「ファイト!」第10話。

 日曜日。慎吾が侑里の家を訪れた。「いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれた侑里に「おじゃまします」と小さく頭を下げた。
「制服?」
「うん、慎吾は制服着てくるかと思って」
慎吾も侑里も、正装として学校の制服を着ていた。お互いに同じことを考えていたのが嬉しかった。「そっか」「うん」と、お互いに笑顔になった。
「オヤジさんは?」と小さい声で聞くと、「居間にいるよ」と顔を近づけた。「そっか、ありがとう」と答えると、「上がって」と家の中に招き入れてくれた。
居間に行くには、小さなダイニングキッチンを通る。キッチンを見て、ここで料理をする侑里の姿を想像した。

 居間の、ふすまの前。慎吾が「ふー」と息を吐いた。侑里が「ファイト」と小声でエールを送る。慎吾は「ありがとう」と、手をグーにして受け取った。

「失礼します」

ふすまの向こうの雄二郎に、胸を張り、腹から声を出して声をかけた。
「おう、入れ」
中から返事が返ってきた。慎吾が、ふすまを開ける。雄二郎が腕を組み、胡坐をかいて座っていた。とても鋭い目をしている。その眼光の鋭さに、侑里は少しの怖さを感じた。
「失礼します」
もう一度ハッキリとそう言い、慎吾が中に入った。侑里も慎吾の後に続く。慎吾が仏壇に気づいた。侑里とよく似た女性の笑顔の写真と、その女性がドレスを着て、手に白い花のブーケを持っている美しい写真が並んでいた。侑里がいつか、憧れだと言っていた写真だ。その女性の笑顔に、慎吾の緊張した気持ちが和らいだ気がした。
「なんて優しい人なんだ」
慎吾がそう思った時、その写真の隣に、昨日自分が贈った白い薔薇が飾られているのに気づき、嬉しくなるのと同時に、侑里を愛おしく感じた。

 「座れよ」
雄二郎が自分の目の前の座布団を示した。慎吾がまた「失礼します」と頭を下げ、そこに座った。侑里も、慎吾の隣に並んで座る。
「何の用だ?」
雄二郎のその一言に慎吾は、いま座ったばかりの座布団を外して床に直接正座をし、姿勢を正した。
「四月から、警察学校にはいる事に…」
「前置きはいらねぇ、本題に入れ」
慎吾の話を遮った父親に、侑里は少なからず戸惑った。しかし慎吾は、冷静に、床に両手をついた。
「娘さんと結婚させてくだ…」
「断る」
慎吾が、雄二郎の目をまっすぐに見た。
「必ず、守ります」
「お前じゃ無理だろ」
「オヤジさん」
「帰れ」
雄二郎が立ち上がろうとした。侑里が父親に何かを言おうとするが、言葉にならなった。慎吾が、雄二郎の肩を両手で掴んだ。
「聞いてください」
「離せよ」
雄二郎が慎吾の両手を振り払った。しかし、慎吾はもう一度肩を掴んだ。
「オヤジさん」
「話は終わりだ」
「侑里さんと結婚…」
「ダメだ」
「必ず、守ります」
「お前じゃ無理だろ」
「オヤジさん」
慎吾が、雄二郎に目を向けた。
「あなたも含めて、守ります」

ゴッ!

その慎吾の一言に、雄二郎は拳で返した。慎吾がその場に倒れ、侑里は驚いて口を両手でおさえた。慎吾が侑里を見る。その目には涙が浮かんでいた。慎吾が雄二郎に目を向けた。
「『俺も含めて』だと?」
そう言って見下ろす雄二郎の顔には怒りが浮かんでいる。その形相を見ながら、慎吾はあの時の侑里の笑顔を思い出した。あんなに嬉しそうに笑っていた侑里が、泣きそうな顔をしている。あの素敵な笑顔を消し、悲しみを浮かべさせたこの男が許せなくなった。
慎吾が勢いよく立ち上がり、雄二郎の顔を殴った。「ガキッ!」という骨と骨がぶつかる音が響く。雄二郎は「ぐっ」と声を上げ、壁に体をぶつけた。
「話ぐらい聞いてくれてもいいだろう!」
慎吾が叫んだ。雄二郎は、「てめぇ、挨拶に来てその父親ぶん殴るってどういうことだ!」と慎吾の胸倉に左手を伸ばした。それに反射して、慎吾も雄二郎のTシャツを左手で掴んだ。
「お前、言ってただろうが!殴るって事は殴り返される覚悟があるんだろ!?」
「お前、自分の立場わかってんのか!」
「そっちの立場なら何してもいいってのか!」
「この、クソガキが!」
雄二郎のパンチが慎吾の鼻っ柱に入った。慎吾の鼻から鼻血がボタボタと流れたが、Tシャツを掴んだ手は離さなかった。
「お前なんかに侑里は…がっ!」
雄二郎の言葉の途中、慎吾の拳が雄二郎の顔面をとらえていた。
「お前みたいな父親に任せてられるか!俺が守る!」
「お前なんかに守れるわけねーだろ!」
雄二郎が殴り返した。そして慎吾の胸倉を両手で掴み、顔を近づけて睨みつけた。
「今までお前が侑里を支えた事なんかあるのか?助けた事があるのか?ないだろ?侑里に支えられてばっかりのお前が、守るなんてデカい口たたくな!」
「ゴッ!」と音を立て、雄二郎の拳が慎吾の顔に入った。
慎吾は「ふっ」と口の中に溜まった血を自分の袖に吐き出してから、雄二郎の顔面に反撃のパンチを打った。「ゴツッ!」と重たい音がする。
「このやろう…」
「くそおやじ…」
二人がにらみ合い、そこから二人の殴り合いが激しくなった。二人の大きな男のケンカに小さな女の子が何をできるわけもなく、侑里は二人から離れ、恐怖で震える体を壁にくっつけた。

「この、クソガキが!」

殴り合いの最中、雄二郎の拳が慎吾の顔面をもろに捉えた。
「ゴギッ」と何かが折れたような音がし、慎吾がは「うっ」と声を上げながらその場に倒れ、仏壇のある棚に体をぶつけた。侑里のおかあさんの写真が倒れ、ココアの缶が薔薇を差したまま床を転がり、中から少しの水が零れた。
「てめぇ…」
雄二郎が慎吾に近づこうと、一歩、足を踏み出した。

「あっ…」

声をあげたのは、侑里だった。女の子の小さな声に、男二人が驚いて侑里を見た。侑里は、震える手で父親の足元を指さしている。二人の男が、その指の先を見る。白い薔薇が、父親の足の下でつぶれていた。
「お前…!」
慎吾が立ち上がって雄二郎を殴り、今度は雄二郎が体を壁に激しくぶつけた。
「お前、父親のくせに、娘を不幸にしてどうすんだよ!」
その言葉に、雄二郎の怒りは頂点に達し、怒りに任せて慎吾の顔を殴った。
「おめーみてえなクソガキが分かったような口きいてんじゃねえ!俺はな、いつだって侑里の幸せを考えてんだよ!」
殴られた慎吾が、雄二郎を睨み、そして叫んだ。

「その花は侑里の幸せだったんだ!」

その言葉に、雄二郎の怒りがまた湧き上がり、言葉を返した。
「自分の渡したものが侑里の幸せだってのか?自分の方が幸せにできるって言い…」

「『おとうさんも喜んでくれる』って言ったんだ!」

雄二郎の言葉を遮って放たれたその言葉に、雄二郎の体が固まった。慎吾が、言葉を続ける。
「『おとうさんは私を大事にしてくれたから。ずっと私の幸せを願ってくれたから。私の幸せは、おとうさんも一緒に喜んでくれる』って、そう言って笑ったんだ!」
その言葉が、侑里の声で雄二郎の頭の中に響いた。
「悔しいけどな、今まで俺が見た中で、一番幸せそうで、一番素敵な笑顔だったよ!」
慎吾が、雄二郎の胸倉を両手でつかんだ。
「ゆりは繊細で優しい人なんだ!自分の事は差し置いて、他人の事を考えて、自分のものを譲れる優しい人なんだ!そういう人が幸せ掴んだら、家族も友達も親も恋人も周りの人間全員で一緒に大事にしてあげなきゃいけないだろうが!」

慎吾が、一度息を大きく吸った。

「じゃないと、自分の幸せすら譲っちゃうだろうが!」

雄二郎は、何も言い返すことができなかった。
「お前の言う通り、俺が侑里を支えた事なんかない!支えられて助けられてばっかりだ!けど、お前もそうだろうが!侑里が支えてくれたから戦えたんだろうが!それに気づけてないクセに、『侑里の幸せ考えてる』なんてセリフ吐くんじゃねー!」

ゴッ!

雄二郎の拳が慎吾の頬に入った。慎吾は、その拳に倒されることも押されることもなく、まっすぐに雄二郎の目を見ていた。その慎吾の目に、雄二郎は思わず手を引っ込め、目をそらした。

「…出てけ」

父親が、ポツリとそう言った。「おとうさん…」という娘の小さな声が聞こえた。
「出てけ」
もう一度、そう言った。
「…侑里、行くぞ」
慎吾が雄二郎から離れ、侑里の手を引いた。しかし、小さな女の子は小さな力で抵抗した。
「ゆり?」
侑里は慎吾の目を見ると、手をつないだまま、空いてる方の手を一生懸命に伸ばした。
大きな男が二人、その手の行方を目で追った。白くて細い、か弱く小さな手が、潰れてしまった白い花に、長い時間をかけてようやく届いた。侑里は、白い薔薇を両手で大事に抱きしめた。

「…ごめんなさい」

かすかな声だったが、雄二郎の耳にしっかりと届いた。
「行くぞ」
慎吾がそう言い、二人は部屋を出た。 

 「慎吾…」
「どうにかするから」
「うん」
「絶対、どうにかするから」
「ありがとう」
二人は、慎吾の家に向かった。

 雄二郎が、倒れていた妻の写真を縦に直した。愛する妻の笑顔が見える。

「…俺、まちがえたか?」

妻は、微笑んでいた。
雄二郎が、近くに転がっていたココアの缶に気づいた。アパートの下の自販機に売っている、娘が小さな頃からお気に入りのものだった。侑里の幸せを支えていた缶を手に取る。

