「ファイト!」第5話。

 それから少し経った、ある日の午後。授業と授業の間の休み時間。侑里と綾乃が二人で一階の科学室に行くために、三階の教室から移動していた。侑里は昼休みに買った、飲みかけの「まっしろ」を手に持っていた。それを見て、「慎吾君、元気かな?」と綾乃が思い出したように言う。
「こないだは元気そうだったよ」
「こないだ?」
「こないだカラオケ行ったでしょ?あの帰り道にね、駅で慎吾君と会ったの」
「へー、そうなんだ。なんか話した?」
「前にケンカしてたでしょ?三対一で」
「うん」
「あの日さ、花壇のお花が荒らされてたでしょ?」
「そうだったね」
「あれね、あの三人が花壇を荒らしてたんだって。それを怒った慎吾君が殴られて、ケンカになったんだって」
「…あの激しいケンカの原因が、お花なの?」
綾乃が笑う。侑里も「ね、私も思った」と笑った。
「でも、優しいね」
「うん。夜遅いからって、疲れてるのに家まで送ってくれたし」
「へぇ…、優しいね」
「…あ、噂をすれば」と侑里が人差し指を出した。その先には、二階のフロアから一階に下ろうとする慎吾が見えた。
「あ、ほんとだ」
「慎吾さ…」と、侑里が声をかけようと一歩踏み出した。しかし、「侑里、危ない!」と綾乃が侑里のブレザーを掴んで後ろに引っ張った。「え?」と引かれながら綾乃の方を振り返ると、侑里の視界の端を何かがかすめた。そして、「どん!」という音がしたあと、「うぉぁぁぁあああああ!」という叫び声が聞こえた。
「え、なに!?」
驚く侑里に、綾乃も「あの二人が、飛び蹴りで慎吾君を突き落とした…」と驚いた様子で伝えた。綾乃の目の先には、ニヤニヤと薄笑いを浮かべる二人の男子生徒がいた。あの時、慎吾とケンカをしていた三人の、一年生二人だった。侑里は、その二人の様子に恐ろしさを感じ、恐怖で体が震え、無意識に綾乃に体を寄せていた。
 その時、その男子二人に「おー、やったじゃん」と声をかける男子生徒が現れた。あの時の二年生だった。
「こいつはバケモノっすからね、こんぐらいやっとかないと」
「いやいや、上出来上出来。いくらバケモノでも、これだけやりゃあ、くたばるだろ」
その三人の物騒な会話を聞いて、侑里は「慎吾の無事を確認しなければ」と思い、なんとか体を動かそうとした。
「うそだろっ!」
「おい、まじか!」
急に三人が慌てだしたかと思うと、「ダン、ダン、ダン!」という大きな足音が階段下から聞こえた。そして大きな体が二年生の頭に突っ込み、二年生は叫び声をあげながら遠くまで吹っ飛んだ。
「お返しですよ、先輩」
慎吾が、遠くに吹っ飛ばした二年生に向かって言った。慎吾は三歩で階段を駆け上がり、同じく飛び蹴りで反撃を返していた。侑里は、慎吾が無事であることへの安心と、慎吾の体の強さへの驚きが混じり、頭の中が少しパニックになった。
「この、バケモンがっ!」
一年生の一人が威勢よくそう叫んで慎吾の腹にパンチを入れたが、慎吾は微動だにしなかった。そして、そいつの髪の毛をつかんで顔面にパンチを入れて吹っ飛ばし、もう一人の一年生にぶつけた。ぶつかった二人が「うわっ!」と声をあげて床に倒れる。綾乃が、「さすが」と楽しそうにつぶやいた。
「お前ら、しつこいんだよ」
慎吾がうんざりしたように言い、最後に「はぁ…」と息を吐いた。その姿は、慎吾が時々見せる気が立っていて近寄りがたい姿だった。
「三匹の子豚がよぉ…」
慎吾のその一言に、綾乃は「ぷっ」と噴き出し「上手い事言うな」と笑った。腹を立てた子豚たちが、「なんだと、こらぁ!」と三人同時に叫んで立ち上がった。それに対し慎吾は「ブヒブヒうるせぇよ」とつぶやいた。
「てめー、ぶっ殺す!」
二年生のその言葉を合図に、三人が慎吾を襲い、乱闘が始まった。ケンカが激しくなるにつれてヤジウマも集まりだし、前の時のように騒ぎが大きくなっていった。
「大丈夫かな、慎吾君」と侑里がこぼすが、綾乃は「いやいや、大丈夫でしょ」と平然と言った。「でも、ちょっと…」と侑里が慎吾に心配の目を向けた。確かに、前の時と同じように慎吾が押している。明らかに三人が劣勢で、数では不利なはずの慎吾が勝っている状況にヤジウマも盛り上がっている。しかし、侑里の目に映る慎吾は、ものすごく疲れていた。前のケンカの時のような活発さがない。帰り道の時のような元気も感じられない。かなり無理をして戦っているように見える。
 だから「止めなくちゃ」と思う。そう思うのに、周りの空気と、ケンカが怖くて体が動かなかった。松下が来てくれる事を心で祈っていた。
 しかし、侑里の心配をよそに結果は前と同じだった。一年生二人はぐったりと倒れ、慎吾に胸倉をつかまれた二年生が顔を何度も殴られるという前と同じ光景が広がった。
「お前ら、またやってんのかっ!」
その時、大きな怒鳴り声が聞こえた。科学科の背の低い男性教師だ。その声を聞いて、ヤジウマたちはまた一目散に解散し、侑里と綾乃だけが残った。そして、慎吾も前と同じように、手に掴んだ二年生を放り投げた。
「お前、いよいよいい加減にしろよ?」
男性教師が慎吾の前に立つ。相変わらず、みっともなく教師が生徒を見上げていた。
「はぁ…」
慎吾は、前のように反抗はせず、大人しくしていた。侑里には慎吾の目が、何かを諦めたような、そんな目に見えていた。
「ちょっとこい」と、男性教師が慎吾の腕を掴んで引っ張った。慎吾も抵抗せずに、引かれるまま歩き出した。
「あ、あの…」
「助けてあげなきゃ」と思った。「先に手を出したのはあっちです。悪いのはあの三人です」と伝えなければと思い、侑里が一歩前にでた。慎吾が侑里に目を向ける。しかし同時に、「なにやってんの、行くよ」と綾乃が侑里の手を引いた。
「でも、慎吾君…」
「あんなバカに怒られたって平気でしょ。次の授業遅れるよ」
そう言って綾乃が侑里の手を引いた。侑里は、綾乃に抵抗できずに引っ張られた。その時、慎吾が侑里から「さっ」と目をそらした。
「あ…」
その目が、侑里の頭にこびりついた。

