香菜さんの男子禁制酒場(1)「41歳の娘」
地方にある山間の町。そこにある古民家を改造したお洒落な居酒屋「円」
キリッとした美人だが、口の少々悪い女将、香菜が一人で切り盛りしている
料理とお酒の美味しい居酒屋だ。
そこにはいつも訳ありの女性の一人客がやってくる。
香菜の美味しい料理とお酒が彼女達の心を癒してくれる、 グルメなフェミ小説。
居酒屋『円』の扉を開けて一歩店の中に入ると、岩田由紀子の嫌な予感は嘘のように消え去った。
「美人女将が一人でやっているお店なんですよ」
夕ご飯を食べたいけど、このホテルの近くで美味しいお店ありますか?と聞いた由紀子に、フロントの中年男がウキウキとした笑顔でそう答えた。
なんでも古民家を改築したお店でお洒落な内装で、カウンター席があるから女性の一人客も居心地いいと思いますよ、と言う。
美人女将のセンス良くて、料理も美味しいしお酒もいろいろ揃ってて、
地元の客も多いし、自分もたまに行くんです。
いや、田舎のビジネスホテルのフロントマンのあんたの情報はどうでも いいし。
そう由紀子は心の中で毒づく。
『古民家を改装』『カウンター席』『地元の客も多い』
そしてとどめは『美人女将』
いかにもな香りがプンプンする情報だった。
その「いかにも」とは何か。
和服にエプロン、もしくはノースリーブのトップスにエプロンを着た美人女将がカウンターの向こうに立っている。髪は一つにまとめて白いうなじを見せている。
カウンターには常連であるくたびれたおっさん客が何人か座って、 デレデレとした欲望の視線を美人女将に向けている。
それを、アルコールによる「酔狂」の視線であると誤魔化しながら。
「ママ、聞いてよ。うちの奴にこの間怒られてさ」
「娘に嫌われちゃったのよ」
「仕事がきつくてさ。でも子供を大学に入れたいからやめられねえよな…」
男の客達は家族持ちである事をアピールした愚痴を女将にこぼす。
女将はうふふと微笑んで彼らに「大変ね」と優しく声をかけて鍋の蓋を 開ける。
白い湯気がふわっと美人女将を包み込みフォーカスがかかり、常連客には 女将が妖精のように見える。
そう、居酒屋の美人女将とは妖精なのかもしれない。
男達が描く、都合の良い幻想の女。
そんな幻想の女を由紀子は仕事で沢山見てきた。
うんざりするほどに。
だからフロントマンに居酒屋「円」を薦められた時、嫌な予感がしたのだ。
でも、こんな地方の山間の町でアルコールが飲める店なんて、場末のスナックみたいなところしかないだろう。 常連客がカラオケを乱れ歌うような。 それよりはましだ。
せっかく遠くまで来たのだから、その土地の美味しいものを食べたいと思うのは 旅行者の我儘ではないだろう。 店の空気が「いかにも」ならば、テイクアウトにして部屋で飲むか。
そんな気持ちで入った居酒屋「円」の美人女将は決して妖精ではなかった。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
そう言って由紀子をカウンター席に案内する女将は、キリッとした眉毛にキレ長な瞳を持つクールビューティー。 長い髪を一本にまとめ、濃紺色の作務衣を着ている。
美人女将は包丁より薙刀を持った方が似合いそうな、ピンと貼りつめた オーラが漂っていた。
カウンターの隅に座る由紀子に女将は「飲み物は何にしますか?」と おしぼりを渡しながら聞く。 「ビールを。あ、この地方の地ビールってありますか?出来たらこの土地ものを頂きたいなと思って」
「ありますよ」
女将が由紀子の前に小さな瓶ビールと薄貼りグラスを置いた。
「隣の海の町に小さな醸造所があって、そこで作られたペールエールなんです。ちょっと苦味が強目ですけど、コクがあって美味しいですよ」
苦味、どんとこいである。
今、自分は人生の苦味を味わっている真っ最中なのだ。