「あまいね」

そう言って笑う小さな侑里の笑顔が浮かんだ。

「あのね」

侑里の声が蘇る。

「みんなと仲良くしたかったの」

こんな状況は、侑里は苦手なはずだ。大嫌いなはずだ。なのに、この状況を父親である自分が作ってしまった。

 白い花に伸ばした、侑里の小さな手。みんなと仲良くするために、お菓子を譲り続けてしまった侑里。その侑里が、絶対に手放したくなかった、白い花。

「…どうすればよかったんだ?」

妻は、優しく微笑んでいた。

 「ただいま」
「おかえりー」と出迎えた恵美に、侑里が「こんばんは」と頭を下げた。恵美も、「あらあら、こんばんは」と頭を下げた。そして、どうしたらいいか、何を話していいかわからなそうな二人の様子を見て、「とりあえず、上がんなさい」と中に促した。二人は「うん」「お邪魔します」と靴を脱いで部屋にあがった。
「慎吾はまず顔洗ってらっしゃい。血だらけよ。侑里ちゃんはテーブルで待ってて」
慎吾は洗面所に行き、侑里はダイニングキッチンに向かった。お見舞いの時と違って元気な様子の恵美を見て、安心のような、嬉しいような気持ちになった。
 キッチンに行くと、朝雄がやかんを火にかけてお湯を沸かしていた。朝雄が侑里に「お久しぶりです」と頭を下げると、侑里も「こんばんは」と頭を下げて挨拶した。
「あったかいの、どれがいいですか?」
朝雄が丸い器を侑里の前に差し出した。中には、色んな味のインスタントコーヒーの粉末が揃えられている。
「わ、嬉しい。いいの?」
「どうぞ」
侑里が、器の中を眺めて選んだ。
「カフェラテ、いい?」
「どうぞ」
「座って待ってて下さい。もうすぐお湯沸きますから」
と、マグカップを取り出す朝雄を見ながら「やっぱり、しっかりした子だな」と思っていた。侑里は「ありがとう」と、テーブルについた。
「良かったら」と、朝雄が水を入れたグラスを差し出した。不思議に思っていると、「お花、差してあげてください」と侑里が手に持った白い薔薇を示した。
「…ありがとう」
侑里が、白い薔薇をグラスに差した。
「どうぞ」と、朝雄が置いたカフェラテを、また「ありがとう」と受け取る。
 その時、慎吾がタオルで顔を拭きながら入ってきた。
「かーちゃんは?」
「トイレ」
「あ、俺もカフェラテちょうだい」
「自分でやりなよ」
「けち」
兄弟のやりとりを見た侑里が少し笑った。慎吾が自分でカフェラテを淹れ、侑里の隣に座った。ブラックのコーヒーを淹れた朝雄に慎吾が「かっこつけんなよ」と言い、朝雄が「別に、かっこけてるわけじゃないよ」と返し、また侑里が笑った。
 そのタイミングで恵美がトイレから戻り、朝雄の隣、慎吾と侑里の対面に座った。朝雄に紅茶を頼み、朝雄が準備をした。
「で、どうしたの?」
恵美に聞かれ、「実は…」と慎吾がいきさつを話した。話の途中で、朝雄が紅茶を恵美の前に置き、恵美の隣に座った。話の終わりに、侑里が「ご迷惑おかけしてすいません」と頭を下げた。恵美が「ふー」と息を吐いた。
「わかった。今日は、かくまってあげます」
侑里が、もう一度頭を下げた。
「ただし、条件があります」
恵美が真剣な顔になった。「いや、向こうのオヤジに連絡とかは勘弁してくれよ」と慎吾が言った。恵美は「そんな事しないわよ、めんどくさい」と切った。その返事に慎吾は、「はぁ?」と間の抜けた声を出した。
「はぁ?ってなによ。連絡して欲しいの?」
「いや、そういうんじゃねぇけど」
「いや、向こうのオヤジさんも心配してるかもよ?」
朝雄が言うと、恵美は「そりゃ、そうでしょ。親なんだから」と言った。
「あのね、あんたたちは親の愛情をなめすぎよ。親はいつだって子供が心配なの。連絡一本入れたぐらいで、心配しなくなるわけないでしょ」
それを聞いて、侑里はうつむいた。その侑里を、慎吾が心配そうに見つめる。
「ゆりちゃん」
恵美が声をかけ、侑里が顔を上げた。
「おとうさんが心配なんでしょ?」
侑里が恵美の目を見る。
「自分を心配してるんじゃないかって、心配なんでしょ?」
「…はい、少し」
恵美が、鼻から息を漏らした。少し、微笑んだようにも見える。
「おとうさんは、きっとものすごく心配しています。でもね、子の心配をするのは親の仕事。そこからは逃げられないの。それは、子を産んだ以上、親の責任なの」
侑里が戸惑いつつも頷いた。
「親は、子供の心配をするのが仕事。子供は、どうすればいいと思う?」
「心配をかけないように…」
「ちがうよ」
恵美が微笑んだ。侑里がその笑顔を見る。
「心配してくれたってことに、感謝さえすればいいの。『ありがとう』って伝えればいいの。それで、お父さんの心配は報われるから」
そう言われ、侑里の不安は少し溶けた。しかし、家の中で独りでいる父親を想像すると、申し訳なさを感じた。
「でも、おとうさん、ひとりで…」
「ひとりじゃないでしょう?」と恵美が遮った。侑里が「え?」と声を漏らす。
「おかあさんがいるでしょ?」
そう言われて、居間で微笑むおかあさんの姿が浮かんだ。
「たまには、夫婦水入らずもいいんじゃない?」
そう言って、恵美が微笑んだ。侑里も、恵美の目を見て、「そうですね」と微笑んだ。おかあさんが見守ってくれているなら、安心だと思った。

 「…ん?じゃあ、条件って何よ?」
慎吾が本題に戻した。
「侑里ちゃん」
「はい」
「これからは、私を『おかあさん』って呼びなさい」
「なんだ、それは」と慎吾が言うと、子供三人が笑った。
「いいじゃない。娘に『おかあさん』って呼ばれてみたかったのよ」
「出来る?」と侑里に問いかけると、侑里が微笑んだ。
「わかりました、おかあさん」
恵美が腕を組んで、「うーん。それじゃ、だめね」と不合格をつきつけた。侑里は「えっ」と驚いた後、数秒考えて、そして、笑顔で言った。
「わかった、おかあさん」
恵美は大きくうなずいて、「それでよろしい」と、満足げに言った。

 「じゃ、晩御飯つくろうか」と恵美が立ち上がる。
「慎吾、買い物行ってきて」
「お」
「あ、じゃあ、私も…」
侑里が立ち上がったが、恵美は「だめ」と止めた。
「侑里ちゃんは、こっち」
そう言って、台所を指さした。
「はい、おかあさん」
侑里がそう返事をすると、恵美が侑里の目を見た。
「いいわぁ~、今の。可愛いわぁ~」
恵美が、娘からの「おかあさん」を噛みしめた。そしてもう一度、「こっち手伝ってくれる?」と言った。侑里はまた、「はい、おかあさん」と返事をした。
「いいわぁ~。何回聞いてもいいわぁ~」
恵美のその様子に、慎吾が笑いながら「で、何買ってくりゃいいのさ」と聞いた。
「なんでもいいよ」
「こっち適当過ぎない!?」
慎吾のその一言で、全員が笑った。

「何食べたいのよ?」
「ん…」と慎吾が悩んだ。悩んだまま、慎吾が侑里の顔を見た。そして、「あ!」と思いついた声を出した。
「侑里」
「ん?」
「侑里の餃子が食いたい」
そう言った慎吾に、恵美が「餃子じゃ明日、口におうでしょ」と言った。
「いや、侑里の餃子は匂わないんだってさ」
「そうなの?」
「はい」
「えー、私も食べてみたい」
「いいですよ」
「何がいる?」と恵美が冷蔵庫を開けた。侑里も中を覗き込む。
「あとは、ひき肉と…」と侑里が言うと、恵美が「ちょっと待って」と冷凍庫を開けた。そして、「あ、あるよ」とラップに包まれたひき肉のかたまりを取り出した。
「豚でいい?」
「はい、大丈夫です」
「あとは?」
「あとは、餃子の皮と…ごま油ありますか?」
恵美がごま油を確認した。量が少しこころもとない。
「何に使うの?」
「餡に少し混ぜるのと、あと、ごま油で焼くと香りがつくので」
「そっか、じゃあちょっと足りないな。慎吾買ってきて」
「餃子の皮とごま油ね」
「行ってきます」と言って慎吾は靴を履いた。

 「どうしましょうか?」
慎吾が買い物に出かけると、侑里が恵美に声をかけた。しかし恵美は、「その前に、ちょっといい?」と部屋に引っ込んだ。そして、戻ってくると、「侑里ちゃん、この薔薇、押し花にしない?」と言った。
「え?」
「うん、このままじゃかわいそうだわ。でも、押し花にしたら長持ちもするし、キレイにしてあげられるから」
「こんな感じになるんだけど」と、恵美が何枚かの押し花を見せた。フィルムでラミネート加工され、たくさんのお花がきれいな姿に生まれ変わっている。
「わ、キレイ」
思わず、そう声がこぼれた。
「どうかしら?」と恵美が聞いた。侑里は、この薔薇もこんな風に綺麗に生まれ変わらせてあげたいと思った。
「うん。やってみたい」
「いいね。じゃ、やってみようか」
 そこで朝雄が部屋から出てきた。
「見ててもいいですか?」
朝雄が侑里を見る。侑里は「うん、一緒にやろう」と微笑んだ。
「じゃあ、ベランダからアネモネひとつとってきて」
「色は?」
「なんでもいいよ」
「わかった」
朝雄がベランダにある鉢植えから、アネモネを一輪つんでとってきた。色は赤だった。その花を見た侑里が、「わ、かわいい」とつぶやいた。

 「まずは、こんな感じに…」
そう言って、赤い花にハサミをいれた。
「薔薇はアネモネとちがって花弁が多いから、一枚一枚剥がしてみて」
「うん」
侑里が一言「ごめんね」と謝ってから、ハサミを入れる。白いバラが、花びら、茎、葉に分かれた。
「上手」
恵美が侑里の手際を褒めた。侑里が「うん」と照れくさそうに笑った。
 次に、三枚重ねたキッチンペーパーの上に、花びら、葉、茎を丁寧に並べ、そして、その上からまた三枚重ねたキッチンペーパーを被せた。
「朝雄、アイロン取ってきて」
「アイロンね」
そして、低い温度に設定したアイロンを上から押しあてた。均一に力が加わるように両手を重ねて三十秒待つ。
「さ、どうかな」
一度、キッチンペーパーを開き、中の花びらに触れる。恵美に倣って、侑里も白い花びらに触れた。
「どう?」
「まだちょっと、湿ってるかな」
「じゃ、もう一回」
再びキッチンペーパーを重ね、次は十秒、アイロンを当てる。また花びらの様子を確認し、完璧に乾くまでその行程を繰り返した。三回繰り返すと、侑里が「いいと思う」と言った。
「ぱりぱり?」
「うん、ぱりぱり」
「よし」と言うと、「じゃあ、ペーパーを変えよう」と花びらたちをペーパーから剥がした。侑里も、白い花びらを丁寧に剥がす。
恵美が「朝雄、分厚い本二冊ない?」と聞いた。
「どんなの?」
「漫画の雑誌みたいなのでもいいんだけど」
「待ってて」と朝雄が自分の部屋に入った。その間に二人は花びらたちを新しいキッチンペーパーに包んだ。
「これでいい?」
朝雄が、国語辞典と漢字辞典を持ってきた。漫画の雑誌じゃなく辞典を持ってきた事に朝雄らしさを感じていた。どちらもボロボロに使い込まれ、付箋が何枚も貼ってあった。その二冊が、朝雄が勉強家である事を物語っていた。恵美が「ばっちり」と受け取った。
「どっちにする?」と恵美が聞くので、「じゃあ、こっち」と国語辞典を受け取った。
「何か変わるの?」
「ううん、何も」
その返事に、侑里が笑った。そして、国語辞典の間に花びらを包んだキッチンペーパーを挟んだ。
「じゃ、これでちょっと置いておこう。続きはあとでね」
「うん」
「じゃ、晩御飯作ろうか」
「はい、おかあさん」
その返事に、恵美がにやけた。

 押し花の作業を終えた二人は、料理を始めた。朝雄が「手伝うよ」と言ったが、恵美から「宿題やったの?」と言われ、「あ!」と慌てて部屋に戻った。恵美が「まったく、うちの男どもは…」と嘆き、侑里が笑った。

