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雑貨帖

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いろんなことを書き綴ります。 無名人の日常です。
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#エッセイ

ピンク電話

ピンク電話

小学生の頃の話です。
今もあるか分かりませんが、私が小学生低学年〜中学年の頃の夏休み、よく友達と自宅から数キロ離れた場所にある、山口リフレッシュパークという運動施設に小ぢんまりと置かれた市営プールに行くのが好きでした。
元々、習い事で水泳をしていて(いまはめでたくおっさん体型にて、泳ぐと陸に上がれません。)、大人用の大型プールでよく遊んでいました。

なんだかんだで自転車で行っていたものですが、急

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学校の名前

 最近、私の住む町でちょっとした騒動がある。各地でも発生している小学校の名称問題だ。私の住む吉備中央町は人口おおよそ1万人。多くが山間地域の過疎地域に近い町だ。
 元々は上房郡賀陽町と御津郡加茂川町という町であったようだが、平成の大合併により「賀」陽町と「加」茂川町の名前をとり加賀郡と名乗り、県の中央部に位置するからか吉備中央町となった。

 この吉備中央町、昨年、国の「デジタル田園特区構想」に基

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車検

 今日は車検の見積もりをしに、岡山市は大安寺にあるガソリンスタンドへ。ガソリンスタンドと言っても、このお店は家庭用ガス、重油なども取り扱い、大正2年に船舶用の油の販売から始まる老舗石油店だ。
 私の車は2012年登録。私のもとには2019年にやってきた。倉敷市の小さな中古車販売店で購入し、系列の工場で車検を通してもらい納車。以降は、倉敷市のお店が少し遠く感じ、2021年の車検は町内の同僚のご親戚の

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グリークラブと私。

グリークラブと私。

 今朝、宿直が明けて土曜日で休みだったため大人しく家に帰ると4月30日に京都コンサートホールで開催された「京都産業大学グリークラブOB会 男声合唱団ARCHER(アルシェ) 第10回定期演奏会」のDVDが届いていた。
 京都産業大学グリークラブは1965年に創部。創部時は10数名いたようだが、途中で混声合唱団と分団し、4回生1名、以下4名の少人数でスタートした。1981年に全日本合唱音楽コンクール

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じむじむ

 病院とは難儀なものだ。病気やけがをしたときにはとてもありがたい存在であり、我々の命の最前線にいる。しかし、そこで働く人々についてはあまり触れらることは少ない。医師や看護師は注目されど、である。最近は臨床放射線技師や臨床検査技師を主人公に据えたドラマなども出始めているが。内容が現実に即していないとかいろいろ言われるところもあるだろうが、こういう職業の人がいる、というのも大切だろう。

 さて、そん

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友人来岡

 先日、金曜日の夜から日曜の夕方まで、山口県に住む友人が自宅を訪ねてくれた。かの友人は高校時代からの付き合いで、往々にバカなことをしてきて、結局三十路を過ぎた今でも連絡を取り合う無二の友となった。
 そんな彼との2日半について、少し書いてみようと思う。
 テーマというか、結論は「食って食って食う」だ。

 金曜日、我らが総務課長は出張で不在。皆揚々として、仕事を早めに切り上げた。私もその足に同調し

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仕事って?

私は事務という仕事がてんで得意では無い。書類作成も苦手だし、根回しだって得意じゃない。なんならば仕事なんてやりたくは無いし、定時になれば終わってようがなかろうが帰りたくなる性分で、基本的に怠惰なタイプなのだ。
そのくせ、こだわるとなかなか止まらない。でも事務仕事でこだわりが発露した事はない。部屋の片付けなり、本の並べ方でこだわりがでることはあっても、事務仕事で文字の並び方や縦横比なんて気にする

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ゲームの話

 幼いころの思い出のゲーム。我が家は基本的にゲームを買ってもらえない家だった。買う財力がないというわけではない。教育的方針だったのだろうか、よくわからないが、とにかく周りがみんな持っていたゲーム機を新品でもらうことはなかった。
 それでも私にゲームの思い出はある。私の母方の叔母が大のゲーム好きだったが、途中で引退してしまい、譲ってもらえたのだ。私にとって古い記憶に残るゲームは、スーパーファミコンの

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弱い私

 仕事が嫌いだ。だが、やるしかない。私はとても臆病である。臆病すぎて、「仕事を辞めたいです」とも、「転職します!」とも言えない。世の人間はどうやって上司に言えているのだろうか。

 「憂鬱じゃなきゃ仕事じゃない」、とどこかの経営者が言っていたが、私としてはマイナスな気持ちで仕事をできるほどできてはいない。ただ、楽しい気持ちで仕事ができるほど世の中恵まれていないと思っているので、どうにか心のふり幅が

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私と合唱

私と合唱

 趣味で合唱をしている。合唱は集団でいなければ成り立たない芸術だ。単独の声楽では成しえないものであり、「合唱してるって?何か歌ってよ!」ができない分野でもある。
 そして私の合唱とのかかわりのスタートはいつも外圧というか、拉致から始まっている。

 私と合唱の出会いは中学生のころにさかのぼる。忘れもしない、中学2年生だ。多感なあの頃、ちょっとかっこつけようと音楽のテストで当時はよくわかっていなかっ

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中国道と山陽道と

山陽道と中国道

私のふるさとは山口県山口市、古くは大内氏、毛利氏の統治を受け、戦国期は中国地方の覇者となるも関ヶ原で敗北し、その後恨みつらみを抱きながら江戸の400年を過ごし、明治維新を遂げたどろどろの山口県出身だ。

現在、私は岡山県がバブルの頃に調子にのって建設して失敗した吉備高原都市に住んでいるが、いつも実家に帰るときは山陽道を利用している。
吉備高原都市から通称「吉備新線」と呼ばれ

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上賀茂

 上賀茂は私にとって、非常にゆかりのある場所だ。

 2011年3月。私は山口県山口市の実家から、着慣れないスーツを身にまとい、スーツケースと小さなかばんを持ち新幹線で京都駅に向かった。

 市営地下鉄から北大路駅に、そこからタクシーを使い柊野別れへ。別れの交差点から徒歩数分。小さなお米屋さんの入るビルの3階が私の部屋だ。

 私は新しい土地に来たらとりあえず散歩をする。私が住んでいた上賀茂という

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ふるさと

ふるさと

私が実家を離れたのは中学校を卒業式した15歳の時。
遠方の高校に進学することが決まり、中学校の卒業式を終えて母方の祖父母の家に下宿し始めた。

高校を卒業したら次は京都の大学に進学することが決まり、大学を出たあとは岡山の事業所に就職し、実家で暮らすことはいまのところ可能性はなくなった。

私が高校の頃から実家に帰ると必ず写真を撮るのがこの山だ。
この山を見ると実家に帰ってきたという気分になれる。

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