由紀子は手酌でグラスにビールを注ぐ。琥珀色の綺麗な色をしている。
ビールの色を「綺麗」なんて思う自分に由紀子は驚く。今までそんな気持ちの余裕なんてなかったのだ。
一口のつもりが思わずグラスに半分ほど一気に飲んでしまう。
今日は東京から四時間も車を運転してこの山の町に辿り着いたのだ。 由紀子の体は芯から疲れていた。
女将が由紀子の目の前に、藍色の小皿にのった茹で落花生を出してくれる。
珍しいお通しだなと思った。そういえばこの土地に来る前、落花生が名産だと何かの記事で読んだな。何の媒体の記事だっけと思い出しなら口の中に放りこむ。 香ばしい甘さが口の中で弾ける。再びビールを一口飲んだ。
「おネエさん、どこから来たの?旅行?」
カウンター席の一番奥に座った赤ら顔の中年男が由紀子に話しかけて くる。
うわ、出た。由紀子は身構える。
外で女が一人飲む時、一番煩わしいのが酔っ払った常連おやじに話しかけられる事である。
「ちょっと、やめましょうよ、タクさん」
赤ら顔の男の隣に座った若い男性がたしなめる。色の白い、柔かな表情をした イケメンである。
「すいません」と苦笑しながら小さく頭を下げる男性を見て、どうせ飲み屋で話しかけられるなら、こんな若いイケメンならいいのに由紀子は思う。
同じ言動も、赤ら顔のおっさんからされれば鬱陶しいが、若いイケメンの男性からされれば嬉しい。
こんな勝手な受け手の在り方。
若くて綺麗な女を優遇する男社会と自分の価値観はさほど変わらないじゃないかと自嘲する。でも心のどこかで思う。
アラフォー以上の女が若いイケメンを好むのは男社会への無意識な報復なのかも、と。
また面倒臭い事をグルグルと考えてしまった。頭を空っぽにしたいから、こんな山間の町まで車を走らせて来たのに。
「いえいえ。気にしてませんよ。東京から来たんです」
由紀子は社交辞令を発揮して薄く微笑んで答える。
「それは、ようこそ。はるばるいらっしゃいました」
女将が少しおどけた調子で由紀子に言う。
「私もここでお店を始める前は東京で働いてたんですよ」
「へえ。何の仕事してたんですか?」
女将が企みの笑みを浮かべて答えた。
「料理本の編集者」
「えー、意外」
「そうですか?結構いるんですよ。料理本の編集者で食べ物屋さんをやる 人って」
なるほど道理で。
女将のこのキリッとした厳しさを感じる佇まいはマスコミで締め切りや予算と格闘していた名残であろう。
「そこの祐介君も、2年前まで東京で働いてたんだよね」
女将が色の白い男性の方を向いて言う。
祐介と呼ばれた男性は由紀子に向かって軽く会釈する。
「東京では何の仕事してたんですか?」
「不動産の営業です」
祐介がはにかみながら答える。
「へえ。今は何を?」
「移動スーパーの運転手やってます。」
「二人ともすごい転職ですね。地元がここなんですか?」
「全然」
女将と祐介が同時に答えるので、由紀子は思わず吹き出してしまう。
「僕はたまたま、今の仕事の求人広告を見て」
「私もたまたま。旅行で来て、この土地の食材に惚れちゃったんですよね」
「へー。なんか羨ましいな」
「たまたま」で東京から車で四時間かかるこんな田舎に移住できるなんて、随分と人生思い切れたものだ。
「私も移住しちゃおっかな…東京の暮らしも疲れちゃったし」
東京での暮らしも。仕事も。全て捨てて、こんな自然豊かな山の町で暮らしてみたい。でも、いざとなると、東京での暮らしにも未練が残る。
あれほど「クソだ」と思ってたのに。
「お、さては…失恋したな」
祐介君の隣に座っていた「タクさん」と呼ばれる中年男が半笑いで言った。
でた。
由紀子は心の中でため息をつく。
日本の中高年の男は、妙齢のシングル女性が転職したり引越したり旅行したりすると、その理由をなぜか「失恋」と結びつける。その度に笑って流すが、まるで女は 恋愛する事が人生の目的と思われているようで脱力してしまう。