 「お米は何合?」
「十合」
「そんなに?」
「うん。下手すると足りない。うちにはバケモノがいるから」
「そっか、そうだね」と笑った。
 キャベツと小葱を刻み、豚ひき肉と合わせて餡をつくる。恵美が手で仰いで匂いをかいだ。
「ほんとだ、いい匂いね」
「でしょ?」
「ニンニクとニラなしで、しっかり味ついてるね」
「おいしいよ」と侑里が笑った。

 「ただいまー」
二人が味噌汁を作っている所に、慎吾が買い物から帰ってきた。
「おかえりー」と、母と娘の声が重なり、二人が「ふふふ」と笑った。その新鮮な光景に、慎吾も少なからず幸せを感じた。
「ちゃんと買ってきた?」
恵美にそう言われ、慎吾は「おう」と返事をした後、「かーちゃん、ちょっと」と手招きした。
「ちょっとごめんね」と侑里に料理を任せ、恵美はその場を離れ、慎吾と小声で話し出した。二人の小さな声は料理の音にかき消され、侑里には話の内容は聞き取れなかった。
「頼んだ」
「わかった」
そんなやりとりが聞こえた気がしていた。

「あんた、ココアも買ってきたの?」
「うん、後でみんなで飲もうよ」
侑里が、嬉しくなった。
「あと慎吾、ラー油ないや」
「ん?」
「買ってきて」
「え~、また!?」
「いいから行ってこい!」
「気付いたんならメールしてくれればいいだろ!」と笑いながら、また靴を履く慎吾を侑里が呼び止めた。
「慎吾」
「んー?」
「水餃子と焼き餃子、どっちがいい?」
「もう、煮るやり焼くなり好きにしろっ!」
そう笑って、外に出た。侑里も笑った。恵美は「煮るじゃないくて、茹でるだろ」とつぶやいていた。

 「さすが、侑里ちゃん手際いいわね」
「ありがとう」
おかあさんと二人で、慎吾が買ってきた餃子の皮に餡を包む。恵美も侑里も手際が良く、みるみる餡は減っていった。最後に残った餡は、一つ分には多く、二つ分には心もとない量だった。
「二つ作れるかな?」
「いいよ、入れちゃえ入れちゃえ」
おかあさんがそう言い、侑里は残りの餡を全部皮の上に乗せて包んだ。餡の量が多すぎて、餃子の皮が破れてしまった。「あ、」と声が漏れる。
「大丈夫」と笑い、おかあさんが手を出した。
「こういう時は、水をつけて貼り付ければ…」
「本当だ、直った」
「これは、慎吾のね」
「怒らないかな?」
「侑里ちゃんが作ったって言えば、喜んで食べるわよ」
「そうかな」
「多分、焼いてなくても食べるわよ」
「それは怒るよ」
「食べるわよ」と笑うおかあさんの声が聞こえた。

「かなぁ?」

侑里が隣を振り返った。隣には、笑顔のおかあさんがいた。
「文句なんか言わせないわよ」
おかあさんが、微笑んだ。
「うん」
侑里も、微笑んだ。

 「ただいま~」
慎吾が、本日三度目の帰宅をした。焼き餃子の美味しそうな匂いが慎吾の鼻をつつく。「いい匂いするなぁ」とつぶやいた。
「はい、ラー油」と、侑里に渡した。侑里が「ありがとう」と受け取る。
「他に足りないもんないだろうな?」と恵美に念を押した。
「単三電池がないのよ」
「今じゃなくていいだろっ!」
三人が大きく笑った。

 「うまいっ!」
「ほんと、おいしい」
侑里のレシピで作った餃子は、慎吾たちに好評だった。
「これで明日も息くさくならないって、最高だな」
「これ、詳しいレシピあとで教えてくれる?」
「うん、もちろん」

「おかわり!」と慎吾が丼を侑里に渡した。三度目のおかわりだった。
「お腹壊さないでね?」
侑里がご飯を盛り付けた丼を渡した。
「これだけ食べないと体もたないんだよ」
「あとは寝るだけだろ」と恵美が割り込むと、侑里が笑った。慎吾は、「あのな、寝てる間に体は作られるんだぞ」と言いながらご飯をかきこんでいる。
「俺も、いいですか?」
朝雄もおかわりを求めた。丼じゃなく、小さな茶碗を差し出した。慎吾が「お、よく食うな」と朝雄を見る。侑里が「うれしいな」と受け取った。
「いっぱい食べてね」
侑里が量を加減して盛り付けた茶碗を朝雄に渡した。「ありがとうございます」と食べ始めた。
 結局、炊飯器の中のご飯は全部なくなった。恵美が「相変わらずバケモノね」と笑った。
 食事が終わると、慎吾と侑里が食卓を片付け、朝雄が風呂を沸かした。
「侑里ちゃん、一番に入ってきなね」と恵美が言うと、侑里は「私は、最後でいいです」と遠慮した。しかし、「おかあさんの言う事聞きなさい」と恵美がやさしく叱り、ようやく風呂に向かった。
「ちゃんとあったまってくるのよ」
「はい」

 「お風呂いただきました」
侑里が風呂からあがった。恵美の部屋着を着て、バスタオルで髪の毛を拭いていた。顔が真っ赤にほてっていて、慎吾は思わずドキドキした。
「見てんじゃねぇ」
恵美が慎吾の背中に蹴りを入れた。
「おい、おれ今日ケンカしてきてるんだぞ」
「うるせぇ、さっさと入ってこい」
そう言うと、もう一度蹴り飛ばした。
「わかったよ、行くよ」
「お湯飲んじゃだめよ」
「飲まねーよ!」
そう言うと慎吾が風呂に向かった。侑里は、ずっと笑っていた。

 「侑里ちゃん、ここ座って」
「はい?」
「侑里ちゃんはまだ若いから、こんなの必要ないかもしれないけど」と、恵美が保湿剤のセットを持ってきた。
「えー、嬉しい」と侑里が喜ぶ。
「まず、これで、肌に美容液を入れる準備をします」と侑里の手に、化粧水を垂らした。
「はい、ぺちぺち」と自分の顔を叩く仕草をした。それをマネして、侑里も自分の頬をぺちぺちと叩く。そのしぐさに、二人が目を合わせて笑う。
「次に、美容液を肌にしみこませます」と、次は美容液を侑里の両手に垂らした。
「はい、ぺちぺち」
母娘がまた、自分の頬を優しく叩く。叩きながら優しく笑った。
「最後に、せっかく入れた美容成分を逃がさないように、これで閉じ込めます」
侑里の両手に、乳液を垂らした。
「はい、ぺちぺち」
また、二人で自分の頬を叩いた。三回目だが、同じように優しく笑った。
「ぷるぷる?」と母が聞くと、娘は自分の頬に触れ、「うん、ぷるぷる」と笑った。
「いいね」と母が言うと、二人で「うふふ」と笑った。
「じゃ、そのままね」と恵美が侑里の背後に回った。「え?」と振り返ると、「髪の毛乾かしてあげる」と言う恵美の手にはドライヤーが握られていた。
「いいの?」
「もちろん。はい、前向いて」
「ありがとう」と侑里が前を向いた。

 「侑里ちゃんの髪の毛、すごくきれいね」
髪の毛を乾かしながら、おかあさんが髪の毛を褒めてくれる。侑里は、嬉しくなった。
「おかあさん、体はもういいの?」
「あぁ、手術?」
「うん」
「相変わらず通院はしてるけど、すっかり元気よ。ありがとね」
「なら良かった」
侑里の頭に、おかあさんの手と温かい風が当たる。それがとても心地よかった。
「ねぇ、おかあさん」
「ん?」
「おかあさんは、慎吾とケンカとかする?」
「そんなの、しょっちゅうよ」
「あのね、」
「うん」
「仲直りって、どうやるの?」
恵美が、小さく微笑んだ。
「そんなの簡単よ。その日の晩御飯にあいつの好きなもの並べとけば機嫌よくなるから」
「そう?」
「そうよ。男なんて単純だから」
「謝らなくていいのかな?」
「いらない、いらない。そんなの」
恵美が笑った。
「謝るのは本当に悪いと思ったときだけでいいの。でも、親子喧嘩とか家族のケンカは、どっちも悪くなくても起こってしまうものだから」
「そっか」
「『仲良くしたい』って気持ちさえ伝わればいいの」
「わかった」と侑里が笑った。
「うん」
恵美がドライヤーを止め、侑里の髪の毛を櫛でとかした。恵美が手に持った櫛が、一度も引っかからずに侑里の髪の毛の中を「すーっ」と通る。恵美が「本当に綺麗な髪の毛だわ」ともう一度褒めた。
「よし、いいね」
「さらさら?」と侑里が振り返る。恵美も「うん、さらさら」と微笑んだ。
「ありがとう、おかあさん」
そう微笑んだ侑里を見て、思わず「かわいい」と笑った。

 「じゃあ、開けてみようか」と、恵美が国語辞典と漢字辞典を持ってきた。
「うん」
侑里が国語辞典を開いた。白い薔薇の花びらが乾いて、綺麗に並んでいる。恵美が、ハガキサイズのきれいな和紙を持ってきた。そこに白い花びらを並べ、絵を描く。
 侑里は、白い薔薇の花びらを丸く広げてブーケのような形を作り、そのブーケを大事に持つ美しい手を描いた。
「きれいね」
それを見た恵美がそう言った。
「ありがとう」
そのあとフィルムでラミネート加工し、頭に穴を開け、リボンを通した。
「こうすれば、ずっと一緒ね」
恵美がそう言った。
「ありがとう、おかあさん」
「どういたしまして」
「宝物にするね」
「うん」と、恵美も微笑んだ。
 侑里が、作った押し花を掲げて見上げた。慎吾からもらった白い薔薇が、おかあさんの手に大事に抱かれている。侑里の胸が幸せな気持ちでいっぱいになった。
「汚さないうちに、仕舞ってきな」と言われ、侑里は着てきた制服の内ポケットに大事にしまった。

 「あったかいの飲もうか」
恵美が、さっき慎吾が買ってきたココアを取り出した。
「うん」
恵美がキッチンに立ち、やかんを火にかける。
「おかあさん」
その背中を見て、侑里が無意識に口からこぼした。恵美が振り返ると二人の目が合い、侑里は「あ、えっと…」と恥ずかしがったが、恵美は静かに微笑んで、その言葉を受け取った。

 「あがったよ~」
その時、慎吾が風呂から上がってきた。
「じゃあ、俺入ってくる」と朝雄が風呂場に向かった。
慎吾は二人がココアを飲んでいるのを見て、「あ、俺も飲む」と言った。
「いま飲んできたろ」
「風呂のお湯飲んでねぇよ」
侑里が、小さく笑った。
「ちょっと兄貴!」
朝雄が風呂場から出てきた。
「お湯めっちゃ少ないんだけど!?」
「あんた、どんだけ飲んだの!?」
「だから、飲んでねーっつーの!」
「いや、めちゃくちゃ減ってるよ!?」
「俺の体が入ったら溢れるんだよ、わかるだろ!」
侑里が、「あはは!」と大きめに笑った。

