みなともに、阿弥陀仏の尊い願いに救われるべし(前編)悪人をうらむのではなく、みな救いの道へ。

荒らし、(いわゆる痛い人、ならず者)の栄養は人の関心であって、彼らには反応したら逆効果。
粛々と通報し、存在を認知すれども相手にせず、対処は専門家(公権力、サイト管理人)におまかせする事が肝要です。

およそ彼らは、もうこの世では救いようが無いほど醜く見えるかもしれません。それは彼らだけではなく、彼らを憎悪する私達も同じです。
彼らと私達の共通点は「憎悪」であり、およそ悪人でない者はこの世に一人として存在しません。憎悪は悪い酒のようなものなので、その感情に酔っ払ったままの状態を放置することはおすすめしません。

早い話が、「彼ら」の二の舞いになる。憎悪を投げられたら、憎悪で返してはなりません。それは彼らと一緒になってケンカする事になる。
根本的な解決にならないどころか、怒りの火に油を注いで余計に大きくしてしまい、相手にも自分にも、罪科を重ねさせてしまうことになる。
あくまで忍びて耐え、己の道に励むことです。


阿弥陀様の絶対他力は、たとえどんな救いがたい悪人でも救ってくださいます。他ならぬ、わたしたち当人を。
どういうこと?と。救いとは?と。思われるかもしれませんが
端的に言えば、そういう希望の物語なのです。
阿弥陀様の願いにであい、反省と喜び、その反省を経てもなお治らない己を顧みながら、感謝のうちに生きるご縁をいただけるのです。

人間、この世ではそのいっときの状態、立場があります、煩悩も絶えません。また、己の周りがイエスマンばかりであれば、なかなか気づきの縁に出逢いにくい。
浮世のしがらみのツタにからまれて抜け出せず、この世では、やりなおしがなかなか効きにくい。彼らにも彼らの事情があり、その時吸っている世の中の空気があるものです。基本、私たちはひとりでは無力であり、どうこうする事は出来ない場合が多いです。

ただこの世では叶わなくとも、誰しも死ぬときは一人です。
自分にとっての極悪人が、命の有り様が変わることで、仏様となりガラリと変わる・・・そんな事は、己の憎悪に酔っ払っている間は想像も付かないでしょうが、悪人も、もしもただ阿弥陀様に願えば、お念仏の仲間となり、まちがいなく救いの道に導かれる。
結果としてこの世の見方が、明るいものに変わっていかないか、と。そう私は味わう事です。

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