「わからない」不安を、仏様にお預けする。

例えば、アドラー心理学に曰く「怒りは他者をコントロールするために都合良く作られる」「感情は人と人との(人間関係の)間にある」という。

怒りが道具であるなら、それ以外の感情はどうなのか。
喜怒哀楽、矛先がどこに向かうか、それだけの違いだけではないのか。
人は感情によって「なんとなく」自分も他人もコントロールしようとする。時によっては喜びの感情もまた、己に酔っ払っているだけではないのか。

こんなことを考え始めるとキリがない。
迷宮に迷い込んで得られるものは、負の感情、わからない事へのストレス。どちらかというと哀しみであったり、怒りだったりする。
人によっては「わからないことが楽しい」かもしれないが、それは一部の天才だけだろう。不安を抱えれば、たいていの人は落ち込むもの。

すべての疑問に明瞭な答えが出るわけではない。永遠にわからない事もある。他の切り口からのアプローチはないか、いま他にやれること、やるべきことはないか。見方を変えること。
その迷いによって落ち込みが取れないのであれば、その不安は思い切って阿弥陀様にうちあけ、いったんおまかせすることをおすすめしたい。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

「歎異抄」後序 浄土真宗聖典 P854

落ち込み、思い通りにならない事をなげくのではなく、不安をお預けした上で、その不便を抱えたまま、それでも希望を持って生きていく事。
それは、阿弥陀様が届けてくださった安心、信じるこころだ。
思考停止になるのではなくて、自分の中の不確かな感情と、阿弥陀様や、取り囲んで守ってくださる諸仏、ご先祖様、現実の人々を感じて、思い通りにならない事そのものを認めて。
今このとき、毎日一日一日を力強く生き抜くことだろう。

本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

「高僧和讃」天親讃 浄土真宗聖典 P580

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

御文章 末代無知の章 浄土真宗聖典 P1189

なまんだぶ。


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