「ちょっと、あんたいい加減にしなよ」
ドスのきいた声で女将がタクさんを睨みつける。
「そういう失礼な突っ込みするなら今後出入り禁止にするから」
「ええ?失礼?失礼なの?俺の質問」
「もうさ、失礼って分かってないところが終わってるよね」
まさに由紀子が思っている事をそのまんま女将が口にしてくれて、
胸のすく思いだった。
「あ、いいです。大丈夫です」
「本当にごめんなさいね。アホな客で」
「確かに私、失恋したようなものですから」
「え?」
そう、私は失恋、いや大失恋した。長年大恋愛していたと思っていた
相手に。
それは仕事だ。
由紀子は東京のドラマの制作会社でプロデューサーをしていた。
その制作会社はテレビ局の子会社である老舗で、由紀子が子供の頃から見ている多くの名作ドラマを制作していた。就職が決まった時は感無量だった。
由紀子は最初、監督志望だった。助監督として撮影現場についたが、初めて間近で見る芸能人に興奮など消えるくらい現場は過酷だった。
立ちっぱなし、動きっぱなし、そして次から次に雑用が言い渡されて寝る暇も ない。途中で倒れて監督は諦め、プロデューサーを目指す事にした。
プロデューサーの仕事は予算管理に脚本の制作、役者やスタッフの選定、現場の仕事をスムーズに行くようにケアをする事。
バランス力と調整力、気遣いが必要とされる。
由紀子は五年、アシスタントをしながら自分の企画書を出し続け、二十代のうちにプロデューサーデビューを目指した。
自分の企画が採用されれば、どんなに若かろうとプロデューサーになれるのだ。しかし、出しても出しても通らない。自分よりはるか年上の先輩でも中々プロデューサーになれないのだ。
それは仕方なかったのかもしれない。
そんな中、同期入社の女の同僚が二十八歳にして漫画原作のドラマでプロデューサーデビューが決定した。しかも地上波のゴールデンタイム。
異例の抜擢に嫉妬で狂いそうになった。なぜなら、彼女が考えた企画が選ばれたのではないからだ。
人気少女漫画の映像化なので若い女のプロューサーがいいだろうと上司が 彼女を指名したのだ。
それってどうなのか。
オリジナルの企画書を出し続けている自分や他の先輩社員ではなくて、なぜ彼女が選ばれたのか。由紀子は不服だった。
コケればいいのに。
自社のドラマなのにそう思った。先輩達も由紀子と同じ気持ちだった。
しかし蓋を開けると、ドラマは当たった。高視聴率が続き同僚は「注目の次世代クリエーター」としてマスコミ媒体に取り上げられるようになった。
極めつけはドラマの最終回の放送と共にドラマの公式ブログで自身の結婚を発表したのだ。しかも相手は一回り上の売れっ子脚本家だった。
完敗だった。
毎日忙しくてプライベートは寝るだけの由紀子に彼氏などいなかった。
たまに声をかけてくるのは妻子持ちの中年スタッフばかりだった。
しかも口説かれるというより、いきなり手を握られたり肩を抱かれたりと いったセクハラまがいの事ばかりされるのも辛かった。
三十代、四十代になってもプロデューサーになれず、未婚のままいつも 仏頂面でアシスタントプロデューサーをしている先輩を見ていると由紀子は自分の未来が これなのかと戦々恐々だった。
やめようかな。でも、三十までは…。
しかし半年後、由紀子に転機が訪れる。あるホームドラマのプロデュースをやれと上司から命を受けたのだ。当初、担当するはずだった五十代の男性プロデューサーが退社する事になったからだ。
大抜擢だった。
なぜ先輩達ではなく、自分なのか。それはきっと自分が企画書を出し続けていて、それを上司達は評価してくれたのだろう。
かくして由紀子も二十八歳にしてドラマプロデューサーとなった。
分からない事や大きな問題は上司達が裏で処理してくれた。
