幼い頃の記憶から思い出すこと。

きのうの夜、夢を見ました。幼い頃の思い出です。
親に連れられて、どっかの街につれていって貰いました。
私はまだ2-3歳だっただろうか。
絵本で近鉄のビスタカーを見て、あこがれていたので
乗りこそしませんでしたが、それを駅のホームでみて大興奮したのを覚えてます。

そのあと親がどっかで用事があって、待ってなさい、ってことで自由時間になったんですね。そのへんをウロウロしていると、道ばたに信号機があって、歩行者用の押しボタンがあった。これを触るのがはじめてだったもので、うれしくなって 押して渡り、反対側の押しボタンをさわって又道路を渡り、ってな事を面白がって繰り返してたのです。

そうして何回かやってると、ふと目の端に、ご年配の夫婦が映った。
なにやら、怪訝そうな顔をしながら、こちらを見てヒソヒソと話をしている。私は少しキョトンとしましたが、突然、怖くなってその場から逃げ出しました。

多分、あのご夫婦は この子はどこから来たのだろうとか、親御さんは?とか、叱ろうかどうしようか、と相談していらっしゃったのでしょう。
少なくとも私は、怒られる!と思って逃げたわけですからね。

あのとき、態度で止めてくださらなかったら、私はあの交差点で事故にあって死んでいたかもしれません。ですから、あのご夫婦は命の恩人だったなあと、今思い返して有り難く思った次第です。
なにぶん2-3歳の時のことですので、すでにお二人ともご往生されているかとは思いますが、いつか私も往生させて頂いてお浄土で逢い、その節の謝罪と御礼を述べさせて頂きたいと思います。


みまもられている、という事は本当にありがたいことです。
私も毎日のおつとめを通してなまんだぶ、と繰り返しお称名させて頂いておりますが、そのたびに阿弥陀様はお念仏の形となって私の前にあらわれてくださる。
すなわちこれは、阿弥陀様から授けられたこの思い、この行いを通して、阿弥陀様や仏様、いろんな方に見守られている、という事に他なりません。

最近のわたしは、法話(らしきもの、もどき)に結びつけているとはいえ、ニコ生の雑談でちょっとネガティブな事、愚痴ばかりいうことが多かった。
これもこれで必要な事とは思いますが、至らぬ姿にかわりはない訳です。

阿弥陀様の願いに照らされて、浄土真宗の御教えに出逢う時、己の至らぬ姿、わるいところがつぎつぎと明らかになっていく。
そう常々お話しているのですが、その言葉がいま一番自分自身に跳ね返ってきている。ツライことでもあり、幸せなことでもあります。
肩こりで肩を揉んでもらうとき、「痛気持ちいい」って言葉を使いますが、あんな感じなのでしょうか?いや、そんなアホなね、、、

この迷いの姿、治そうと思っても一生治らんでしょう。
そんな私のそのままを、見守って下さっている仏様がいる。
ありがたいことです。

なまんだぶ、なまんだぶ・・・



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