 侑里は、その後の授業はずっと慎吾の事が気になって集中できず、ぼーっとしていた。あの時、強く出れなかった自分を悔いていた。人を守れなかった、救えなかった。悪くない人が、悪者になってしまった。自分が動けていれば、慎吾が悪者になることもなかった。しかし、動けなかった。
「本当は、ああいうトラブルはまずいんですけどね」
この間、そう話していた。もしかして、おまわりさんになるという夢が絶たれてしまったのではないだろうか。
机の端っこに置いた「まっしろ」が目に入る。

『あじがどうごじゃいます』

あの日の、慎吾の一言にはすごく救われた。自分の行動に意味を持たせてくれた。慎吾は、自分を救ってくれた人で、お花のために怒ってくれた人だ。その人を、救う事が出来なかった。

授業が終わり、校舎を出る。正門の隣。ラナンキュラスがキレイに咲いていた。
  

 「ただいま」
家に帰り、おかあさんの前に座った。

「…ごめんなさい」

思わず、おかあさんに謝ってしまう。
「こないだね、『ありがとう』って言ってくれた人がいたの。私にね、感謝してくれた人がいたの」
おかあさんは、微笑んでいた。

「でもね、私はその人を、助けてあげられなかった…」

おかあさんを見る。おかあさんは白いラナンキュラスのブーケを、手で抱きしめるように大事に持っている。

 スーパーで、母親に抱かれる小さな女の子を思い出した。あの女の子は、おかあさんの手伝いをして、「とってもいいこ」と抱きしめられていた。今の自分に、おかあさんに抱きしめてもらう資格なんて、あるだろうか。