 「じゃあ、侑里ちゃんの寝る場所つくんないとね…」
全員の風呂が終わり、みんなでココアを飲んでいると、恵美が立ち上がった。子供三人がその行く先を目で追う。
そして、戻ってきた恵美は、「慎吾」と何か大きなクッションのようなものを投げた。それを受け取った慎吾が「おい、ちょっと待てよ!」と言い、朝雄は「久しぶりだなぁ」と笑った。侑里が朝雄に「何?」と聞く。
「あれ、寝袋なんですけど」
「うん」
「昔、悪いことすると、バツとしてあれでベランダに寝かされたんです」
「そうなんだ」
侑里が笑った。
「ちょっと待て!俺、何も悪い事してないぞ!」
「あんた向こうのお父さん殴ったんでしょ!十分悪いわよ!」
「先に手だしたのあっちなんだって!」
「それから!」
「あ?」
「血のシミは落ちないって何回言えばわかるんだ、お前は!」
「ワイドハイター使えばいいだろーが!」
慎吾が抗議しようとしたが、恵美は「うるさい!ベランダで反省しろ!」と切り捨てた。

 「びゃっくしゃい!!!!」
夜。侑里が慎吾のベッドで寝ていると、ベランダから慎吾の大きなくしゃみが聞こえた。
「だいじょうぶ?」
侑里がガラス戸を開ける。
「おー、ごめんね、起こした?」
「ううん、寝れなくて」
「布団、くせぇ?」
「くさくないよ」
侑里が笑った。
「寝れないなら漫画でも読んでなよ」
「『ドラゴンボール』?」
「つまんねぇか」
「いや、逆に寝れなくなっちゃうよ」
「そっか、ワクワクしちまうな」
二人で笑った。
「ごめんね、寒いでしょ」
「慣れてるから。気にすんなよ」
「ありがとう、風邪ひかないでね」
「おう、あんまり開けてると中冷えちゃうよ、もう寝な」
「うん、ありがとう、おやすみ」
「おやすみ~」
侑里が静かにガラス戸を閉めた。閉めた後もう一度、慎吾のくしゃみが聞こえ、侑里が小さく笑った。
 
 朝になり、侑里が目を覚ました。時計を見ると、いつもお弁当を作るために早起きをしている時刻だった。見慣れない光景に、慎吾の家に泊まったことを思い出した。
「…あ、慎吾」
ガラス戸を開けると、慎吾は寝袋に収まってぐっすりと眠っていた。部屋に入れようかと思ったが、起こすのも悪いと思い、そのままにした。

 リビングに向かうと、恵美がキッチンで朝ごはんを作っていた。「おはようございます」と声をかけると、恵美が振り返る。
「あら、おはよう。眠れた?」
「はい、おかげさまで」
「それは良かった。慎吾は?」
「眠ってます、ぐっすりと」
「ベランダなんかでよく眠れるな」
「ベランダにやったのは自分なのに」と思い、侑里が小さく笑った。
「起こしてきましょうか」
「ごめんね、お願いしていい?」
「はい」
と、侑里が部屋に戻ろうとすると、恵美が「あー、侑里ちゃん!」と呼び止めた。「はい?」と振り返ると、「ちょっと、ちょっと」と手招きされたので、近寄った。恵美が「ごめんね、女の子のは初めてで…」とつぶやいた。
「こんな感じで大丈夫かしら?」
恵美が何かを差し出した。侑里は少し戸惑いながら、恵美の手の上にあるものを覗き込んだ。それは、お弁当だった。赤くて小さい可愛らしいお弁当箱に、卵焼きと赤いタコさんウインナーと唐揚げとちっちゃいハンバーグが入って、ご飯の上に桜でんぶが乗った、おかあさんのお弁当だった。
「…おかあさん?」
侑里が恵美の目を見た。「なぁに?」と恵美が返事をすると、侑里の目がみるみる赤くなり、顔がゆがみ、涙が流れた。「おかあさ~ん」と言いながら、侑里はその場にへたりこんだ。
「あらあら、あらあら」
恵美があわててお弁当を置くと、侑里をやさしく抱きしめた。
「おかあさん、おかあさん」
「はいはい、おかあさんよ」
「おかあさん」
「なあに?」
「ずっとね、おかあさんのお弁当が食べたかったの。おかあさんのお弁当もって学校に行きたかったの」
「そっか。そうだよね」
おかあさんが、侑里の頭をやさしくなでた。そして、まるで小さな子供をあやすように体をゆるやかに揺らし、背中をやさしくたたいて侑里の涙を受け入れた。
「侑里ちゃん、毎日お弁当作って偉かったね。よく頑張ったね、偉いね。毎朝、早起きするの大変だったよね。毎日、メニュー変えるのも大変だよね。可愛くなるように彩り考えるのも大変だよね。それを全部、今までずーっとやってたんだもんね、侑里ちゃんはえらいよ、えらい。世界で一番えらいよ」
「おかあさん?」
「なあに?」
「ゆりちゃん、いいこ?」
「もちろん!ゆりちゃんは、世界で一番いいこ。こんなにいいこ、世界中どこ探してもいないわ」
「おかあさん」
「よしよし。いいこ、いいこ」
侑里は何度も「おかあさん」と呼んだ。その度に、「おかあさんよ」と返事が返ってきた。今まで、侑里の「おかあさん」の呼びかけに返事はなかった。見守ってくれて、受け取ってくれていると信じていたし、その実感を感じることもあった。だが、それを現実のものとして受け止められたのは初めてだった。それが嬉しくて、侑里は何度も「おかあさん」と呼んだ。おかあさんも、一度も聞き逃さず、返事を返した。

 「じゃ、行ってくるわ」
玄関に並んだ二人を、恵美が見送る。恵美が「侑里ちゃん」と声をかける。
「はい」
「いつでも帰っておいで」
「はい、帰ってきます」
そこで、目を覚ました朝雄が部屋から飛び出してきた。パジャマ姿で、寝癖が立っている。恵美が「あら、あんた早いね」と笑った。
「侑里さん、また来てくれますか?」
母親に返事は返さず、侑里にそう聞くと、侑里は「うん。また押し花やろうね」と笑った。
「はい」と朝雄も笑った。
「いってきます、おかあさん」
「行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」と言った慎吾に続いて、侑里も家を出た。

 「朝雄君、いい子だね」
二人で朝の道を歩きながら朝雄の話をした。
「ん?うん。あんな様子は珍しかったな」
「そうなの?」
「昔、『お姉ちゃんが欲しい』って言ってたから嬉しいのかも」
「そっか」
「本当なら、あんなにしっかりしなくていい年頃だからなぁ」
「そうだよね」
「暇なときでいいからさ、構ってやってよ」
「うん、もちろん」

 学校に着く。二人で、ラナンキュラスのとなりの道を歩いた。

 「今日は、お弁当おそろいなの?」
昼休み。松下の部屋でのお昼ご飯。侑里の持ってるお弁当を見て松下が聞くと、侑里が笑顔になった。
「今日は、おかあさんのお弁当なんです」
「そうなんだ、よかったね」
「はい」
侑里が、たまごやきを食べた。
「おいしい」
慎吾と松下も、侑里の笑顔につられて笑顔になった。
 
 「ちょっと、手洗ってくるね」
「うん」
そう言って、侑里が部屋を出た。
「慎吾君」
「はい?」
「なんか、緊張してる?」
「わかりますか」
「うん。ちょっと顔が固いよ」
「侑里にもバレてますかね?」
「気づいてるんじゃない?あの子は優しいから」
「…ですね」
「昨日の事?」
「はい、まだ終わってないので」
「君の人生は、戦いの連続だねぇ」
「そうですね」と慎吾が笑った。
「慎吾君」
「はい」
「手出しな」
慎吾が手を出すと、先生が慎吾の手に「がんばりましょう」の文字を刻んだ。
「ありがとうございます」
慎吾が、手を「ぐっ」と握った。
 

 その日の、雄二郎の会社。ボコボコの顔で出社した社長に社員は緊張した。しかし、桂木だけは大声で笑った。
「どーしたんだよ、その顔!」
「うるせぇ…」
「慎吾くん?」
「あのクソガキよぉ」と舌打ちを打った。
「何があったの?」
雄二郎が昨日の事を話した。慎吾が侑里にプロポーズしたと聞き、桂木は「やるなぁ」とうなった。
「お前はどっちの味方なんだよ」
「どっちの味方でもないし、敵でもないよ」
雄二郎が、また舌打ちを打った。
「どうせまた、やりすぎたんだろ?」
桂木が笑ってそう言った。しかし、雄二郎は返事を返さず、その様子に桂木は「え、お前、負けたの?」と驚いた。雄二郎が、「負けるわけねーだろ」と即座に返す。
「じゃあ、勝ったの?」
そう聞く桂木は、ニヤニヤしていた。その様子に腹が立ったが、「当たり前だろ」とすぐに答える事が出来なかった。
「ふーん」
その雄二郎の様子に、桂木はまたニヤニヤと笑った。腹が立った雄二郎が、桂木の脳天に拳を落とした。
「いでっ!」
桂木の悲鳴を背中で受けて、社長室へと歩く。そういえば、慎吾から「痛い」という言葉は一度も聞いたことがないなと思った。そのことに、もう一度舌打ちを打った。

 「お、侑里ちゃん」
「あ、先生」
侑里が準備室の掃除をしているところに、松下が来た。
「ちょうど終わるところです」
「そう、ありがとう」
「あの、先生」
「ん?」
「今日、慎吾と何か話しました?」
「…どうして?」
「授業が終わって教室に行ったら、もう帰っちゃってて」
「あら」
「昼間も、なんか雰囲気が固い気はして…」
松下は「やっぱり、優しい子だな」と思った。
「昨日の今日ですから、様子がいつもと違うのは当然だとは思ったんですけど、何かあったのかな…」
心配の表情を浮かべる侑里に、松下が「ゆりちゃん」と笑いかける。
「はい」
「お茶しようか?」
「え?」
「しようよ~」とおちゃらけた松下を見て、「はい」と笑って返事をした。

 先生が淹れてくれたカフェラテを一口飲む。侑里が「おいしい」とつぶやいた。
「慎吾君はさ」
先生が話し出す。
「きっと、何か大事な事をしてるんだよ」
「…無茶してなきゃいいんですけど」
「大丈夫だよ。彼は強いから」
「そうですね」と侑里がうなずいた。その顔には、「心配」よりも「信頼」が浮かんでいた。

 侑里と松下がお茶をしている頃、慎吾は雄二郎の会社にいた。慎吾に気づいた桂木が「お、慎吾くん」と声をかける。
「お久しぶりです」
桂木が慎吾に近づき、「やるじゃん」と肘で慎吾の腰をつついた。慎吾が「いやいや」と照れた。
「その年でプロポーズって、かっこいいね」
「ありがとうございます」と言った後、「あぁ…すいません」と頭を下げた。
「ん?何が?」
「侑里は、高校を出たらここで働く予定でしたよね」
「あぁ、そんなのは、気にしないでよ」
「はぁ、でも…」の慎吾の返事に、桂木が「あぁ、そっか」と手を叩いた。
「なんですか?」
「いや、君が雄二郎に挨拶したって聞いたとき、本当に結婚するときでいいのにって思ったんだけど、こっちの事を気にしてくれてたのね」
「俺がっていうより、侑里が気にすると思って。そこは、ハッキリさせてあげた方が、侑里の気が楽になると思ったんです」
まっすぐにそう話す慎吾の肩に手を置いて、「かっこいいね」と桂木が笑った。

