労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈22〉

 ある特定の生産環境において使用できないような生産力=労働力を買うというのは、その欠けた分の生産力をあらためて導入しなければならないことで、当の生産力=労働力を買い使用する立場にある資本としては、結果的に「高くつく」ことになる。だから生産力として買われる労働力に対して求められているのは、「いかなる生産環境においても使用することができる、一般的な生産力であること」なのであり、そのような労働力こそが「労働市場においては先ず買いだとされる」わけである。
 しかしそのように買い手である資本が夢に描くような、「あらゆる生産能力を身につけている万能な労働力」など、どこの世界においても存在しない。そのような労働力を先ず買いたいと思ったとしても、どの労働市場を探し回ったとて、そこまでして買いたくなるような代物は「先ずどこにも無い」だろう。だがその逆に、「無理をして買わなくてもよいもの」あるいは「できる限り買わない方がよいもの」なら、いかに彼らの目が節穴だったとしても、そこいら中の道端でさえすぐに見つかるはずだ。だからそのような「何らか特定の生産能力を持てなかったと見なされる労働力」が、先ず労働市場から次々と脱落していくことになる。つまり「能力があることが、買われる理由になる」のではなく、「能力がないことが、買われない理由である」ことの方が、労働市場においては「買いの真っ先の基準」となっていくわけなのだ。

 売れない労働力が買われない理由とは、あくまでもその労働力が他の労働力と比べて高くつくからという「相対的な理由」としてあるはずなのだが、そこに「その労働力には能力がないから」という理由づけが持ち出されてしまうと、あたかもそれが「その労働力自身の内在的な理由」であるように転化されることになる。他の労働力に対して相対的に成立していたはずの、労働力商品として買われなかった理由。その相対化の対象=他の労働力商品から切り離されて、まるでその理由が「それ自身として自立し、当の労働者=一個人に内在している」かのように見なされることになる。よって「労働力商品として買われないのは、その労働者自身の責任である」ということになる。
 一方で「買われた労働力」は、あたかもその理由が「自分自身の能力による」と思っているのかもしれない。残念でした。あなたが買われたのは、「運が悪くて才能が劣っている、あなたではない他の労働力が買われなかったおかげ」である。彼らがいるおかげで、まるであなた自身が運が良く才能が豊かであるかのように見えるだけのことだ。あなた自身の価値とは結局そのようなもの、「その程度のもの」なのである。
 むしろそのような「あなた自身の価値」が、いずれはあなた自身が労働力商品として買われない理由に転化することになるかもしれない。もしそうなったら、そのことをあなたは誰の責任に帰することもできないのだ。ただただ、「あなた自身の運が悪かっただけ」ということになるのであろう。
 ともあれ、労働力の買われる理由あるいは買われない理由が、「その労働者自身に内面化される」ようになれば、その労働者自身が、「より主体的に、その理由を自分自身によるものとして、その内在化された理由にもとづき、自分自身の責任において、自分自身を売ろうとする」ことになるだろう。それによって「買う立場」としては、労働力を自分自身の生産手段として買う理由が、もはや自分自身の都合によるものではないということなるわけだから、そこでよりいっそう気兼ねなく、労働力商品=他人の能力を、自分の思うままに選別することができるようになるわけである。

〈つづく〉

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