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「思考の言語化、辞書の空虚さ」

紅顔の哲学者を目指して#2

2024年4月22日(月)

今日は何から書き始めようか。
まず、毎日この日記を書いて投稿するのが理想だったが、思ったよりも一個の日記を完成させるのに時間がかかることが分かり、昨日は書けなかった。
また毎日は無理でも2日に一本くらいは書けるようにして、徐々に毎日投稿できるように習慣化させていきたい。
今日は何もないオフの日。
昨日は本屋での勤務があって、その後はいつも通り喫茶店に行って作業をした。
帰ってきてからはずっと日記の校正や投稿画面の一番上に使う絵を描いたりしていた。
そうこうしていたら朝で、結局寝られなかった。
そのまま校正作業をして、やっと日記を投稿できた。
大学に電話をしないといけなかったからそれをとりあえず済ませた
時計を見たら10時過ぎ。
校正作業などが楽しくて少し興奮気味だったためそのまま朝を迎えてしまったが、流石に体の調子が悪い。眠いというか、体が寝ろよといっているような感じの不調度。
だからとりあえずベットに入った。
入りながらスマホを触っていると、不規則にさっき投稿した日記へのいいねの通知が来た。
数人ほどからいいねをもらえた。とても嬉しい。
気づいたら寝ていた。
途中起きたりしたが、最終的に起きたのは17時頃。
薬を飲んでいるので、その副作用で身体がだるくなることがありそれがあると鬱のようにずっと寝ていないと無理になる。
純粋な眠気とその副作用のせいか、そんな時間に起きてしまった。
だから今日はまだ何もできていない。
とりあえず、何も食べていないから用意されているご飯を食べようと思った。
でもその前に、一昨日から読み始めたヘーゲルの「精神現象学」を読みたかった。まだまえがきが読み終わっていないからこれだけ読んでから食べようか。
食べ終わってからすぐにヘーゲルに戻った。この本は図書館で借りていて、返却期限が今週の金曜日だからそれまでに読み切りたい。他にも読みたい本はたくさんあるため延長はせずに気持ちよく返却して、他の本を借りたい。
僕の大学の図書館は5冊まで借りられるので、この前行った時に返却ついでに5冊借りた。
2冊はヘーゲルと昨日読み終わったショーペンハウアーだ。
他の3冊は、デカルト「方法序説」とマルクス「資本論」の第2巻、和辻哲郎「日本倫理思想史」の第2巻だ。
「方法序説」と「資本論」はすでに読み終わっている。
この「方法序説」がすごく良かった。ページ数が少なく文章も割とわかりやすかった。哲学者を目指している僕にとっては1番最初に読まなければいけないような本だった。
僕からしたらデカルトから哲学の仕方や哲学者を志す上での心構えみたいなことを教わった気分だった。まさに"紅顔の哲学者諸君よ!"と言われているような気分だった。返却日までにもう一度読みたい。
この本はこの前京都へ浅田彰の講義を受けに行った時に浅田さんからおすすめされてずっと読みたいなと思って借りた一冊だった。
僕がZ世代におすすめの哲学書は何かと聞いたら「方法序説」という答えが返ってきた。
他にも日本の哲学者だと木村敏もいいと言っていたので、早く読みたい。「異常の構造」が代表作らしい。
いつか、その講義を受けた感想を書いて投稿したい。ずっと書きたいと思っているのだけれど面倒くさくてずっとできないでいる。
「日本倫理思想史」も早く読み始めたい。だがこれが、一巻を読んだ時に思ったが、想像の倍難しかった。
普通日本の批評家は引用をする際には大体が欧米の哲学者なりを持ち出すと思うが、和辻哲郎の場合は全部日本または中国などの歴史的な作品(源氏物語や論語のようなもの)からの引用が多くて読みにくい上に難しいなと思い、放り投げようとしたがちゃんと読んだ。2巻もそろそろ読み始めたい。
図書館の貸し出し期間が2週間だけだからもっと長くして欲しいのが本音だ。
ヘーゲルに話を戻すと、やっと本編に入れた。だが、はじめにというのがありそれを読むと今度こそ本文が始まった。
最初は意識についてのパートだった。理解は全然していないが、とりあえず人間が頭の中で物を知覚する過程を説明しているのかなと思った。
もし僕が今「人間が目の前に存在する物体や現象を知覚(認識)する」ことについて本を書けと言われたら、そんなことは当たり前のことなので1ページどころか数行で終わってしまうだろう。
でもヘーゲルはそれを豊富な語彙を駆使して表現しているからすごいなと思った。ページの上に存在しているのはそんなに難しい語彙ではないのに、理解するのが難しいのは不思議なことだ。
おそらくそれは、「意志」とか「認識」などのようにだれにでも理解のできる言葉が"意味"は分かっていても、仮にその言葉について"説明"してくださいと言われたらできないからだろう。
だから辞書を引くしかない。でも、それはおかしいことではなく当たり前のことだ。
特に外国語ではなく母国語や慣れ親しんだ外国語に関しては致し方がないことだろう。
一つ一つの言葉を僕たちは辞書から学んで覚えたわけではない。それは、子供の時に親から教わることであり、大人になるにつれて生活の中で人との対話を通じて言葉を覚えていくものだ。
だから、特に容易で当たり前に意味の分かっている言葉ほど説明のできないことはあたりまえだ。
ヘーゲルを読みながらそういった無意識下で認識している言葉について、辞書的に文章で説明できることは哲学することにつながっていき、また哲学者になる上で重要なことだと思った。
だから「精神現象学」で使用されている、意味は分かるが言葉では説明できない単語を付箋に書き出して辞書で調べ上げた。
そして、さらに辞書を眺めていると疑問に思うことがあった。
それは、「文字」や「言葉」とは何であるかという問いである。