脚本家はキャリアのある大御所だった為、由紀子のアドバイスなど必要なく、勝手にマーケティングして視聴者受けを考えて構成して描いてくれる。
結果はそこまで視聴率は伸びなかったものの、佳作として評価された。
プロデューサーになると驚くほど周囲の反応が変わる。
スタッフや役者の指名権を持っている為「自分を使ってくれ」と営業という名の食事の誘いや有名アイドルのコンサートの誘いブランドバッグが贈られてくる。
セクハラのような失礼な扱いはされなくなったし、アシスタント時代、 邪険に扱ってくる演出家達は分かりやすく媚を売ってきた。
役者達やプロダクションのスタッフも「由紀子さん、綺麗ですよねー」 と口説いてくる。
もちろん気分は良かったが、テレビ局の女性プロデューサーが役者と付き合い、その役者がスターになったら捨てられたという例をいくつも知っていた。
陰で「勘違いしちゃって」と嘲笑されていたそんなミーハーな俗物になるものか。
由紀子はそんな色恋営業をはねのけた。
以来、毎年、一本の連ドラをプロデュースしてきた。ドラマは放送されるまで準備に半年以上かかる。
一つのドラマの放送が終わるとまた次のドラマの準備。
気がついたら十二年たち、由紀子は四十代になっていた。
その間、同僚は二人、子供を出産した。 由紀子は結婚はおろか、十二年間彼氏も出来なかった。
でも自分にはドラマがある。プロデューサーとしてのキャリアがある。
そう思っていた矢先、由紀子は制作部から映像の二次使用を管理する部署へ異動になった。
納得できない異動に由紀子が上司に抗議すると、こんな答えが返ってきた。
「若いプロデューサーを育てたいから」
由紀子は打ちのめされた。
若くないプロデューサーは、プロデューサーではないのか。
今まで由紀子に毎日のように何かしら営業や食事の誘いがあった業界人達は蜘蛛の子散らすように去っていった。彼らにとってプロデューサーでない人間は、無職に等しいのだ。そうか、彼らが興味を持っていたのは私ではなくて、私の役職だ。 そんなの分かりきっていた事なのに。
辞めちゃおうかな、会社。
でも私、四十一だ。養ってくれる旦那もいない。この業界でしか働いた事ない。 このご時世、老舗の正社員であるだけありがたいのかもしれない。由紀子や同僚に活躍の場を奪われて辞めていった男性社員達は、他の制作会社で活躍している話は聞かなかった。やはりテレビ局の子会社は強いのか。
あれほど皆で「一人も出来る奴がいない」と馬鹿にしていた親会社の ブランドに自分達は救われていたのか。
心に緞帳が垂れ込むような毎日を過ごしていた由紀子は、街でばったりと 井川さんに会った。
スクリプターの井川さんは由紀子より五歳年上で何度か仕事をした仲だった。
スクリプターは撮影した素材を全て記録する仕事だ。その為ずっと撮影現場につく必要があるので、必然的にプロデューサーの由紀子と話す機会が多くなり仲良くなった。由紀子がまだ経験が浅い時は、現場でどう動くのか気を使いながら教えてくれる気遣いの人だった。結婚を機に仕事をしばらく休んでいたと聞いている。
数年ぶりの再会に嬉しくて由紀子は井川さんをカフェに誘った。
「今、何のドラマを担当しているの?」
井川さんに聞かれて由紀子は黙る。一番痛い質問だった。
「実は部署異動になって、今はプロデューサーやってないんです」
「え?何で?ユキちゃん、なんかやらかした訳?」
「そんな。ちゃんと仕事してましたよ。なんか、若いプロデューサーを育てたいからって。今、ドラマ見る若い視聴者が減っちゃったから、そこを呼び戻そうとスタッフも若返りさせたいって」
井川さんは一瞬、目を見開き、大きなため息と共に言った。
「うわあ、ホント最悪だなあ、オタクの会社」
オタク。 いつも温厚だった井川さんが使う言葉ではなかったので、 由紀子は驚いた。
