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日々のエッセイ

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2019年から湖畔暮らし。自然、ヤギ、トリ、仕事、考え事の日々。
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#家族

家族以外の家族みたいな存在

家族以外の家族みたいな存在

家族ではないのに、時としてまるで本当の家族のように感じる人たちがいる。

ここ数年は、自身の仕事や生活圏などライフスタイル全般の変化が大きかったことから、なんとなくその感情を忘れてしまっていた。むしろ他人は避けるような場面さえもあった。ある種人間不信みたいなものもあったような気がする。

しかし、つい先日久しぶりに「そうだった」と思い出す機会があった。すっかり忘れてしまっていた。

家族ではないけ

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待つのを辞める

待つのを辞める

「いってらっしゃい」

この言葉の意味を一番よく理解している人は、母だと思う。

母は父と結婚してすぐ、それまで勤めていた会社を辞めた。子供ができたこともあったけれど、私の親世代は結婚出産を経て退職する女性がほとんどだったそう。今では男性が育児休暇を取得したり、専業主夫という言葉ができたり、「生き方」が多様化している。一世代前とはかなりの差があるみたいだ。

父は海外出張が多い仕事をしていて、年に

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移住と両親と

移住と両親と

縁もゆかりもない湖畔の田舎町へ引越すと伝えたとき、自分の両親がどんな反応をしたか、正確な記憶がない。ただ、母からこんなことを言われたことは覚えている。

「あらあ、どんどん遠くに行っちゃうねえ」

もともと都内で一人暮らしをしていたこともあって、実家を離れたときのような打撃はなかったはずだ。そう、実家を出た日、私たちは母子揃って泣いた。今でもその時の母の顔を思い出しては、言葉にできない罪悪感で胸が

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焼き芋の時間

焼き芋の時間

自分一人だったらやろうと思えないことも、自分以外の人がいるならやろうと思えることがある。

例えば「夜ご飯を作る」という作業は、一人だったら雑になるか、もしくはやらない可能性がある。作らなきゃ、食べなきゃ、という気持ちがそもそも起こらないのだ。何にも縛られないことは自由でもあり、虚無にもなり得る。

自分以外の人の存在があるからやる。流されているようで、実はとても大きなモチベーション。

***

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不器用な私たち

不器用な私たち

思えば自分を含めて、私の家族はみんな不器用だ。

多様性が重んじられる昨今において「普通」とか「一般的」という言い方は望ましくないように思うけれど、実際大多数の人が歩く道のようなものは確かに存在する。

その「道のようなもの」を真っすぐに不自由なく歩いている人(あるいは家庭)を見ると、器用だなと感心する一方で、障壁のない綺麗な道を笑顔で歩けていいなと皮肉っぽい感情が生まれることがある。

今までも

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皐月に感じた慎ましさ

皐月に感じた慎ましさ

人が発する言葉や取る態度は、どこで誰を傷付けているか分からないものである。

当人にとっては他意がなくても、相手には全く意図していなかったように言葉を読み取られるかもしれない。無意識で取っただけの態度が、相手には失礼だと感じさせるものがあるかもしれない。

知らず知らずのうちに誰かを傷付けてしまった時、何が何だか分からず、非常にショックを受けることと思う。自分以外の他者が絡む衝撃というのは、わりか

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家族との喜怒哀楽

家族との喜怒哀楽

家族というのは、別居している場合を除いて、一緒に過ごす時間が言うまでもなく多い。親子、夫婦、ペットなど、家族にはいろいろな繋がりがある。

共有する時間が長ければ長いほど、家族との「仲の良さ」みたいなものも、その都度異なるように感じる。家族間良好関係度数(勝手に命名)における波の強弱、アップダウン。

最近めちゃくちゃ関係性がいい感じだなあ、と思うこともあれば、最近なんとなーくテンション下がり気味

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父と歩く夜の海

父と歩く夜の海

先日の父の日に井村屋のあずきバーを贈った。昨今の騒ぎでなかなか実家に帰れないから、郵送のプレゼントで済ませた。

当日の午前中、大量のあずきバーと父の写真が母から送られてきた。

「届きました~!あずきバー!」

無事に届いて嬉しかった。

写真に写っている父は知らぬ間にあごひげを伸ばしていて、ハリーポッターのダンブルドアみたいになっていた。白くて長くて。ひげのことを指摘したら母は反対だと言ってい

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