もちろん、人間が会話をする時に必要であるものであるがそういうことではない。どういうことかと言うと、例えば、「経験」という言葉を辞書で引いたとする。もちろん辞書を引かなくても意味は分かる。
だが、仮に日本語がほとんどわからない人になってみて考えてほしい。
そうして、辞書で「経験」の意味の箇所を見てみると、[実際に行ったり、見たり聞いたりすること。また、その結果得た知識や技能。]と書かれている。
だが、日本語があまり分からないので、説明文の中の「実際」という言葉が分からず今度はその意味を調べる。
そうすると当然その意味が出てくる。しかし、そこに書いてある説明の中にもまた分からない言葉があるのでそれを調べる。でもまた、そこの説明にわからない単語があるのでそれを辞書で引く。そのように繰り返していった場合、当たり前だが辞書の中を無限に巡り続けることになる。
ただ、これは前提として自分が日本語の母語話者だから設定できる条件であり、議論できることなのかも知れず、これが違う言語の辞書の場合はできないのかも知れない(多分)。
そして、ここから何を考えたのかというと二つある
まず一つに、この辞書の中にある語彙のそれぞれの定義は誰が考えて誰が作ったのだろうか。もちろん日本人の研究者あるいは編集者なのかもしれないが、ある言葉を説明しようとした時にどのように説明するのだろう。
もちろん言語学者ではないので詳しいことは言えないが、日本において初めて言語を作って話し始めた人がいて仮に彼らが言語を広く普及させるために辞書のような物を作るとする。
その際に、彼らは世界にすでに存在している物や現象に言葉という記号を一つ一つ当てはめ、そうして作った言葉を駆使してある言葉を説明しようとするだろう。
例えば人間が歩いている様子を表す言葉の定義を考えるとしよう。
彼らの中で歩くという行為にあたる言葉はすでに存在しているため、その言葉を誰かに発せば伝わるが辞書にその意味を記したいのでそれではだめだ。
また実際に歩いている人を指さしてそれがその意味であると言えば事足りてしまうが、これも同様に辞書という平面上のものにその意味を記したいので、別の言葉を駆使して文面で説明しなくてはいけない。
なので、歩くという行為の周辺にあるもの、例えば人間そのものやその身体(特に足や関節)、地面、外の空間、物体が動いていることなど、これらそれぞれの対象を表している言葉(記号)を使って説明しないといけない。
ある単語を見た時に母語話者は無意識下にその意味を理解するが、それが本来の正しい言語認識の方法なのだと思う。
一方で、辞書を編集する時にその言葉をその周辺にある言葉から説明するというのは、言葉による言葉の説明なので、すごく矛盾していることではないかと思う。
つまり、この世界に存在する事柄をそのままの形・イメージで記号に変換することが正しい言語活動なのであって、辞書の一つ一つの単語にその定義が付属しているという光景はおかしな事のような気がする。
それと同時に辞書を編集する人の偉大さも同時に感じる。辞書ができた歴史を知りたくなった。
そして二つ目に、辞書においてそれぞれの言葉に付属する意味は本当にそれ自体を説明していることになっているのかということだ。
つまり、先ほどの日本語があまり分からない彼らが辞書を引いて無限循環に陥るという光景が思い出される。
もちろん日本人であればその言葉の定義を読めば意味は分かる。
でも、それは一つ一つの単語とそれが表す物や現象がイコールの関係で結びついているからであり、そしてその単語によって定義が構成されているからだ。
だが、辞書の中での堂々巡りのことを考えると言葉は平面上に写された線で構成されているただの記号でしかないように思われる。
そのため、記号によって記号を説明するのではなく記号をそれが意味する具体的な画や動作によって表すのが正しいように思う。そういった意味では芸術作品や手話という会話方法はとても優れたものだ。
まとめると「精神現象学」を読み、それに触発され、本来当たり前に存在する言語や文字に疑いをかけ、その本質に迫ろうと試みたということだ。
また、僕の中でまだ考えが上手くまとまっていないのと頭では思考を巡らせていてもその言語化が上手にできておらず、読むに耐えない文章になっているがあくまで日記でありメモのような物なので許して欲しい。それにこの考察が正しいと思っている訳ではない。
本当は、このような哲学的考察はもう一つの哲学日記で書くようにしたかったが、読書メモのように読んで感じたことを書いただけなのでよしとしておく。
この日記を書く上でのルールも今後日記を書いていく中で決めていきたい。
上に書いた問いについてのもっと深い思索は哲学日記や別の場所でさらに探求したい。
そこから新たな発見があると嬉しい。
そう考えると、言語の起源や本質についてもっと知りたいので、いつか言語学関連の本も読みたい。
それにしても人間の頭の中について考えるのは難しい。
そして、ラジオを聴きながらヘーゲルをキリのいいところまで読んだ後は、気分転換に途中まで読んでしばらく放置していた東浩紀の「観光客の哲学」を読み始めた。やっぱり面白かった。
時刻はもう深夜の3時だ。
これはもう眠れそうになさそうだ。だが、明日は本屋での勤務があるので少しは寝たいと思った。
だから、最後にベットで西田幾多郎を寝落ちするまで読んだ。
今日の日記は前回の日記にも増して長くなってしまったような気がする。
他にも本当は書きたかったことがたくさんあったが、文量も多くなってしまったし言語についての箇所を書くのにすごく体力を消耗してしまったから今日は諦める。
明日もたくさん本が読めるといい。
それと、日記も頑張って書きたい。
でも、気を張らずにゆるーく行こう。
じゃあね。

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