「親会社からの圧力のストレスを女にぶつけてるんだよ。ほんとクソ」
クソ。またまた由紀子は驚いて言葉を失った。
「すごいよ、オタクの会社の社員のセクハラ。私は打ち上げの席で酔った津山に首をしめられて壁に叩きつけられた事があるんだよ。『井川さんはすごいセックスしそう』とかも言われたね。桑田にはサブで『築山ディレクターに股間におもちゃでも突っ込まれたの?』てニヤニヤした顔で言われたし。人がまるで体で仕事取ったみたいな言い方しやがって、私はお前らの慰安婦じゃないんだよ。ほんとクソな奴ら」
お前ら。
慰安婦。
目を見開いたのは由紀子の方だった。
津山は由紀子の十期上のディレクターで、何度も仕事をしてよく気を使ってくれる兄のような存在だった。桑田は部長でプロデューサーの大先輩。 由紀子は事あるごとに桑田に相談して指導を仰いだ父のような存在だった。
そんな猥褻な言動を彼らから投げかけられた事はなかった。
その由紀子の心の内を察したのか、井川さんは見たこともない嫌悪の表情を浮かべた。
「ああ、なるほどねえ。身内にはセクハラはしないのか。セクハラしても文句言えないフリーランスを狙ってやるんだ。選んでセクハラしてるんだ、更に最悪。そうだよね。一応、あなたにはスタッフの指名権があるし嫌われたら大変だもんなあ。こっちは鬱病で働けなくなってギャラも入らなくて大変だったんだから」
まるで人が変わったような井川さんに由紀子は返す言葉もない。
「だいたいユキちゃん自体、オタクの会社の二人娘作戦をどう思っていた訳? 人質みたいなもんじゃない」
「人質?」
「だってそうでしょ?親会社を怒らせたから大山さんとか、倉橋さんとか功労者の男のプロデューサーを全部排除して、若い女のプロデューサーを「二十代二人娘」って差し出してご機嫌とって。まるで人質じゃない。それであなたに頭下げなきゃいけない男のスタッフのストレスはこっちにくるし、 コンテンツのレベルは下がってる自覚は本人達にはないし。それで仕事の 合間に親会社の愚痴ばかり。戦わずに若い女を盾にしてそれであなたが若くなくなったら、お役御免で新たに若い女を人質に出すって、 どこまで腐ってんのよ」
井川さんは一気にまくし立てる。
「え、え。ちょ、ちょっと待って下さい。どういう事ですか?二人娘作戦って」
「え、ユキちゃん。知らないの?でも、そっか。そうだよね、言える訳ないよね。本人に。でも出入り業者の間では有名な話だよ。おっさん達「娘」とかそういう括り好きじゃない。それで懐柔させたけど、娘作戦以来、一気にブランド力落ちたって」
井川さんは由紀子を哀れむような視線を向けた。
そこから由紀子の記憶は曖昧だった。
部屋に戻ってベッドに倒れこみ、翌日は会社を休み、車に乗って走らせた。
そういう事だったのか。十二年前に私と同期がプロデューサーにいきなり抜擢されたのは。そういう事情があったからなのか。才能があったからではない。ただその時、たまたま二十代だったからだ。
何だったのだろう。私の十二年間は。いや、新卒から数えると十八年か。
滅多になれない職業だと思っていた。いっぱしのクリエーター気取りだったが、 私の仕事は「娘」だったのだ。
私が学生時代から愛して入社したあの制作会社。自分も愛されていると思ったら、裏で売られていたという訳か。
「知らなければ良かった」
由紀子の言葉に女将は厳しい視線を向ける。
「あの時、井川さんに会わなければ。井川さんにそんな話を聞かされなければ、私は違う部署で地味だけど穏やかな会社員人生がおくれたのに…」
祐介とタクさんが由紀子の横顔を見つめる。なんと声をかけていいのか分からないのだ。
「知って良かったんじゃないですか?」
「え?」
由紀子は顔を上げる。女将は続けて言った。
「知らなかったら、そのまま元娘として存在していくんですよね。その会社で」
元娘。そうか。
