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『脱落』(短編小説)


   家に帰ると、妻の千夏が鼻歌を歌いながら、手際よくコロッケを揚げていた。妻が不自然に機嫌がいい時は決まって何かイヤなことがあった時である。

「ただいま」
「あら秀ちゃん、おかえりなさい」
「いいにおいするな」
「もうすぐ肉じゃがコロッケできあがるよ」
「了解。風呂入ってくるね」
「わかった」

   風呂から出ると、タイミングよくお腹がなった。リビングの食卓はすでに妻の手料理で彩られていた。

「おいしそう。今日は豪勢だな」
「なんだか今日はちょっとはりきっちゃったの」
「なんかあったの?」

   妻がこのタイミングで聞いてほしいのはわかっていた。いいことがあったらご馳走を食べるなんて誰が決めたのかは知らないけれど、イヤなことがあった時であってもご馳走を食べていいのだ。むしろ後者の方が食べるべきだと思う。

「またダメだった」
「そっか」
「・・・私、諦めるよ」
「審査員は見る目ないな」
「今回ダメだったら諦めるって決めてたし」
「本当にいいの?」
「うん、私、作家にはむいてないんだと思う」
「運もあるだろうし」
「運じゃない!実力だよ。実力で負けたんだよ私は」

   その一言に、運なんかで負けてたまるか、という妻のプライドが垣間見えた気がした。

「まあ、そんなにスッパリ決めなくても、またいつか書きたくなったら書けばいいんだよ。新人賞に年齢制限はないんだし」
「それもそうよね」
「ほら、インディーズバンドみたいに、活動休止ってことにしておけばいいじゃん。あくまで解散とは言わない」

   意外にも妻の表情は晴れ晴れとしているように見えた。

「ねえ、秀ちゃんは何かを諦めたことある?」
「今までの人生、数え切れないほど諦めたよ」
「例えば何を諦めたの」
「そうだな・・・」
「あっちょっと待って。今から、諦めたものを順番に言っていこう」

   このままキャッチボールが始まれば、お互いに言いたくないことも言わなくてはいけなくなるような気もして、少し躊躇する。

「じゃあさ、細かいツッコミはなしというルールで」
「了解!」
「千夏、お先にどうぞ」
「えっずるい」
「言い出したのは千夏だろう」
「じゃあね、私が諦めたもの。作家になる夢」
「それはさっき話したばかりだからノーカウントだ」
「そんなルールはありません」
「ったく・・・」

