現世利益について(3)物質的「えこひいき」ではない。 阿弥陀様と諸神諸仏に見守られる私。

阿弥陀様、神様は、願いを一応聞いて、見守ってはくださるけど、直接かなえてはくださらない。要するに「神様のえこひいき」になっちゃうから。

想像の範囲を出ないけれど、仮に全知全能の神様がこの世に来たとして、どこかのライトノベルじゃないけど、自分が仮に特別に選ばれて願いを叶えてもらって、億万長者やら権力者やら神になったとしなさいな。

そしたらその「えこひいきしてもらった」事実を知った、ほかの人々はどうなりますか?(絶対にとはいわないけど、)自分に対する態度が激変しちゃう事は想像に難くない。

あるものは媚びへつらう、あるものは怒りをあらわにする。自分も周りの人たちが信じられなくなる。ラノベで描かれる超能力、って、身も蓋もない言い方をすれば「人殺しのための力」、武力ですからね。

その力の行使の対象がモンスターって架空の脅威に向いているだけで、
魔王を倒してモンスターを一掃してしまえば、真っ先に殺される、あるいは排除追放される(黒澤明監督の「七人の侍」じゃないけどね)、
祀り上げられて形骸化・無力化されるのは当の勇者、主人公だと思いますね。「狡兎死して走狗烹らる」ってやつ。

もろもろ、力を得た結果でえられるものは、マイナスの反応であろうことは想像に難くないわけで、それって幸せって言えるのか?わたしは甚だ疑問です。ナンのための神様?ナンのための宗教?幸せを得るための手段なのに、そこで不幸を得ちゃったらどうしようもない。

物質的には一瞬満たされるかもしれませんが、長期的には明らかに不幸になるわけです。想像するだけでもしんどい。

したがって、現実的に害毒のない、まともな(まともに、信じられる)宗教のこの世における利益ってのは「精神的な安定」が主なものに成る。
浄土真宗においても、もちろん、この世で具体的な利益を得るってことはタブーとされてます。

神様に守られる、ということは、すなわち精神的な安定を得る、ということです。物質的利益は、その精神的利益のあとからついてくる「努力の結果」でしかないのです。

不安の多いこの世の中を渡っていくときに、心の中に軸として宗教があって
その心の支えを通じて自分の行いがあらたまって安定して、結果として世の中がいきづらいものから多少いきやすいものになる、その結果なのです。 
人間の悩みの大半は人間関係、ってのはアドラーさんて有名な心理学者さんの言葉でしたっけな。


親鸞様は、阿弥陀様を信じることの利益を、たとえば「現世利益和讃」に、こうあらわしておられます。

「南無阿弥陀仏を称えれば 梵王・帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり」

「天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」

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