見出し画像

「見えない骨折」からの回復方法

一週間程前から体調が優れず、数日前から鬱の症状が再発してしまった。最後に発症したのは2022年の冬だった。一方で、病気を患ってから19年、「もう一人の自分」との共生を強いられてきたけど、(今では自分を客観的に捉えさせてくれる良きパートナーだ)1年間発症を抑えられたのはむしろ快挙でありかなりの前進と言えるのだ。

僕の病は、神経伝達物質である「ドーパミン」の伝達異常により、感情や意欲の発起が著しく低下してしまったり、反対に病的に高ぶってしまう病である。問題なのは患者にとって致命的になり得るのが、この「症状自体」と言うよりも、むしろこの症状により起こり得る「二次的事故」であるということをお伝えしておきたい。

つまりどういうことか。まず患者にとって最も痛烈な痛みを伴うのが深い「鬱」である。その期間は、僕の場合1週間~最長2ヵ月程度で、その時々でバラバラである。しかし、「病的な憂鬱」というものは、遅かれ早かれ必ず晴れます。(とは言えそう信じ抜けるようになるには長い時間と訓練が必要だ)そしてその後にやってくるのが躁状態といって、病的に気分がハイになってしまったり、異常に活動的になったり、不眠になったり、人によっては異様なほど攻撃的になってしまうという悪しき症状である。仮に今、あなたが車に乗っているとして、突然「赤信号なのにアクセルしか踏めなくなってしまう謎の呪い」がかかってしまうような症状だと思ってほしい。何回かに一回は必ず事故を起こすだろう。痛烈な痛みつまり深い鬱の後の、「病的にハイな状態」は、他方でまた強烈かつ「病的な快楽」を伴うのです。その状態は自分を「万能な人間」であるかのように錯覚させます。それにより盲目的に散財してしまったり、病的にギャンブルに興じたり、狂気的に人付き合いを増やしてしまいたくなるような「不健全な衝動」に襲われます。これがその「二次的な事故」となり得るのです。

そしてこの病の最も悪しき側面というのが、この鬱の期間と躁の期間が予告無しに繰り返され、患者の精神を徐々に、そして確実に蝕んでいくという側面です。患者が、精神を蝕まれ冷静で無くなってしまった結果、今まで支えてくれた人との健全なパートナーシップを崩壊させてしまったり、うまく感情を共有できず精神的に他者を傷付けてしまったり、物理的に人を攻撃してしまう。そういったことが、ある日突然、何の前触れも無く、突発的に起こり得るのです。いわゆる「キレてしまう」というやつです。その人物が、それまでどれだけ「善良」であったか、どれだけ「温かい人」であったかという歴史とは全くの無関係にです。

僕がこの病の症状に初めて気付いたのは、20歳の時にガソリンスタンドでアルバイトをしていた時でした。バイクが好きで、アクティブに働く事が好きで始めたアルバイトでした。お客さんが来店して、「オーライ、オーライ」と誘導するのが本来大好きだったのですが、ある日突然それがとてつもない苦行のように感じた瞬間があったんです。その時に初めて、
「こいつ何でセルフのガソリンスタンドに行かねえんだよ」
「ガソリンなんて自分で入れろよ」
内心そう思う自分がいたんです。そのアルバイトの帰り道、「自分はどうしてしまったのだろう」「悪魔にでもなってしまったのだろうか」と涙を流しながら、深い自己嫌悪に陥ったのを、今でも記憶しています。そして、それを誰にも打ち明けられずにいたのです。

それから19年経ちました。「もう一人の自分」とは、最初は大いに揉めながら歩み寄り、徐々に仲良くなり、今ではずいぶん共生がうまくなったように思います。僕がなぜ、2023年の丸一年の間、症状を抑えられたのか?今回の症状再発をきっかけに振り返ってみました。僕なりに実践してきた事は以下の事です。決して「絶対的な解」が存在するという事はあり得ないので、あくまで参考程度にしてほしいです。