「…ごめんなさい」

もう一度、おかあさんに謝った。

「いいこじゃなくて、ごめんなさい」

おかあさんは、優しく微笑んでいた。


 朝。
いつも通り、侑里は父親と自分の分のお弁当を作り、朝ごはんを食べ、学校に行く準備をした。
「お、おはよう」
父親が起きてきた。寝ぼけ眼で、寝癖が立っている。
「おはよう、学校行ってくるね」
侑里が、そう返事をした。
「…大丈夫か?」
父親が侑里の顔を覗き込んだ。自分の気持ちを見抜かれた侑里は、父親に心配をかけてしまうと思い、「うん、大丈夫だよ。お弁当、そこ置いたからね」と父親の目をお弁当に向けさせた。
「いつも悪いな」
「そんな、謝らないでよ」
「しんどい時は、無理して作らなくていいからな」
「…うん」
侑里のその声は、小さかった。
「行ってきます」
そう言って、家を出た。

 その日も、侑里は一人で学校へと向かった。暗い気持ちで独りで歩いていると、学校までの道のりがやたらと長く感じた。

 授業が始まり、席について教科書を広げる。授業中も、どうしても頭の中のモヤモヤを無視できず、考えてしまう。
父親も友達も、みんな自分を「優しい」と言う。しかし、そのあと必ず「心配だ」と続く。そんなものが、本当に「優しさ」なのだろうかと思った。

「しんどい時は、無理して作らなくていいからな」

父親の気遣いからの一言だという事はわかっている。しかし、その言葉は、「あってもなくても変わらない」と言われているように思えてしまった。

しかし、その通りかもしれないと思った。今まで自分がしてきたことは、譲っているだけだった。赤いリボンの女の子に譲ったおやつも、受験も部活も委員会も。そして、あの日のココアも。自分が生み出したものを人に与えているわけでも、自ら率先して人を助けているわけでもない。はじめから、自分がいなければいいだけの話だった。

 周りを見渡す。先生は授業を続け、生徒たちは黒板の内容をノートに写したり、周りの生徒とふざけ合ったりしている。
自分が、いてもいなくても何も問題なく流れているその景色を見て、自分なんて本当は存在していないんじゃないかというような、そんな錯覚を覚えた。

 放課後。侑里は校舎の隣の、レンガ造りの花壇にじょうろで水を撒いていた。花壇を見下ろす。水を浴びたラナンキュラスは、その花言葉を表わすように美しく咲いていた。
「…はぁ」
水を撒き終えた侑里は、なんだか疲れてしまい、花壇を作るレンガの上に腰を下ろした。侑里とラナンキュラスが並んで座る。