 「…それでですね」と慎吾が声をすぼめ、桂木に顔を近づけた。桂木も「なに?」と声をおとす。
「そろそろ、ゆりの誕生日なんですけど」
「うん、知ってるよ、クリスマスイブだもんね」
「ひとつ、お願いが」
慎吾が、桂木にあるお願いをした。侑里のためのお願いに、桂木は「もちろん、いいよ」と快諾した。
「ありがとうございます」と頭を下げた慎吾に、「…あいつは?」と社長室を見ながら答えた。
「今から、行ってきます」と慎吾が笑った。
「そっか。慎吾君なら戦えるから、自信もって戦っておいで」
その言葉には、慎吾は何も言わずに深く頭を下げた。その頭に、桂木が優しく手を置いた。慎吾が、顔を上げる。
「じゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
桂木に見送られ、慎吾はオフィスのフロアを進んだ。その姿を、コワモテの男たちが見守っていた。

 「失礼します」と、慎吾が社長室の扉を開けた。
「何しに来たんだよ」
外での様子に気づいていたのか、慎吾が入るとすぐ、眺めていた資料から目を離さないまま、そう言った。
「昨日の続きです」
平然とそう言う慎吾に雄二郎が舌打ちを打った。慎吾は近くにあったパイプ椅子を雄二郎のデスクの目の前に運び、座った。
「オヤジさん」
「なんだよ?」
「俺は、侑里さんが好きです」
そこで初めて、雄二郎が慎吾の目を見た。
「心の底から、愛してます」
「だから、なんだよ?」
「昨日も言ったんですけど、」と前置きした。
「侑里さんは『おとうさんも喜んでくれると思う』って、笑ってました。それはそれは嬉しそうに」
雄二郎は、黙って聞いていた。
「だからこそ思うんです。侑里さんは、このままでは悲しいと思います」
「だから、お前らの結婚を認めろっつーのか?」
「ちがいます」
慎吾が力強く否定した。
「侑里さんを理由に、侑里さんを盾にしてあなたと戦おうなんて思ってません。それに、ただ『認めろ』って言っても、無理な話だってのも、俺もわかってます」
「だったら帰れよ」
その言葉は無視して、慎吾は話を続けた。
「オヤジさんが俺を認めてくれないのは、俺の弱いところをたくさん見たからでしょう」
雄二郎が資料を手放して腕を組み、背もたれに背中を預けた。
「だから、強い姿を見せるってのか?」
「いや、ちがいます」と否定した。
「『俺の強い姿を見せる』のは、俺の努力でどうとでもなります。オヤジさんの気持ちが変わって納得するには、俺がオヤジさんに『勝つ』のではなく、オヤジさんが俺に『負ける』事が必要だと思います」
「だから?」
「オヤジさんが俺の前で弱いところを晒したら、オヤジさんの負けです。結婚を認めてもらいます」
「絶対ないな」と返事をした雄二郎に「だからこそです」とすぐに返した。
「あなたが『絶対に無い』と思う事が起こるからこそ、あなたの負けと言えるんです。だから、あなたが俺に弱いところを見せたら俺の勝ちです。いや、あなたの負けです。認めてもらいます」
「だから、絶対ないって言ってんだろ」
「じゃあ、その条件でいいですね?」
慎吾がまっすぐに目を向けた。雄二郎も、正面から視線を返す。雄二郎の頭に、侑里の笑顔が浮かんだ。
「…上等じゃねぇか。いいよ、その条件飲んでやるよ」
「ありがとうございます」
慎吾が頭を下げた。そして、「じゃあ、これを」と、一枚の赤いカードを差し出した。
「…なんだよ?」
「果たし状です」
慎吾はそう答えると、「お待ちしています」と、もう一度頭を下げた。雄二郎は何も言わず、赤いカードを片手でくるくると回して眺めていた。その雄二郎を見て慎吾は、その先、雄二郎に言おうとしていたことを言うべきかどうか迷った。
「約束してください、侑里を責めないって」
この言葉は言っていいのだろうかと、雄二郎と対峙して思った。昨日からの時間、父親も娘の事をたくさん考えたはずだ。娘が帰ってきた時にどう迎えるか考えてきたはずだ。そして、何らかの結論を出したはずだ。苦しんで捻りだした結論に、少なからず影響を与えてしまう気がした。
「おい」
迷う慎吾に、雄二郎の声が聞こえた。「はい」と返事を返す。
「お前、親とケンカしたことあるか?」
「母親となら。父親いないんで」
「そうか」
「…なにか?」
そう聞くと、雄二郎が一瞬、迷うような表情を見せた気がした。
「…どうやって仲直りしてるんだ?」
雄二郎が、そう言った。それを聞いて、慎吾は「言う必要がないな」と心の中で笑った。
「…駅前に、ケーキ屋あるの知ってますか?」
雄二郎の、カードを弄ぶ手が止まった。
「あぁ」
「うちのかーちゃん、あそこのケーキが好きなんです。だからケンカした時は、あそこでケーキ買ってお土産にするんです。そしたら、機嫌が直ります」
「そうか」
「はい、女の人って意外と単純ですから」
「謝らねぇのか?」
「…『ごめん』って言われると、辛くなる時もあるんですよ」
「…そうか」
「はい」
「もう、帰っていいぞ」
「失礼します」

 慎吾が部屋を出た。桂木が「お疲れ様」と迎えてくれる。慎吾が一度「ふぅー」と息を吐くと、緊張の解けた顔で「ありがとうございます」と返事をした。
「最後の会話は、弱みを見せたって言えるんじゃない?」
慎吾が「いやいや」と笑った。
「あんなんじゃ、まだまだです。泣きべそかかせてやりますよ」
その言葉に桂木が「ははは!」と笑った。「あいつの泣きべそかぁ。楽しみだな」と呟いた。
「みんなも楽しみだって」
「え?」
慎吾が、部屋を見渡す。コワモテの男たちが、笑顔を慎吾に向けていた。
「よろしくお願いします」
全員に、深く頭を下げた。

 「ただいま」
侑里が台所で晩御飯を作っていると、父親が帰ってきた。「おかえり」と少し緊張しながら返事を返す。
「いい匂いするな」
父親が笑ってそう言った。侑里は安心して「今日、カツ丼にしたよ」と笑って答えた。
「…先越されたな」
父親が娘に聞こえないように小さくつぶやいた。
「ゆり。お土産買ってきたぞ」
父親がテーブルに白い箱を置いた。娘が「あ、ケーキだ!」と喜び、「開けていい?」と笑顔で聞いた。父親はその笑顔に安心し、「当たり前だろ」と笑った。
侑里が箱を開けると、色んな味のケーキが十個も入っていた。それを見て娘は「すごい!ケーキいっぱい!」と喜んだ。
「全部食べていいんだぞ」
「そんなに食べられないよ~」
そう笑う娘の笑顔は、小さい頃の笑顔そのままだった。
「私、これにする」と侑里はショートケーキをを取り出した。そして、半分に切り分けてそれぞれをお皿に乗せると居間からおかあさんの写真を持ってきた。
「おかあさんも一緒に食べよ」
雄二郎は、その光景に「おひめさまになります」と言った、昔の侑里を思い出していた。

 「あ、慎吾」
朝。侑里が教室に行くと、入り口から綾乃に声をかける慎吾を見つけた。
「他に、誰かいれば…」
「ひとり、います」
そんな会話が聞こえてきた。慎吾は「よろしくお願いします」と言って頭を下げ、綾乃は「わかりました、任せてください」と答えていた。
「慎吾」
声をかけると、「うぉ、侑里!」と驚いた。その様子に、「おはよう」と思わず笑った。慎吾も「おぉ、おはよう」と返した。
「ゆり、おはよう」
教室の中から綾乃が声をかけた。綾乃にも「おはよう」と返す。
「朝からなに話してたの?」
「口説かれてたの」
綾乃のその返事に「ちょっと、綾乃さん!」と慎吾が慌て、侑里が笑った。綾乃には二人のその笑顔がそっくりに見えていた。

 昼休み。侑里が音楽準備室に行く準備をしていると、ちょっと派手めな女の子とあの時フラれた女の子が「ゆりー」と話しかけてきた。
「なに?」
「ゆりってお化粧しないよね?」
「うん。しないよ?」
「休日も?」
「うん」と、侑里がそう返事をすると、フラれた女の子が派手めな女の子に「そりゃ、侑里はあんたみたいにケバくする必要ないもの」と毒を吐いた。
「ケバくない!」
派手めな女の子が怒ってみせると、三人で笑った。
「じゃあ、化粧道具なんかも持ってないよね?」
「うん。どういうの買っていいかもわかんないから」
「そっかー、わかった」
そう言うと、二人は笑いながらどこかへ行ってしまった。
「…なんだろ?」
侑里が、音楽準備室に向かった。

 「じゃ、よろしくお願いします」
昼休み。松下の部屋のドアを少し開けると、慎吾のそんな声が聞こえた。松下も「うん、わかった」と答えていた。侑里は、大事な話をしている気がして、部屋に入るのをためらった。
「…でも、勝算はあるの?」
興味深そうに松下が聞き、慎吾は「はい。泣きべそかかせてやりますよ」と自信ありげに答えていた。
「強い人なんでしょ?大変じゃない?」
「はい、でも、強い人の泣かせ方は、よくわかってます」
「…どうやるの?おしえてよ」
「う~ん…共感ですかね」
「共感?」
「共感ていうか、安心っていうか。自分と同じ傷を持ってる相手がいると、少し、安心するんですよ」
「安心すると、泣く?」
「緊張の糸が緩みますから」
「なるほど」と、松下が頷いた。
「よくわかるねぇ」
「俺も、強いので」と慎吾が力強く言い、松下が「そっか」と答えていた。その声は、なんだか嬉しそうだった。

 「しかし、侑里ちゃん遅いね」
松下がそう言い、入るタイミングが出来た侑里が、ドアを大きく開けた。慎吾が「お、噂をすれば」と言った。「なに?」と二人に目を向けると、松下が「口説かれてたんだよ」と言った。
「先生もですか!」
慎吾がそう言うと、松下と侑里が笑った。侑里は「デジャヴかな?」と思った。
「私もってなに?」
「今朝、綾乃もおんなじ事言ってて」
「ちょっと、手出しすぎなんじゃないかい?」
「だから、違いますって!」
慎吾と侑里が、そっくりな笑顔で笑った。

 放課後、二人で帰り道を歩いた。侑里のアパートに辿り着く。
「ちょっと、のど乾きませんか?」
慎吾が自販機を指さした。侑里も、「乾きましたね」と答えた。
「座って待ってて」と慎吾はココアを二本買った。
二人でベンチに座り、ココアを飲む。
「あまい」
「あまいね」
侑里が笑った。慎吾の舌は、しっかりと甘味を感じている。
「ゆり、そろそろ誕生日だね」
「はい」と、慎吾が一枚の便せんを侑里に渡した。「なぁに?」と受け取ると、慎吾は「プレゼント」とはにかんだ。
「あけてみて」と言われ、侑里が便せんを開くと、一枚の赤いカードが入っていた。取り出すと、「招待状」と書いてある。
「侑里の誕生日を皆で祝いたいと思ってね、パーティをやろうって色んな人に声をかけたんだよ」
カードに、日時と場所が書いてある。場所は、雄二郎の会社の二階の広い会議室だった。
「覚えててくれたの?」
「ん?」
「昔、おとうさんと二人で寂しかったって言ったの」
「…まぁね」と慎吾が照れくさそうに笑った。「ありがとう」とお礼をいう。
「楽しみにしてるね」そう言って、微笑んだ。
 