あの会社で女性の社員は娘か元娘しか存在しないという訳か。
「まあ、ひとまずお腹を満たして下さい。長い運転で疲れたでしょうから」
由紀子の前に丼が置かれた。
かき揚げ丼だった。かき揚げが随分と分厚い。四センチはある。
「うわ。揚げ物なんて久しぶり。丼ものも」
「でしょうねえ、お互いに」
女将は含み笑いをする。
由紀子はなるべく太るものを食べないようにしていた。その筆頭が揚げ物だ。 炭水化物もなるべく取らない。
だから丼ご飯なんていつ以来だろう。
かき揚げは箸でちぎれないので、由紀子は思い切って齧りついた。
「お、豪快にいったねえ」
脇目で見ていたタクさんが呟き、祐介に静かに突かれて下を向く。
「あ」
天つゆと思っていたタレに爽やかな酸味がある。
「これ、ポン酢ですか?」
「そう。カボスで作ったの。この辺り、結構カボスが採れるから」
だから揚げ物もサッパリ頂けるわけか。かき揚げの具材は小エビではなく、大きめの車海老を荒く切ったもの、くし切りにした甘い玉ねぎ、そして三つ葉だと思った青葉はパクチーだった。
「珍しい。私、パクチー大好きなんですよね」
「女の人は好きですよね、パクチー」
そうだ。男は嫌いな人が多かった。だから打ち上げや会食の席は、 パクチー料理を出さないように由紀子はいつも配慮していた。
パクチーと車海老のかき揚げは、東南アジアのネオン街のように色どりが鮮やかだった。海老のプリッとした食感にパクチーの風味が刺激を与えて、玉ねぎの甘さが包み込む。次から次に舌の上を意外な美味しさが踊り、 由紀子は白いご飯を夢中でかきこんだ。
気がついたら丼の中は空っぽだった。ペールエールも飲み切っていた。
由紀子は満足気に大きく息を吐いた。
長い間、自分に禁じていた事を一気にしたような開放感に満ち溢れていた。
「ごちそうさまでした。なんか、久々に腹にたまるものを食べて、元気でたって感じです」
「ふふ。良かったです」
女将は由紀子に微笑みかける。
「なんだなんだ。なんか長い夜になりそうだな。俺達、付き合うよ」
タクさんがグラスを由紀子の方に傾けて言った。
「いえ、私はこれで。やる事があるのでホテルに戻ります」
「えーそうなの」
残念そうなタクさんに由紀子は笑顔で答える。
「また来ます。会社を辞めてきたら」
「え」
驚くタクさんと祐介を尻目に由紀子は素早く立ち上がり、支払いを始めた。
「是非、またきて下さいね」
「もちろん。また話を聞いて下さい」
そう言って入り口の扉を開けて出て行こうとした瞬間、
「あ」
由紀子は振り返って女将に言った。
「お名前を伺ってよろしいでしょうか?」
唐突な質問に女将は驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んで言った。
「香菜です。岡本香菜」
「香菜さん」
「はい」
「覚えておきます」
「嬉しいな」
「え?」
「いつも大抵『女将』って呼ばれるから」
そう照れ臭そうに微笑んだ。
由紀子は微笑み返して店を出た。
決めた。
私は「娘」から人間になる。
岩田由紀子という人間として生きていこう。
これからホテルの部屋で辞表を書く。そして明日、会社に提出しよう。
あとの事は分からない。次の就職先なんてこのご時世、すぐに見つからないかもしれない。でも元娘として生きるよりはましだ。
女が人間として生きていく事は社会では辛いことが多いかもしれない。
でも、そんなの自分だけじゃない。
自分と同じように人間として生きていきたい女はどこかに必ずいるはずだ。
この店の女将のように。
由紀子は夜空を見上げる。
この土地特有の強い風が、由紀子の体に吹き付けてくるが寒くはなかった。
炭水化物のおかげで体が熱いのだ。
由紀子はホテルに向かって走り出した。
(第二話はこちら↓)
(↓他にこんなものを書いてます)
うまい棒とファミチキ買います