   そんなやりとりをしながら、僕は自分の人生を遡っていた。諦めて、新しい道を探して、また諦めて・・・といった繰り返しの中で自分は生きてきた気がする。

「習字の金賞」
「秀ちゃん、字が綺麗だもんね」
「うん。小学生の頃、どれだけ頑張っても銀賞止まりだった」
「じゃ、私の番ね。ピアノ教室」
「ピアノ?」
「小さい頃、家が貧しかったからピアノ習わせてもらえなかったんだ」
「そうなんだ。俺の番か。えっと、プロ野球選手」
「初耳だ」
「小学生の頃ね、テレビで戦力外通告の番組を見てね、子供ながらにふんわりと持っていた夢がはじけたんだよね。はい。じゃ、千夏」
「うーん。思っていた以上に、パッと出てこないもんだね。あ、就職だ」
「就職?」
「そう。大学の就職活動で第一志望の出版社に落ちて。っていうか、もともと会社に入るっていうことにそんなに興味がなかったんだけどね。その時、私の人生の選択肢として就職っていうのは消えたんだ。諦めと言っていいのか、見切りと言っていいのかわからないけど」
「で、フリーのライターになったんだったよね。俺の番か。まわってくるの結構早いな。えーっと、イケメン」
「イケメン?」
「小学校の高学年くらいになると、女子たちの間で『好きな人は◎◎君』みたいな話題が盛り上がってくるんだよね。で、少しずつ気づくんだ。自分はイケメンの部類には入らないんだって。ほら、どうみたってジャニーズではなく、お笑い芸人の顔だろう」
「ぷぷっ」
「笑いやがって」
「じゃ、私ね。若さ、かな」
「若さ?」
「20代後半になってきて化粧のノリも悪いし、20歳前後の女の子たちのプリプッリのお肌にはもうなれないの」
「へえ女子も大変なんだな」
「女子は誰もが通る道だと思うけどね」
「大金持ち」
「え?」
「俺は今からどう頑張っても月旅行にも行けないし、バスキアの絵画を買うこともできないし、都内の一等地に自宅を持つなんてできないから」
「私は妻としてそんなの求めてないけど?」
「へへへっ」
「はい、じゃ私ね。初恋の先輩」
「おおっ出た、恋の話」
「私が中学二年の時にね、部活の先輩のことが大好きで、卒業式の前あたりに帰り道で待ち伏せして告白しようとしたんだけど、同じ学年の女の子と仲良く一緒に帰っていて。家に帰って泣いたなあ」
「へえ。あまり突っ込まないでおくわ」
「ああっ、肉じゃがコロッケが甘酸っぱくなりそう」
「・・・中学時代の初恋の人」
「え、秀ちゃんも?」
「うん。でも遠くから見るだけでほとんど話したこともなくて、結局何も言わずに卒業して気持ちも薄れていった」
「奥手な中学生だったんだね」
「ピュアな中学生と言ってくれ」
「強さ」
「強さ?」
「私ね、子供の頃からちょっとしたことで感情的になってすぐに泣く子で、それは大人になってからも変わってなくてね。ああ、私は心が弱い星のもとに生まれたんだって気づいた。自分にないものを求めようと努力しても大して変わらなくて。で、もうこんな自分でいいやって思ったら気が楽になった」
「涙もろいのはいいことだよ」
「ありがとう」
「俺の番か。世界放浪」
「そうなの?」
「うん。10代後半の頃、夢見てたんだ。いつか3年くらいかけて世界一周したい。人生は一度きりだ。世界中のいろいろなものを見たいなんてね」
「諦めたんだ」
「現実にはお金も時間もかかるしね」
「・・・おいっ秀一、諦めんなよ」
「でもなあ」
「でもだってしかしとはいえじゃないよ。諦めなくてもいいでしょ。いつか私と一緒に行こうよ」
「これから子供ができて子育てしていつか巣立っていったその時、俺たち何歳になってるかな」
「歳は関係ないよ」
「千夏だって作家諦めるとか言ってただろ」
「そうよ。でも今決めつけるのをやめた方がいいって秀ちゃんが言ったから、私も同じことを言ったのよ」
「ああ、そっか、なるほど。えっと、次どっちの番だったっけ」
「私だ。んー、なんだか数え切れないほど諦めてきたのは間違いないんだけど、すぐに出てこないよね。これってつまりさ、忘れちゃうくらいのものがほとんどなんだよね」
「そうだな。“諦める”の次の段階が“忘れる”なのかもしれないな。あ、諦めるの前に“受け入れる”っていうのもあるのかも」
「そう考えると、人ってさ、歳を重ねるたびに、常識とか世間体とか安定とか地位とかいろいろなものに縛られていくけどさ、夢とか理想とかの「諦め」を重ねるたびに自由になっている気もするよね」
「何が自由なのかわからなくなってきたなあ。でも、夢という大きな魔物を心に宿している間は決して自由じゃないんだよな」
「・・・なんだか秀ちゃんと話してたら、新人賞落ちたショックが飛んでいった気がするよ」
「俺も世界放浪っていう夢が、ふたたび目の前に姿を現した気がしたよ」

   人は誰もが諦めながら生きている。諦めて諦めて諦め続けて、いつか最後には「この世」を諦めて、本当の意味で自由になるのかもしれない。

   肉じゃがコロッケは、もうすっかり冷めていた。

(了)

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