 「う~ん…」
十二月二十四日。クリスマスイブであり、侑里の誕生日だ。侑里は雄二郎の会社のビルの前で悩み、ウロウロしていた。
招待状に書いてある時刻までには、まだ一時間弱の時間がある。慎吾からは「俺は準備があるから先に行くけど、侑里はこの時間においでね」と言われていた。しかし、侑里の友達、そして父親の会社の人たちもみんな集まると思うと、その準備はかなり大変なのではないかと思った。「かーちゃんと朝雄も手伝ってくれるし」と言っていたが、そうなると逆に、恵美と朝雄にも負担をかける気がして気が引けた。
「…でもなぁ」
だからと言って自分が準備を手伝うというのも、それはそれで失礼な気もした。招かれる側なのだから、しっかりともてなしを受け、みんなの気持ちを受け取るのが礼儀なのではないかとも考えた。
「う~ん…」
ビルを見上げた。二階の会議室の窓が見える。あの中で、慎吾と朝雄とおかあさんが準備をしてくれている。
「…そっか」
そこに入る自分を想像した。おかあさんとパーティの準備をする。それを考えると、ものすごく楽しそうに思えた。
「おかあさんと準備がしたかった」と言えば、慎吾もわかってくれる気がした。侑里が階段を上って、二階のドアを開けた。
「…わぁ」
思わず、そう声が漏れた。いつも見ていた殺風景な会議室が可愛く飾り付けされ、ごちそうが並んでいた。自分の誕生日を祝うために用意された空間に、とてつもない幸せを感じた。
「あ、ゆり」
早い時間に入って来たのに、慎吾はあまり驚いていない様子で「時間、まだまだだけど?」と笑った。
「うん、そうなんだけど…」と言いながら、恵美を見た。恵美も「ん?」と視線を返す。
「おかあさんといっしょに、パーティの準備したいなって」
「そっか」と慎吾が笑った。恵美は「いやーん、可愛い!」と侑里を思いっきり抱きしめた。侑里が「えへへ」と笑う。
「でも、ほとんど準備終わってるみたいね」
「うん、大体はね」
「じゃあ、あとはみんなを待つだけ?」
侑里が恵美の肩越しに慎吾に聞いた。慎吾は「いや」と笑った。
「え?」
「ちょっと待ってて」と言うと、スマホを取り出し、外に出た。「うん」と見送り、ごちそうに目を向ける。恵美の作った料理や、駅前のケーキ屋のケーキが大量に並び、その中に「まっしろ」の缶がたくさん用意されてるのを見つけた。
「これ、こんなに…?」
不思議に思う侑里に、朝雄が「兄貴がかき集めたみたいです」と教えた。
「そうなの?」
「『これで乾杯するんだ』って」
「そうなんだ…」と侑里がやさしく微笑んだ。ココアの缶を一つ手に取る。侑里の手に心地いい冷たさが伝わってきた。
その隣には、恵美の焼いたたまごやきがあった。
「たまごやき、焼いてくれたの?」と恵美を見上げた。恵美も、「うん」と微笑む。
「おかあさんのたまごやき、好きなんだ」
そう言うと、恵美がつまようじに刺さったたまごやきを二つとり、一つを侑里に渡し、ひとつは自分で食べた。
「怒られないかな?」
「文句なんか言わせないわよ」
侑里もたまごやきを口に運んだ。
「おいしい」
「良かった」
「今度、作り方おしえてね」
「もちろん。また一緒に料理しようね」
「うん」と言うと、二人で微笑みあった。そこで慎吾が戻ってきた。二人が慌ててつまようじをゴミ箱に放り込む。慎吾は「じゃ、お願いします」と電話を切った。
「…何してんのさ?」
恵美と侑里が「なにもー」と笑い、慎吾も「ふーん」と笑った。
「ゆり」
慎吾が外に続く扉を指さした。侑里が目を向ける。すると、ドアの外が騒がしくなった。慎吾が、扉を勢いよくドアを開く。

「ゆりー!」

綾乃を先頭に、学校の友達や雄二郎の会社の人、大勢の人たちが流れ込んできた。
「え?え?え?え?」
戸惑っている侑里に、慎吾が「侑里なら多分、手伝いに来るだろうなって思ったから。皆には上でスタンバイしてもらってたの」と言った。
「え~、そうなの?」
驚いて、侑里がみんなの顔を見る。
「みんな、受験あるのに…」
思わず、そうつぶやいた。「一日ぐらいサボっても罰当たんないよ」と誰かが言った。その後、「私は就職だし」「私は推薦だし」と続いた。最後に綾乃が「私は余裕だし」と言い、みんなが笑った。侑里が、「みんなありがとね」と微笑む。
侑里の友達も、雄二郎の会社の人たちも、恵美も朝雄も慎吾も、みんな笑顔だった。その集団の、一番後ろ。
「…来てくれたの?」
娘が、父親に笑顔を向けた。
「…まぁな」
それだけ言うと、父親は会議室の端っこの席に向かった。
「…ありがとう」
娘の言葉は、背中でしっかり受け止めていた。

 雄二郎が座ったのをきっかけに、全員が各々好きな席についた。その間に、「全員そろってるよね?」と桂木が慎吾に聞き、「遅れるって連絡もらってる人以外は、揃ってます」と返した。桂木は「なら良かった」と人のよさそうな笑顔を見せた。
そのやりとりの間に、恵美と朝雄が全員にココアを配り、乾杯の準備をした。
「朝雄、一本頂戴」
「ん」
朝雄が「まっしろ」を一本、慎吾に渡した。慎吾はそれを持って会議室の端っこの席に向かった。
「どうぞ」
雄二郎に、慎吾がココアを差し出す。全員が、その光景を少し緊張しながら見守っていた。
「…おう」
雄二郎が缶を受け取ると、部屋が安堵感に包まれた。
「じゃ、乾杯しましょう」と慎吾がみんなの前に立つと、全員が缶を構えた。
「みんな、乾杯のあとは一気飲みしてください」
その一言に、綾乃だけが笑いを堪えていた。
「ゆり、いい?」と慎吾が確認し、侑里が「うん」と頷いた。慎吾が「せーの!」と声をかける。

「ゆり、お誕生日おめでとう!」

その場にいる全員が、侑里に祝いの言葉を浴びせた。人数は、五十人は超える。その人数の祝福は体が震えるほど感動した。侑里の胸に、幸せが満ちた。
「ありがとうございます!」
侑里はお礼を言ったあと「まっしろ」を一気に飲み干した。それを見届けて拍手をした後、皆も「まっしろ」を一気飲みした。

「あっっっっっまい!!!」

ほとんど全員が、そう声をそろえた。慎吾と綾乃の二人が大きく笑い、それに続いてみんなも笑った。

「あまいね」

侑里は、そう言って静かに笑っていた。

たくさんの笑い声の中、雄二郎はココアの缶を開ける事もせず、乾杯にも参加しなかった。その事に慎吾も侑里も気づいていたが、二人とも、雄二郎がこの場にいてくれているだけで十分嬉しかった。

 その後、それぞれが自分の好きな食べ物や飲み物を手に取り、パーティが始まった。ほとんどの人が、二杯目の飲み物にブラックのコーヒーを選んでいた。
 慎吾は雄二郎の友人の一人に捕まり、「こっちこいよ」と男たちが集まっている場所に連行された。
「大丈夫だよ、いじめたりしねーよ」
その中の一人がそう言うと、慎吾は「お手柔らかにお願いします」と頭を下げ、その輪に入った。
「っていうか、俺らじゃ無理だろ」
桂木がそう言った。「俺らの中で、雄二郎に何度も勝負を挑んだヤツいたか?」と付け足し、全員が「確かに」と頷いた。
「一回やられたら二度とやりたくないわ」
「じゃあ、雄二郎にいじめられたら慎吾君に助けてもらおう」誰かが言ったその一言に「いやいや、勘弁して下さい」と慎吾が言い、男達が笑った。
「どんな具合?」と桂木が慎吾に聞いた。視線の先に、雄二郎がいる。慎吾は、雄二郎の手元の蓋が閉じたままのココアの缶を見た。
「…まぁ、これからですね」
「そっか、頑張って」
「はい」と力強く頷いた。

 侑里の友達の女の子たちは恵美の料理を食べ、その美味しさに感動し、恵美を囲んで小さな料理教室のようになっていた。女の子たちに懐かれ、恵美も嬉しそうだった。その時、綾乃が「お体は大丈夫ですか?」と気遣い、「優しい子ね。元気よ、ありがとね」と答えていた。
「おかあさん」
「なに?」
侑里と恵美の自然なやりとりに、女の子たちが「きゃー」と色めきだった。その様子に、二人が「え?」と戸惑う。
「もう『おかあさん』って呼んでるの?」
そう聞かれ、「あ、それは…」と侑里が照れた。その侑里を、恵美が「私の可愛い娘だもん」と抱きしめると、女の子たちがさらに盛り上がった。
「『おぎぼさん』だ。漢字にするなら『お義母さん』だ」
誰かが言ったその言葉に「おぎぼさんはやめて~」と恵美が返し、みんなが笑った。

 その近くで、様子を伺がう朝雄に恵美が気づいた。「ゆりちゃん」と声をかけ、朝雄の後ろに回り、背中を優しく押した。侑里が朝雄を見下ろす。
「あの、おめでとうございます」
朝雄が、可愛くラッピングされたプレゼントを侑里に渡した。「えー、いいの?」と侑里が受け取る。
「開けていい?」
「はい」
朝雄からのプレゼントは、ペアのマグカップだった。カップには花柄の模様が描かれていて、侑里は「可愛い」と喜んだ。
「ありがとう。大事にするね」
「はい」と返事をしたあと、朝雄が「…あの」とはにかんだ。
「なぁに?」
その後、朝雄は何かを言い出せずにもじもじしていた。侑里が「朝雄くん」と声をかける。
「これからは、おねえちゃんって呼んでくれる?」
朝雄の顔が、「ぱっ」と笑顔になって「いいんですか!?」と聞いた。侑里が「うん。よろしくね」と微笑む。
「はい、おねえちゃん」
そう一言言うと、朝雄は顔を真っ赤にしてその場から走り去った。その様子に、侑里の友達が「可愛い!」と盛り上がった。
「ありがとな」
慎吾が侑里にお礼を言う。侑里は「ううん、おかあさんが私にしてくれたことだもん」と恵美と目を合わせた。
「その、おかあさんからもプレゼントです」と恵美がプレゼントを渡した。
「え、本当!?」
恵美からは、保湿剤のセットだった。
「これ、あのときの?」
「そうだよ」と微笑んだ。
「また一緒にぷるぷるしようね」
そう言って、恵美が侑里の頬を両手で優しく触った。侑里は「うん」とその手に自分の手を重ね、ふたりで「うふふ」と笑った。

「…あら?」
恵美が、近くで様子を伺う二人の女の子に気づき、笑顔で手招きした。ちょっと派手めな女の子と、あのときフラれた女の子が侑里に近寄り、恵美はその場を離れた。
「ゆり、おめでとう」
「はい、これ」
二人からのプレゼントはメイク道具だった。
「えー、嬉しい」
フラれた女の子が「大丈夫よ、こんなにケバくなるやつじゃないから」と言うと、派手めな女の子が「ケバくない!」と怒ってみせた。そのやりとりに、侑里が笑う。
「今度、やり方教えてね」
「うん、可愛くしてあげるね」