「侑里さん」
「わあ!」

急に声をかけられて驚き、見上げると慎吾がいた。慎吾は、「すいません」と小さく笑いながら謝った。
「こちらこそ、ごめんなさい。ぼーっとしちゃってて」
慎吾が侑里の前にしゃがみ、目線を合わせた。慎吾は、数か所青あざを作り、絆創膏を何枚も貼っていた。襟元から湿布がはみ出して見える。昨日のケンカのダメージだろうか、それとも今日もケンカしたのだろうか。もしくは、バイトで負ったケガだろうか。
「あの、のど乾きませんか?」
傷だらけの男が、そう聞いた。それは、「乾いてないと困る」というような言い方だった。
「…乾きましたね」
思わず、そう答えていた。本当は喉など乾いていない。そんな事を気にする余裕なんてなかった。なのに、「乾いた」と答えた。「こんなところでも、私は譲ってしまうんだな」と思った。
「良かった」
慎吾はそう言って笑うと、自分のバッグから「まっしろ」を取り出した。そして、「あの、これ、どうぞ」と侑里に差し出した。
「こないだ譲ってもらったお返しというか、お礼というか。もらってください」
「…いいんですか?」
「はい」
「…ありがとうございます」
侑里がココアを両手で丁寧に受け取った。ココアはよく冷えていて、心地いい冷たさが手に伝わってきた。
 それを見て、侑里は思った。慎吾はちゃんと、自分のしたことに対してお礼を返してくれた。しかし、自分はそれができなかった。
「…ごめんなさい」
謝罪の言葉が、侑里の口をついて出た。慎吾は、「…なんで謝るんですか?」と不思議そうな顔をした。
「私、見てました。昨日、慎吾さんが階段から落とされる所」
慎吾は、侑里が何を言おうとしてるのかつかめず、「…はい」と返事をした。
「だから、慎吾さんが先に手を出したんじゃないって知ってました。でも、慎吾さんが先生に連れていかれるとき、それを言えなくて…」
「いや、それは侑里さんが謝ることじゃあ…」
侑里が、少し大きく息を吸った。
「強く出れないんです。引いちゃうんです、譲っちゃうんです。私は、それだけの人間なんです。慎吾さんが言ってくれたような、優しい人間じゃないんです」
「それで、慎吾さんを助けてあげられませんでした…」その一言を言うのと同時に、侑里の目から涙が流れ始めた。呼吸が荒くなり、言葉がたどたどしくなる。涙と一緒に、言葉も啖呵を切ったように溢れてくる。
「慎吾さんはおまわりさんになるから、ああいうトラブルはまずいって知ってるのに、私は助けてあげられませんでした。悪くない人が悪者にされそうになってるのに、それを止められませんでした」
そこで、もう一つ息を大きく吸った。
「私がこんな性格のせいで、今まで、おとうさんに迷惑をかけて、友達に心配をかけてきました。でも、どうしていいかわからなくて…」
「ごめんなさい…」と、苦しい呼吸の中、もういちど謝罪の言葉を口にすると、両手で顔を覆った。
 侑里の謝罪のあと、どちらも何も言わない、静かな時間がしばらく流れた。侑里は涙を流し、慎吾は、侑里を見守っていた。

一瞬、やさしい風が吹いた。春の終わりのそよ風が、二人の体を温かく包んだ。

「ある村に、ラナンキュラスという名前の青年がいました」

慎吾が物語を語りだした。侑里は少し戸惑ったが、侑里が何かを言う前に慎吾は物語を続けた。

「ラナンキュラスには、ピグマリオンという友人がいました。
あるとき、二人の住む村に、コリンヌと言う名前の少女が移り住みます。美しいコリンヌに、二人は恋に落ちました。

そしていつの日か、コリンヌはピグマリオンに恋をします。その事に、ラナンキュラスはすぐに気づいてしまいました。

愛した女性と、自分の親友。どちらにも幸せになってほしい。そう思ったラナンキュラスは、自分の気持ちを譲って、身を引いて、その村を去り、ふたりの前から姿を消しました。

