる事では「無い」です。むしろ南無阿弥陀仏の御縁を通して、己の罪科がつぎつぎと明らかになる。罪、迷いは、全て抱えたまま生きて行くのです。その苦しみに寄り添ってくださるのがお念仏の教えです。
死者のたましいも、生きているわたしたちの心も、阿弥陀仏の願いによって救われる。私らは、決してひとりじゃない。
その救いがない、徹
風邪で寝てた。食べ物とお酒と。雑念にまつわるお話
冷房風邪をひいて、一日中寝ておりました・・・
8月ですから、最近は熱中症アラートがスマートフォンに届かない日は無い、蒸し暑い日々が続いてます。生命維持のために冷房はつけっぱなしにせざるをえない(こまめにオンオフすると、再冷却のために電気代が上がるから、節電としては逆効果だそうです)。
余り身体にいいものではありません。
とはいえまあ、贅沢病だと言われても仕方の無い所ではあるんですが・・・
セキが
終戦の日。
まだ日付が変わったばかりですが、今 心よりの黙祷を捧げます。
幼い頃の記憶から思い出すこと。
きのうの夜、夢を見ました。幼い頃の思い出です。
親に連れられて、どっかの街につれていって貰いました。
私はまだ2-3歳だっただろうか。
絵本で近鉄のビスタカーを見て、あこがれていたので
乗りこそしませんでしたが、それを駅のホームでみて大興奮したのを覚えてます。
そのあと親がどっかで用事があって、待ってなさい、ってことで自由時間になったんですね。そのへんをウロウロしていると、道ばたに信号機があって
他人に助けを求められた時は、まず冷静に。急ぐことでないなら、少しづつ、少しづつ。
今回はなしたいのは、余り仏教とは関係ない話。
一応「応病与薬」なんて言葉はあるんだけど、それは各位で興味があれば調べて頂くくらいでいいと思う。
自分の喋り方、コミュニケーションのこと。
それは、何かを他者にほどこすとき どうすればいいかと考えること。
例えば、他人に助けを求められた時は、最初に相手の状態をよく観察し、どう相手を助ければ最適であるか、を 1分でもいいから考えてから、少しづつ 相手が