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こころに関する記事

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#迷いを放下する

すぐれた友、善き友を持とう

すぐれた友、善き友を持とう

私たちは、どのような環境にあっても、善き友を持つことが望まれます。そもそも善き友とは、どのような人のことを言うのでしょうか。

善き友は、勝友(しょうゆう、すぐれた友、自分の徳を進める善い友)、善親友などとも言い、「善い友人」の意です。

特に、仏教・禅の世界では善き友を善知識と呼び、正法を説いて人を導き入れ、仏道に精進させて解脱させる賢人のことを意味します。それは、次の三種類があると言います。

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禅師と呼ぶのは禅宗の世界だけではない

禅師と呼ぶのは禅宗の世界だけではない

道元禅師のように、禅宗の師だけが禅師と呼ばれるわけではありません。禅宗以外の和尚の中にも、禅師と呼ばれる人がいるのです。

そもそも、禅の師という意味の「禅」とは「禅定」のことを指しています。禅定とは、身体を安静に保って心静かに人間本来の姿を瞑想することです。そして、この禅定は古来仏道修行者が修すべき基本的な道である「悪を止める戒と、心の平静を得る定と、真実を悟る慧」の三学の一つに位置付けられてい

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坐禅も止観も前提条件がある

坐禅も止観も前提条件がある

坐禅も止観(しかん)も、あらかじめ守るべき条件があります。分かっているようでいて、分かっていないことかと思います。そのような守るべき条件は、「縁」(えん、えにし、関わり合い)とも言い、5つあると言われています。

戒律を守って気持ちを純真にして無心であること。(持戒清浄)

生活全般が心配ないこと。(衣食具足)

静かなところで、安らかで、ゆったりとした生活をすること。(閑居静処)

色々な関わり

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心と体は不可分

心と体は不可分

人間は、心(精神)と身体から成っています。心が思ったこと、決めたことを受けて身体が反応していくのです。逆に、身体に外傷を負うと心に伝わり、「痛い」などといった感情が発することになります。要するに、心と身体は一方通行の関係ではなく、相互に密接に関係しているのです。

いわば、心と身体は不可分で渾然一体のものと言っていいのです。だから、一方だけでなく、両者が健全な状態にあることが求められるのです。もし

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悟りは待つものではない

悟りは待つものではない

禅の世界では、悟りを得ることを大切にしています。それは、「悟を待つを則(のり)と為す」というように、自分の中に純粋で清浄なる仏心に気づくことが大切なのだと言っているのです。

このように書くと、日本曹洞宗の道元は反対のことを言っているとお叱りを受けるかもしれません。確かに、道元は『正法眼蔵』「行持(上)」巻で
「大悟を待つことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟を願うことなかれ、不悟は髻中(けいちゅ

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家を出るということ

家を出るということ

私たちの人生は出家して僧籍に入ることと同じような気がしています。もちろん実際に出家するわけではありませんが、たとえば、次のように対比できるのではないかと思うのです。

①親に保護されている時代 =出家の前の段階
②独り立ちする時代(大学入学、就職など) =出家の段階
③家庭を持つ時代(結婚、出産) =仏弟子を持つ時代
④家族が巣立ち一人になる時代(死に至る) =死んで釈尊や祖師たちの世界へ

①の

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言葉では言い表せないもの

言葉では言い表せないもの

世の中には、「言語によっては表しえない真実が、そのように顕現している」ものがあります。たとえば、「仏とは〜である」と完璧に言い表すことはできませんけれども、仏は色々な形に現れることがあったり、あるいは見えないのだが確かに在るというものだからです。すなわち、ある一つの言い方(「仏とは〜である」)では表現しきれないからです。

そこで、禅宗では仏、仏心などの純粋で清浄なるものを、「恁麼」(いんも)とか

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茶道にも修行がある

茶道にも修行がある

茶道は、もともと京都大徳寺を原点として発展してきたものです。名前に「道」があるように、単にお茶を飲むだけにとどまらず、茶の道を追求するのが茶道です。要するに、茶道にも修行が必要だということです。

そのために、七つの式作法を、禅語をもとに作り上げたと言われています。今回は、その基本的な考え方とはどのようなものなのかを記してみたいと思います。

・やりとりを互いに細かく心眼をもって看(み)よ= 互換

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修行で何ができるようにするのか

修行で何ができるようにするのか

禅寺の修行は、かなり厳しいものと言われています。いったい、何を求めようとしているのでしょうか。

禅の世界では厳しい修行を経て身に具えるべき自在のはたらきとして、以下の七つをあげています。(種伝鈔という書に「七事随身」があり、茶道に適用された)

①大機大用(たいきだいゆう)   相手を見抜くはたらきの機と、
   相手に対してはたらきかける用。並外れた巧みで大きな能力。
②機弁迅速(きべんじんそ

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ひとの道を向上する

ひとの道を向上する

私たちは、人格向上のために多大なる努力をしています。ここに言う「向上」とはどのようなことを意味しているのかを、仏教の「仏向上」を例にして考えてみたいと思います。

まずは、「向上」とは、より上であることを意味します。それならば、「仏向上」は、仏より上であることを意味していることになります。

ここで「仏」とは、仏教の修行を通して至る理想者を意味していますから、「仏向上」とは、仏の境涯をも超えること

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 「法」には色々な意味がある

「法」には色々な意味がある

法(ほう)と聞くと、私たちは法律・規則などと思い浮かべます。しかし、もともとは仏教の根本思想の一つであり、サンスクリット語のダルマdharmaの訳語です。dharma は他にも達摩・曇摩(どんま)などの訳もあります。

平たく言うと「法」は、法則・性質・教・真理などの意味と、仏道修行というような道の意味と、ダルマによって支えられる一切の事象をも意味すると考えればいいでしょう。たとえば事象とは、人間

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不思議とされるものなどないのが正しい教え

不思議とされるものなどないのが正しい教え

人間には魂があって、その魂が二つに分離して二人の人間が現れるなどということを信じている人はいるのでしょうか。普通は、魂が有るとか無いということは考えても意味がないのでしょう。正しい教えは「正法(しょうぼう)に不思議なし」と言うように、奇瑞(きずい)・奇跡など一つもないのです。「奇跡や不思議現象が有れば邪教である」ということです。

それでは、昔から言われている神通力というものはあるのでしょうか。

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赤子のような心を何と呼ぶか

赤子のような心を何と呼ぶか

「大人(たいじん)は赤子(せきし)の心を失わず」(『孟子』)ということばがあります。素晴らしい徳のある人は、赤子ないし幼児の純一な心を失わない人という意味です。生まれたままの純粋で清浄なる心を持っているのです。

このような言い方は、色々な世界で言われています。キリスト教では、「赤子のような心でなければ神のもとに召されない」と言いますし、禅では「赤心片片(せきしんへんぺん)」と言います。

「赤心

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多くの人が持っている八つの誤った見解

多くの人が持っている八つの誤った見解

私たちが陥りやすい見解(考え方)には、八つ(グループとしては四つ)ほどあります。別に八つだけに限定することもないと思うのですが、昔から八つと言っていますので、まずは八つについて考えてみましょう。

[生と滅]
生じるとか滅するというのは、いわば始まりと終わりを言っています。始まりと終わりがあるということは、その間に変わりゆくものがあると考えられます。敷衍すれば、生も滅もまた変わりゆく一形態なのです

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