その後、ふたりは結ばれます。そして、二人の結婚式には、ラナンキュラスから、この花の花束が贈られてきたそうです。

その青年の優しさが由来となって、ラナンキュラスには『美しい人格』っていう花言葉がつけられたんです」

物語を語り終えると、慎吾は侑里の目を見て、「ギリシャ神話らしいです。昔、絵本で読みました」と小さく笑った。

「ラナンキュラスは、侑里さんにピッタリだと思います」

そう言われ、侑里は、「この人は、落ち込んでる自分を元気づけるために話をしてくれたんだ」と思った。そして、自分が宝物にしている「美しい人格」という花言葉の由来が知れた事は嬉しかった。しかし、その青年が譲ったのは、愛した女性だ。
「私が譲ったのは、ココアですし」
侑里がそう言った。その青年とは、大きく違う。
「でも、魔法でしょう」
侑里が、慎吾の目を見る。慎吾は「侑里さんが譲ってくれたものは、自分を幸せにする魔法でしょう」と言葉を続けた。
「俺は、その魔法に救われたんです」と言うと、慎吾は一度目を伏せた。
「侑里さんが、ココアを譲ってくれた時。あの時期、おれ本当にいい事が無くて…。バイトでは理不尽に怒られるし、学校じゃアホなやつらに絡まれるし、駅じゃ変なヤツに因縁吹っ掛けられてイライラするし」
「でも、家じゃそんな事こぼせないし…」と、慎吾が一瞬目に暗さを浮かばせた。しかし、その暗さはすぐに消えた。
「でも、このココアの事思い出して。この甘いココアを飲んで、自分に一つ『いい事』を起こして、それで今までの『悪い事』を、全部チャラにしようと思ったんです」
侑里はあの日、自分も同じ気持ちでココアを求めていたのを思い出した。
「でも、購買行ったら、このココアすら『ない』って言われて…」
慎吾が侑里から目線をそらした。その横顔に、あのときの辛そうな雰囲気を思い出す。
「なんでだよって、ココアだぞって。ココアですら、今の俺には手に入らないのかって思って。絶望して、目の前が真っ暗になったんです」
「でも、侑里さんが譲ってくれましたよね」と、慎吾が視線を侑里に戻した。
「本っ当に救われたんです。『あ、大丈夫だ』って。『生きていける』って思って」
「あ、だから、あんなに泣いちゃったんですけど」と、今度は照れくさそうに笑った。
「あの時の俺を救ってくれたのは、侑里さんの『譲る心』です」
「…ほんとうですか?」
譲っているだけでも、人を救えたのだろうか。
「もし、侑里さんが強い人で、自分を主張できる人だったら、俺は今頃どうなってたかわかりません」
「少し大げさだな」と侑里は思ったが、慎吾が「これは、大げさじゃなく」と心を見透かしたように否定した。
「だから、もし侑里さんが、『どうしたらいいかわからない』って言うのなら」
「はい」
「そのままでいてください。そのまま、このお花みたいな、『美しい人格』でいてください」
そう言って、慎吾が花壇のラナンキュラスを指さした。
侑里が、花に目を向ける。ラナンキュラスは美しく咲いていた。
「私が、このお花が好きなのは、」と言うと、慎吾は「はい」と話を促した。
「私のおかあさんが、ウエディングドレスを着てる写真があるんです。その写真は、ずっと私の憧れで。その写真の中で、おかあさんが手に持ってるブーケのお花が、ラナンキュラスなんです。だから、昔からずっと好きなんです」
「いいですね」と慎吾が微笑んだ。
「おかあさんによく似合ってて、すごく素敵なんです」
「うん、だと思います」と慎吾が言う。当たり前のようにそう言われたのが不思議で、「わかるんですか?」と尋ねた。慎吾は「わかりますよ」と笑って、「だって、ラナンキュラスは侑里さんですから」と続けた。
「自分の愛する我が子を抱きしめるおかあさんの姿は、素敵に決まってます」
侑里が慎吾の目を見る。
「侑里さんのおかあさんは、侑里さんの事をずーっと抱きしめてくれてるんですね」
そう言われ、もういちど花壇を見た。白いラナンキュラスが目に入り、おかあさんの写真が目に浮かぶ。

おかあさんが、だっこしてくれている。

ずっとずっと、生まれる前から、自分を抱きしめてくれていた。その姿を、見せてくれていたんだ。
侑里が目を閉じて、自分の体を両手でぎゅーっと抱きしめた。おかあさんに抱っこされているような、そんな感覚になった。体があたたかくなり、ぽろぽろと涙が流れた。
 その後、侑里はしばらく、ラナンキュラスの前で優しい涙を流した。その時流れる涙を、侑里は「止めたい」とは思わなかった。むしろ、この涙に触れていたい、このあたたかさを感じていたいと思っていた。
侑里が涙を流しているその間、慎吾は何も言わずに静かに見守っていた。やさしくて、あたたかい時間だった。
 少しの時間が経った後、侑里が目を開けた。そして、指先で涙をすくうと、手の平になじませるように両手を合わせた。
「…ありがとうございます」
微笑んで、慎吾にお礼を言った。
「私、このままでいれるように頑張ります」
「それなら、嬉しいです」と、慎吾も微笑んだ。
 そこで、侑里が気にかかっていたことを思い出した。
「…あの」
「はい」
「…おまわりさんには、なれますか?」
そう聞く侑里は心配そうだった。その顔を見て、慎吾は侑里が自分の夢を気にかけてくれたことが嬉しく、思わず頬が緩んだ。
「あのあと、音楽の先生が助けてくれたんです」
慎吾の口から松下の名前が出ると、侑里の表情に安心が見えた。
「松下先生が?」
「はい。『ちゃんと両方の言い分聞いたのか?』って助け船出してくれて」
「そうだったんですか」
「だから、俺の夢は絶たれてません」
「本当ですか?」
「はい。なので、安心してください」
「それなら、良かった」と、侑里が笑顔を見せた。
「はい。ただ、あの人は俺の事も怒りましたけど」
「…なんでですか?」
「『一瞬で終わらせるんじゃなかったのか?』って」
その一言に、侑里が小さく笑った。
「不思議な人ですよね」
「はい、でも、俺はあの人の事は尊敬してます」
「尊敬?」
「尊敬っていうか…。あの人には、強いとか弱いとか、そういう事じゃ勝てない気がするんですよね」
侑里にも、慎吾の言っている事がなんとなく理解でき、「なるほど」と頷いた。
「いい先生ですよね」
「はい、先生っぽくなくて」
そう言って、二人で笑った。