・とにかく寝る。飽きるまで寝る
・何もしない。「何もしない事」に飽きるまで何もしない
・不安要素を洗い出す、書き出す
・金銭的不安はありとあらゆる手段を使って払拭する(消費者金融以外で)
・自分の感情を毎日書く、語る
・自分の症状や病について深く知る
・自分の感情を誰かと共有する
・テレビを観過ぎず(1週間のうち一度もテレビを観ない事も多々ある)18時以降は仕事をせず(せざるを得ない事もある)総じて、ストレスレベルの度合いを減らす
・朝活(日の出と共に運動を開始、決して無理はせず週に4〜5回)
・サ活(サウナや銭湯によく行く)

もし、「自分の大切な人」が精神的な病を抱えてしまい、「自分は今何をすべきだろう?今何ができるだろう?」と迷ったら覚えておいてほしいことがあります。まずは「自分にできる事はほぼ無い」と認知する努力というのが賢明な選択かと思います。「あえて何もしない」という状態をいかに「しっくり来させるか」という「訓練」も必要になるかもしれません。苦しんでいる人に対し「何もしない」というのはとても難しいからです。事実、患者にとっての「鬱との共生」というのはそんなもんなんです。患者側の視点として一つ確実な事だなと思うのは、患者にとって、「何らかの外的な作用」(薬や通院やメンターの存在や自己啓発セミナー)が病との共生において「最重要」になるという可能性は0%です。患者にとって、常に「何らかの内的な作用」の最適化が「最重要」であり、病を発症したその瞬間から、患者には常にそれが問われ続けます。世の中には二種類の精神疾患患者がいます。一方は内的な作用の最適化をせずに薬や通院など外的な作用に依存する患者です。もう一方は内的な作用の最適化と向き合い少しずつ病との共生や病の根治の可能性を探究する患者です。「薬や通院が悪である」と言っているわけではありません。「依存」が悪なのです。もし、あなたにとって「自分の大切な人」が精神的な疾患を抱えているならば、「何かをすること」よりも、「すべきで無い事をしない事」の方が重要です。その為には、患者との何気無い日々における「フラットな関係性」と「円滑なコミュニケーション」がより重要になるかもしれません。精神の問題における「特効薬」は存在しないからです。鬱は「心の積載量超過」です。まずは乗せ過ぎた荷物を「手放すこと」やそれ以上「載せないこと」が最優先事項になります。その上で、患者の症状や病について深く知ろうとしたり、お互いの感情を共有しようとする事は、患者にとってこの上無い力になるはずです。

「トラックの積載量超過」であれば、「タイヤがパンクしている」とか「速度が出ない」という現象により一目瞭然です。「肉体の積載量超過」であれば、怪我をして「骨が折れている」とか「炎症している」という現象によりすぐに人に伝わります。ですが、「心の積載量超過」つまり「目に見えない骨折」というのは、なかなか人に伝わらないですし、そもそも自分でも気付いていない状況がほとんどです。鬱や精神を患う人というのは、「心が弱い」のではありません。むしろあまりにも「心が強すぎる」のです。あまりに「忍耐力が高すぎる」のです。あまりに「正義感が強すぎる」のです。「目に見えない骨折」をしてもなお、前に進もうとしてしまうのです。前に進みながらさらに患部を重症化させてしまうのです。

フルマラソンを走りながら、脚の骨が折れてしまい、なんとか這いつくばって完走する。確かにそれは、後に「美談」になるかもしれません。しかし「あと10m」だったら何とかなったとしても、「あと10km」は無理でしょう。そして世の中には圧倒的に後者を選択してしまう人が多いのです。そしてその「美談の代償」は、本人が一生払い続ける必要があるのです。

もし、「自分」が精神的な病を抱えている可能性があるとして、「自分は今何をすべきだろう?今何ができるだろう?」と迷ったら覚えておいてほしいことがあります。まずは自分が感じる事、思う事を、フラットに、毎日毎日書き綴ってください。そしてそれを通じて、より深く「自分」や「自分を取り巻く状況」について知る努力を、ゆっくり自分のペースで続けてください。自分の心は、自分で守らなければいけません。「目に見えない骨折」から最終的に自分を守ってくれるのは、医師でも、薬でも、メンターでも、自己啓発セミナーでもありません。その脅威から自分を守り続けてくれるのは自分自身の「的確な認知」、「正しい知識」、「前向きな行動選択」とそこから生まれる「光ある未来」でしかないんです。

この記事が必要な人に届く事を願います。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?