 そのやりとりを見ていた慎吾のスマホが鳴った。ポケットから取り出して確認し、「ゆり、今からすげー人くるよ」と一言言って、一度外に出た。「ん?」と背中を見送り、「誰だろうね?」と派手めな女の子たちと目を合わせた。少しすると扉が開く。慎吾の後ろに続いて入ってきたその人が、「ゆりちゃん」と声をかけた。
「先生!」
入ってきたのは、松下だった。友達の女の子たちも、意外な人物の登場に盛り上がり、喜んでいる。
「来てくれたんですか?」
「慎吾君に口説かれてね」
「だから、その言い方」と慎吾が慌て、侑里が笑った。
「おめでとう」の言葉と共に渡された松下からのプレゼントはハンドクリームだった。
「これからの時期は手が荒れちゃうからね」
「すっごく嬉しいです」
「私が使ってる物なんだけど、すごく手を守ってくれるから」
「…先生とおそろいですか?」
「そうだよ」と松下が微笑むと、侑里も笑顔で「ありがとうございます」とお礼を言った。
「…あ」
プレゼントの袋に一枚のカードが入っていた。そのカードに、赤い桜の花で囲まれた「たいへんよくできました」のスタンプが押してあった。「これ!」と侑里が笑顔で松下を見上げた。松下が、侑里の頭を撫でる。
「たいへんよくできました」
侑里は照れくさくなって、「えへへ」と笑った。

 「本当に、たくさんの人が集まったね」
松下が部屋を見回した。侑里が「こんなに集まってくれて、嬉しいです」と答えた。
「それは、侑里ちゃんが優しいからだよ」
その一言に侑里は、松下はいつも、自分が動くきっかけを与えてくれたり、自分を正しい方向に導いてくれたなと思った。
「先生が私の先生でいてくれてよかったです」
「侑里ちゃんこそ、私の生徒でいてくれてありがとね」
「え?」
「私自身、侑里ちゃんの優しさに救われたんだよ」
その言葉が本当に嬉しくて、侑里は笑顔を返した。
「また、お茶しようね」
そう言って、松下も微笑んだ。侑里は「はい」と頷いた。
「楽しみにしてます」
「私も」と微笑む松下はオレンジジュースを飲んでいた。その意外さを、侑里は可愛らしく思っていた。

 松下が部屋の端っこに座る大きな男を見て、慎吾に「…あの人かな?」と聞いた。
「はい」
「あの人は、強そうだねぇ」
「ですね、手強いです」と慎吾が笑った。
「そっか」と、松下も笑顔を見せた。

 松下と慎吾の会話を侑里が聞いていた時、突然「がばっ」と両腕を同時につかまれた。思わず、「わあ!」と声を上げる。自分の両隣を見ると、二人の女の子が「いひひ」「やっとつかまえた」と笑っていた。
「もう、ゆり全然あかないんだもん」
「あはは、ごめんね」
「みんな、侑里のこと好きだもんね」
その言葉に侑里は「来てくれてありがとね」と少し照れた。
侑里の両腕をつかむ二人は、いつも掃除を任せて部活に行ってしまう二人だった。二人は「私たちの方こそ、ありがとね」とお礼を言った。
「…え?なんで?」
「いつも、掃除任せちゃってたでしょ?二人でね、いつかお礼しないとねって言ってたんだけど、どうしていいかわからなくて。でも、慎吾君に誘ってもらったから、今日は全力でお祝いしようねって言ってたの」
「そうなんだぁ、ありがとう」
「すっごく嬉しいよ」と微笑んだ。侑里は、二人もちゃんと感謝を感じてくれていた事が嬉しかった。ふと、手に持った松下からの「たいへんよくできました」を見る。
「でもね、二人のおかげで、もらえた幸せもあったんだよ?」
「そう?」
「うん。すっごく大きな幸せもらったよ」
そう言った侑里を「侑里は、やっぱり優しいね~!」と二人がぎゅーっと抱きしめた。侑里が「あはは!」と笑う。そして、二人もプレゼントを渡した。二人からのプレゼントは、テニスのラケットだった。
「えー、ありがとう」
「綾乃と組んでたんでしょ?」
「うん、中学の時ね」
「時間ができたら一緒にやろうよ」と二人が言うと、「言っておくけど、私達が組んだら強いよ」と綾乃が会話に混ざった。二人は「私たちだって負けないよ」と受けて立つ姿勢を見せた。
「侑里、特訓しないとね」
「そうだね」
「楽しみにしてるね」と二人はその場を離れ、侑里のそばには綾乃が残った。
「ゆり、おめでとう」
綾乃は一通の手紙を差し出した。侑里が「手紙書いてくれたの?」と受け取る。
「こんな機会でもないと、手紙なんか書かないからね」
「ありがとう」
「いま読んじゃだめよ」
「うん、あとで読むね」と侑里が手紙を見つめた。綾乃から手紙をもらうのは初めてで、嬉しかった。
「綾乃」
「ん?」
「私の友達でいてくれてありがとうね」
「なによ、急に?」と綾乃は少し照れた。
「昔からずーっと、綾乃がそばにいてくれたなって思って」
「本当に、感謝してる」と笑った。
「それは、私もだよ」と綾乃も笑顔を返した。
「侑里の性格を心配に思う事もあるけど…。でも、侑里を見てると、人に優しくする事って間違いじゃないなって思えるの」
「今日だって、こんなにいい日だしね」と綾乃が会場を見回した。侑里は今まで、綾乃には心配ばかりかけていると思っていた。しかし、自分の姿をそんな風に見てくれていたのかと知って嬉しかった。
「それは、周りのみんなのお陰だよ」
「綾乃も含めてね」と侑里が笑った。
「これからも、よろしくね」
「うん」
二人が微笑み合った。その空気がくすぐったくなった綾乃が、「ケーキ、どれが美味しいの?」と、話題を振った。侑里は、「ショートケーキ、おいしいよ」と勧めた。「二つ残ってるから一緒に食べようか」と二人がショートケーキを手に取った。
「ほんとだ、美味しい」と、ショートケーキを食べた綾乃が笑顔になった。「ね、美味しいね」と侑里も微笑む。
 そこで、綾乃のスマホが鳴った。「お」と綾乃が取り出して見る。そして、「ゆり、ちょっと待ってて」と言い、一度外に出た。「うん」と侑里が見送る。ショートケーキを食べながら待っていると、綾乃は一人の女の子を連れて戻ってきた。とても可愛らしい笑顔の女の子が、「ゆり~」と手を振る。侑里も、戸惑いながら手を振り返した。
「おぼえてる?」
綾乃が聞く。侑里も、確かにその女の子の顔に見覚えがある。しかし、どこの誰かは思い出せず「えっと…」と迷った。
必死に記憶をたどる侑里に、その女の子は「ふふっ」と笑ってカバンから何かを取り出して見せた。侑里の目に、ひらひらと揺れる赤いリボンが映る。
「あーーーー!」
侑里が笑顔になって喜んだ。保育園で一緒だった、あの赤いリボンの女の子だった。
「びっくりした?」と昔のように赤いリボンを揺らして笑う。
「したよー!え、なんで?」
驚いている侑里に、綾乃が「私は、年賀状とか、時々やりとりしてたのよ。それで、声かけてみたの」と答えた。
「そうなんだぁ、ありがとう」
「うふふ」と女の子は昔のように赤いリボンを頭に付けた。それを見て、侑里が「かわいい」と微笑んだ。
 赤いリボンの女の子が「はい、プレゼント」と渡した。受け取った侑里は、そのプレゼントに目を奪われた。おとぎ話に出てくるような透明でおしゃれなビンの中に、キラキラと輝く丸い玉がいくつも入っていた。
「宝石?」
目を輝かせてそう聞く侑里に、「いや、キャンディ」と、赤いリボンの女の子が笑った。
「ごめんね、宝石じゃなくて」
「ううん、すっごく嬉しいよ」
「喜んでもらえたなら、良かった」
「こんなに素敵なもの、いいの?」
「もちろん」そう言って頷き、頭の赤いリボンを揺らした。
「その代わり、今食べてるそれ、一口ちょうだい」

ガタッ!

突然、雄二郎がイスから腰をあげ、少し大きな音を立てた。近くにいた桂木が「何だ、急に。ビックリすんな」と驚いていた。
赤いリボンの女の子の一言に、雄二郎の体が反射的に動いた。ショートケーキは侑里の好物だ。そして、今日は侑里の誕生日だ。自分の誕生日に、大好きなショートケーキを譲らされてしまう。雄二郎の頭に、あの日、泣きながら抱きついてきた小さな侑里が思い浮かんだ。

「いいよ」

侑里が、そう答えた。その侑里は、笑顔だった。そして、「はい、あーん」とフォークに乗せたショートケーキを赤いリボンの女の子の口に運んであげていた。女の子が侑里にケーキを食べさせてもらい、「おいしいね!」と喜び、「でしょ?」と侑里が笑った。
「おいしいんだよ、ここのショートケーキ」
そう言った侑里の隣で、綾乃が赤いリボンの女の子を「あんた、変わってないじゃん」と叱り、女の子は、「だって侑里が食べてるの美味しそうなんだもん」と笑った。
「はい、あーん」
侑里が、もう一口、女の子の口にショートケーキを運ぶと、ケーキを頬張る女の子と「んふふー」と笑いあっていた。
 雄二郎が、ゆっくりと腰を下ろす。父親は驚いていた。娘のその笑顔が、本当に幸せそうだったからだ。誰かに気遣った笑顔や、無理して作った笑顔でない事は、父親である雄二郎に分からないわけはなかった。

 「あー、ずるい!私も!」
ちょっと派手めな女の子が、大きく口を開けて侑里に向けた。それをきっかけに、友達の女の子たちが「私も!」と集まり、口を開けて侑里を囲んだ。侑里は、「ちょっと、みんな、まって!」と笑いながら、ひとりひとりの口にフォークでケーキを運んであげていた。侑里からケーキを食べさせてもらった女の子は、みんな笑顔になっている。
 
 父親は、ずっとその娘を見守っていた。さっきの驚きが、次第に後悔へと変わっていった。

侑里は優しい。優しすぎるほどに優しい。だから、「守ってやらないと」と思っていた。「みんな」の中に侑里を入れてしまうと、侑里は自分を譲ってしまう。自分を譲って、他人の幸せを優先してしまう。親として、それが心配だった。
しかし、今の侑里は笑顔だ。笑顔で自分の大好きなケーキを分け与え、周りの人を笑顔にし、その事にまた自分も笑顔になっている。

 妻にした、「どうすればよかったんだ?」の問いの答えが、少し見えた気がした。周りの人に優しくする侑里を、もっと褒めてあげれば良かったのかもしれない。「いいこだ」と頭を撫でてあげるべきだったのかもしれない。そして、あの「みんな」の中に自分も入り、俺も笑顔になればよかったのかもしれない。
侑里は、父親である俺に、そうして欲しかったのかもしれない。
そうしていたら、侑里のこれまでの時間は、もっと幸せだったのかもしれない。

慎吾から渡された「まっしろ」の缶が目に入り、小さな侑里を思い出す。

「みんなと仲良くしたかったの」

あの日、そう言った侑里を、俺は褒めてあげただろうか。頭を撫でてあげただろうか。
「侑里は、いい子だな」
そう言って頭を撫で、「えへへ」と笑う侑里の姿は、記憶になかった。

