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みなともに、阿弥陀仏の尊い願いに救われるべし(後編)悪人をうらむのではなく、みな救いの道へ。

(前編より)

この場合の救いとは、生きてる内の罪科が、生きてるうちに帳消しになる事では「無い」です。むしろ南無阿弥陀仏の御縁を通して、己の罪科がつぎつぎと明らかになる。罪、迷いは、全て抱えたまま生きて行くのです。その苦しみに寄り添ってくださるのがお念仏の教えです。

死者のたましいも、生きているわたしたちの心も、阿弥陀仏の願いによって救われる。私らは、決してひとりじゃない。

その救いがない、徹底的に救いようがない、一人だけ絶望の淵に沈んでいかざるをえない立場に、もし自分が陥ってしまったなら、どうしますか?
まかり間違えば怒りを爆発させ、「俺だけ死んでなるものか、俺だけ不幸になってなるものか」と、延々と自分の周囲に、大きな不幸を撒き散らし続けるでしょう。自分もそんな目に逢いたくないし、そんな事はやめさせたいですよね?
かたじけなくも、阿弥陀様は高潔な願いを立て、救いを用意してくださった。この事はコレ以上無い、かけがえのない、ありがたいことでしょう。

悪人を子子孫孫まで許さない、日本人は少なくともそんな悲劇の再生産はしません、死ねば皆ほとけです。

じゃあ相手を殺せば良いのか、自分が死ねば良いのか?それは論外、いうまでもありません。生きている限りは、この己の今を淡々と力強く生きぬくのです。もちろん相手にもその権利があるし、自分の今に精一杯の力を注ぐならば、相手を憎悪している暇など、ひとときもない。
繰り返しますが、人は一人では生きられない、自分は一人ではないのです。自分の生を力強く生き抜くならば、自分をみつめなおし、周りを見渡せば、自分は多くの人の願い、いのちに支えられて生きている事に、気づかせて頂けるはずです。

よこしまに落ちる道をふさぎ、願いによる救いの道に、
他ならぬ、画面の前にいる、あなた自身を導いてくださる。
あなた自身を苦しみから救うことこそ、阿弥陀様のお目当てなのですよ。
その御恩に、感謝申し上げ、お念仏申すひぐらしをさせて頂きましょう。


さいごに、蓮如上人の、御文章よりお言葉をいただきます。


「そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなか かなはざる時なり。
これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。
「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、
われらが極楽に往生せんことはさらに疑なし。
このゆゑに、一心一向に 阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。
このうへには、なほなほ たふとく おもひたてまつらんこころの おこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。これをすなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。」

あなかしこ、あなかしこ。

(男子も女人も)


なまんだぶ、なんまだぶ、なまんだぶ・・・

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