 その時、チャイムが鳴った。慎吾が校舎の時計を見る。そして、「やばっ、バイトの時間だ!」と慌てて立ち上がった。
「今日もですか?大変ですね。血も出てるので、気を付けてくださいね」と侑里が労うと、慎吾が「え?」と自分の体を確認した。侑里が「あの、胸元…」と指さすと、慎吾は「あっ!」と声を上げ、「まずい…」と深刻な顔をした。その様子に侑里は「相当痛むのかな」と思った。
「怒られる」
不安そうにこぼした慎吾のその一言に、「え?」と声が漏れた。
「かーちゃんに怒られるんですよ、『血のシミは落ちねーんだぞ!』って」
「うわ~、どうしよう」と言って、慎吾が子供のように困った様子を見せた。三人を相手に勝ってしまうこの大きな男が、母親に怒られるのを恐れているのがおかしく、侑里が「ふふふ」と笑った。
「いや、笑いごとじゃないんですって」
「大丈夫ですよ」
「え?」
「血のシミは、酸素系漂白剤で簡単に落とせます」
「まじですか!?」と喜んだ慎吾だったが、「酸素系漂白剤」がわからず、「なんですか?」と聞いた。
「あ、えっと、『ワイドハイター』って知りませんか?」
「あ、それなら見た事あるかも!」
「それで、おかあさんに見つかる前にシミを落としちゃえば、怒られません」
「良かったー!ためしてみます!」
「それじゃ!」と、その場を立ち去ろうとした慎吾に、「あ、慎吾さん」と声をかけた。「はい?」と慎吾が振り返る。

「ファイト!」

侑里が、手をグーにしてポーズをとった。慎吾も、「ありがとうございます!」と拳を握って受け取ると、その場から走っていった。侑里は、その大きな背中が小さくなるまで見送った。

 「ゆり」
「わあ!」

 また突然声をかけられ、大きな声を出してしまった。振り返ると、部活終わりの綾乃が「こんな時間まで何してんの?」と聞いてきた。「可愛らしいポーズとって」と笑った。
「ん?慎吾君がココアくれた」と、侑里がココアを持ち上げ、嬉しそうに綾乃に見せた。その様子を見て綾乃も安心し、「そっか、良かったね」と笑った。
「うん」とココアを一口飲むと、微笑んだ。侑里に、幸せになる魔法がかかる。
「本当に、良かった」

 「おかあさん」

家に帰り、侑里はすぐにおかあさんの前に座った。おかあさんの手には、真っ白なラナンキュラスのブーケが大切に抱かれている。

それを見て、侑里が座布団を「ぎゅーっ」と抱きしめた。お母さんにだっこされているような、抱きしめ合っているような、そんな感覚を再び思い出す。

「おかあさん」

娘が、おかあさんを呼んだ。

「ずーっと、だっこしてくれてたの?」

おかあさんが、笑顔を返した。

その笑顔を見て心が安心し、体がぽかぽかとしてきた侑里は、おかあさんにだっこされたまま、静かに眠った。

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