あの日の俺は、「守ってやらないと」という自分の気持ちしか見えておらず、侑里の気持ちに気づけていなかった。

そう思うと、雄二郎の後悔の気持ちが強くなった。
「これからでも、間に合うだろうか」
侑里の笑顔を見ながら、そう思っていた。

 慎吾が、その雄二郎の様子を伺っていた。雄二郎が娘を見守る眼は、とても優しい眼差しをしている。

 「慎吾君のプレゼントは?」
侑里の隣に立つ慎吾に綾乃がそう聞き、侑里は「これ、くれたもんね」と上着の内ポケットから白い薔薇の押し花を取り出した。「持って来たの?」と慎吾が微笑むと、侑里も「うん」と頷き、両手で大事に抱きしめた。
「それに、このパーティ開いてくれたもんね」と隣の慎吾を見た。慎吾も微笑みを返す。
「いや、今からあげる」
そう言うと、「すっ」とみんなの前に立った。慎吾は、なんだか覚悟を決めた顔をしている。その覚悟に吸い込まれるように、自然と全員の目が慎吾に集まる。雄二郎の目が、優しい眼差しから少し厳しい目に変わった。慎吾が松下とだけ目を合わせ、松下も小さく微笑んだ。

「俺、ゆりさんと結婚します」

慎吾が、頭を下げた。その姿は、堂々としていた。そのかっこよさに、全員が息を飲んで次の言葉を待っていた。
「ゆりさんと結婚するとなると、ひとつ、大きな壁があります」
その一言で、全員の視線が雄二郎に移動する。雄二郎は、まっすぐに慎吾を見ていた。
「結婚するまでには、まだあと二年ぐらい間があります。でも、俺はオヤジさんの所に挨拶に行きました。思いやりや礼儀というのは、自分のタイミングじゃなく、相手に合わせたタイミングで行うべきだという事を侑里さんが教えれくれたからです」
松下が侑里を見た。侑里は笑顔を慎吾に向けている。
「オヤジさんの正面に座って、手をついて、ゆりさんとの結婚の許可をもらおうとしました。オヤジさんの返事は、俺の顔に、拳という形で返ってきました」
場内が、少しざわついた。雄二郎の仲間には笑いを堪える者もいた。侑里の友達は、驚きの目を雄二郎に向けていた。
「なので、俺は、顔面を殴り返しました」
この言葉には、全員が笑った。
「すると、オヤジさんは、また俺を思いっきり殴ってきました」
全員が更に大きく笑った。桂木が雄二郎の頭を軽くはたいたが、雄二郎は慎吾から目をそらさなかった。
「その後しばらく、殴り合いを続けました。殴って、殴られて、血も出て、体中いたくて…」
そこまで言うと、慎吾の言葉が止まった。涙ぐんでいるようにも見える。慎吾は、「はぁー」と息を吐き出したあと、「その時…」とまた話し出した。
「その時、俺は、嬉しかったんです」

その言葉に、雄二郎の目が、少し変わった。

「俺に父親はいません。かーちゃんは口うるさいし、やかましいですが、体が弱いです。弟の朝雄は、しっかり者ですが、まだ小さいです。俺の周りに、俺より強い存在はいませんでした。一番強い俺が、家族を守っていかなければなりませんでした」
そこでまた、慎吾の言葉が詰まる。
「時々、心が折れそうになることがありました。家族を守っていかなきゃいけないというプレッシャー。絶対に自分は壊れてはいけないという不安。自分には、頼れる存在がいないという心細さ。俺よりも強い存在が居て欲しいと、何度も思いました」

「なに…」

雄二郎が、小さくつぶやく。慎吾から語られた気持ちは、雄二郎も感じていたものだった。侑里が生まれ、妻が死に、この子は自分が守らねばと必死に働いた。「この子には、自分しかいない」と、気持ちが参っても弱音も吐けず、むしゃくしゃしても誰にもぶつけられない。自分より弱い存在を守らなければいけないその重圧には、今でも押しつぶされそうになる。それでも、『自分は強い』という自信を持ち、その自信を、自分を支える唯一の柱として戦ってきた。
あいつも、同じだったのか。

「一度、家族を守る上で俺が大失敗をしたことがありました。そのせいで、家族にも、侑里にも心配をかけました。苦労と戦っている自分に、少し酔っていたのかもしれません。おごりがあったのかもしれません。強い自分に、天狗になっていたのだと思います。その伸びた鼻を、オヤジさんにへし折られました」

雄二郎が、あの日の事を思い出す。そうだ、俺はへし折った。あいつの伸びた鼻と、そして、心の柱を折った。

「俺の、初めての挫折でした。あの時はムカついて、悔しくて、惨めで…。二度と、立ち上がれないんじゃないかと思いました」

そうだ。二度と立ち上がれない。自分を支える、唯一の柱だ。それが折れたら、二度と立ち上がる事はできない。

「でも、あとから考えると、父親に叱られるって、こんな感じなのかなと思ったり…」

それなのに、あいつは、俺にもう一度勝負を挑んだ。それは、他でもなく、侑里を幸せにするためにだ。

慎吾の話を聞きながら、雄二郎が、部屋を見回す。部屋の中にいる人は、みんな笑顔だった。たくさんの人が、侑里の生まれた日を祝い、笑顔になっている。これは、慎吾が侑里のために作り上げた世界だ。
「みんなと仲良くしたかった」と言った侑里が求めた世界を、あいつは作り上げた。

「…やるなぁ」

そうつぶやく。その世界は、とても居心地が良かった。

「…あ」

雄二郎がハッとした。

今、自分はその世界にいる。

「…バカやろう」とつぶやいて、小さく舌打ちを打った。「これからでも、間に合うだろうか」と思ったさっきの自分が、とんでもなく愚かに思えた。

「これから」じゃない。俺はもうすでに、あいつによってその世界にねじこまれていたんだ。

「あなたも含めて、守ります」
慎吾から言われ、一番腹が立った言葉を思い出す。

「やられた…」

そう思った。あいつは、しっかりと、「俺も含めて」守った。「俺も含めて」みんなごと、侑里の幸せを守った。

侑里を見る。侑里は、ブーケのように見える白い花の押し花を抱きしめていた。その姿は、妻の写真と重なった。そして、とても幸せそうな笑顔を浮かべている。

そして、その白い花は、自分が踏みつけた花だ。

それに気づいたとき雄二郎は、自分のしたことが恐ろしくなった。わざとではないとはいえ、侑里の幸せを潰してしまったのだ。そして、慎吾に対し、小さな感謝が生まれた。あいつが、もし、心の柱が折れたまま立ち上がれず、その柱を折った俺に挑めなかったら。侑里は、俺に幸せを潰されたまま、あの笑顔を失くしていたんだ。

「あぶなかった…」

そう呟いて、侑里を見る。そして、侑里を幸せにする一番の方法を探した。
「…ちくしょう」
その方法は、あの時、慎吾から教えられていた。それを実行するのは、正直悔しい。しかし、侑里の幸せのためなら、どうということはない。

その時、雄二郎の目から一筋の涙が流れた。慎吾への悔しさからか、侑里の幸せを壊さずに済むことへの安心からか。どちらかはわからないし、あるいはその両方かもしれない。どちらにせよ、雄二郎は、涙を流した。

 その涙を、慎吾は見逃さなかった。そして、「狙い通りだ」と思った。雄二郎は、侑里を守るために戦い続けてきた。ならば、強い者として戦う重圧と孤独は、痛いほど知っていると踏んでいた。だから、同じ気持ちを抱え、共感し合える人間の存在は心を緩ませる。その「安堵」は、強い人間に涙を流させる。

あの男は、涙を見せた。弱みを、晒した。

慎吾が松下に目を向ける。松下は微笑んで頷いた。慎吾が雄二郎に向き直り、呼びかける。

「オヤジさ…」

「慎吾!」

雄二郎が、慎吾の声を遮って名前を呼んだ。慎吾は、目を見開いて固まっている。侑里も、驚いた顔で雄二郎を見ていた。

雄二郎は、「まっしろ」の缶を開けると一気に飲み干した。そして、「あまいな」とつぶやいてから、立ち上がった。

「俺の負けだ」

雄二郎が慎吾に向かってそう言った。慎吾が負けを突き付ける前に自ら負けを認めた父親に、慎吾も、侑里も驚いた。雄二郎が、二人の元へと歩く。その姿を、その場の全員が見守っていた。

「おとうさん?」

慎吾の目の前に立つ父親を、侑里が見上げた。

「俺の負けだ」

もう一度、雄二郎がそう言った。慎吾が、雄二郎の目を見る。

…どすん。

慎吾が、雄二郎の胸を殴った。父親は、その拳に倒されることも、壊されることもなかった。

どすん、どすん、どすん、どすん。

慎吾の拳が、何度も雄二郎の胸に入る。雄二郎は、その拳を全て受け入れていた。

「…なんでだよ」

慎吾の声は、震えていた。侑里が、慎吾の顔を覗き込む。

「なんで負け認めちゃうんだよ!」

慎吾が叫ぶ。悔しそうに、目に涙を浮かべている。

「ここで俺がビシッとあんたの負けを宣言して、俺が侑里に幸せをプレゼントするはずだったんだぞ!」

「これじゃ、俺はあんたに勝てないままじゃねぇかよ…」

慎吾が拳をおろした。傷だらけの拳が、悔しそうに震えている。
「そんな事はない」そう言う雄二郎の声は、優しかった。
「お前は、侑里の幸せを守ってくれた」
「ありがとな」そう言って、慎吾の頭に手を置いた。そして、自分が何度殴っても、決して壊れることのなかった強くて頑丈な頭を、優しくなでた。

侑里が、二人を見つめる。父親が自分の大事な人の頭を撫でている。目の前に、自分の望んだ景色が広がっていた。

「侑里」

父親が娘を呼んだ。娘が、父親を見上げる。

「夢が叶って、良かったな」

その言葉に、娘が「私、とっても幸せ」と笑った。

「慎吾が、プレゼントしてくれたから」

そう言って、侑里が慎吾を見た。慎吾は、顔を侑里に向けると、涙を流したまま笑顔を見せた。侑里も、微笑みを返す。

 慎吾が、乱暴に涙を拭い、鼻をすすった。そして、息を吐いて気持ちを整えると、胸を張って、堂々と雄二郎の前に立った。

「あなたの、負けです」
そう宣言した。雄二郎は「あぁ」と笑った。

「俺の負けだ」

負けを言い渡した方が泣き、負けた方が笑っている、奇妙な決着だった。

その決着に、松下が手を叩いた。それを合図に、みんなが拍手を贈った。

三人を、あたたかい拍手がつつんだ。

「おかあさん、本当だったよ」

侑里が、そう思った。こんなにもたくさんの人が、自分の生まれた日を祝ってくれている。こんなに頼もしい二人の男が、自分の幸せを願ってくれて、その幸せに、たくさんの人が拍手を贈ってくれている。これ以上の幸せなんて、あるもんか。

自分を見失うこともあった、疑ったこともあった。しかし、見守ってくれた父がいて、信じてくれた慎吾がいた。

侑里が、白い薔薇のブーケを両手でやさしく抱きしめた。

「おかあさん」

心の中でおかあさんを呼ぶ。

「私も、おかあさんみたいな、おひめさまになります」


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