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脱学校的人間(新編集版)〈24〉

 ブルジョア階級の社会的な支配力の裏付けでもあったところの、その経済的な成長の推進力は、しかし彼らブルジョア階級「内部に限定された力」によってではけっして生み出せないものだった。そのような力を生み出すことのできる「成長の現場」はブルジョア階級内部にはなく、あくまでも「社会」の方にあったのである。
 ゆえに「社会全体」が成長発展するのでなければ、それはけっして彼らの「力」にはなりえない。その「力」を維持し続けるために、「社会全体」が成長発展に向けた欲求・欲望を持ち続けていること。それが彼らブルジョア階級の「支配力」を維持させ続けうる唯一の方策であった。
 そもそも彼らの有するような「特化された」支配力というものは、意識して維持させ続けていかなければ発展することなどけっしてできないばかりでなく、その維持に対する配慮を一瞬でも怠れば一息で消し飛んでしまうくらい、儚い風前の灯のごとく「か弱い力」しか有しえないものであった。そのような弱さを隠し通して、自らの支配力を維持し続けるためには、もしかしたらそのような弱さを見咎めることになるかもしれない人々さえも巻き込んで、そういった者たちさえも自分たちの「力の一部」として取り込んでいくことができるくらいにならなければならなかった。けっして総合的・全体的なものとして成り立っているわけではない自らの「特化された支配力」を、社会全体に影響力を持ちうるものとして置き換えていくためには、社会全体を「力に置き換えて」いかなければ、力として全く効力を持ちえない。少なくともそのように置き換えていく努力を、彼らは欠かせてはならないのだ。動かし続けることができなければ、それは「力」たりえない。そうしてみるとある意味それは、「力の本質」というものに立ち返った認識であった、ということなのかもしれない。 
 ともかくそういうわけで、かつては「一部の人のみに限定されていた」ものを、「全ての人々に向けて、その限定の範囲を無際限に拡大していく」というように置き換えていくこと、これこそが産業社会発展のカギであり、ブルジョア階級が生き延びる術だったわけである。
 今現在においてはたしかに「ブルジョア階級」などというように、「限定して表現しうる社会階層」は一般の社会においてほとんど見受けられないだろう。おそらくはほとんど全ての人が、「あたかも一般市民であるかのように生活している」ことだろう。しかしその「全ての一般市民の生活」にこそ、「ブルジョア的生活への欲望」はしっかりと引き継がれているのであり、まさにそのようにしてブルジョア階級の「魂」は、現在においてもしっかりと(あるいは「ちゃっかりと」と言うべきか)生き延びることができているのだ。

 さてこのようにして、いわゆる「子ども時代」なるものは、いよいよ「全ての子どもの手に届けられる手段」を得たわけである。そしてそれと同時に、これにより「全ての子どもたちは、子ども扱いされる対象になっていく」ことにもなった。つまりこれにより、いよいよ「誰もが子どもになれるようになった」というわけだ。
 「子ども」という概念が近代において発見されたという、巷間よく聞かれる説については、以上のことを踏まえることでようやく頷けるものとなるだろう。それと同時に、「あの子もこの子もみな一様に子どもである」という、われわれが一般的に慣れきっている視点は、このように「誰もが子どもであることができる」という条件が誰にでも適用されることによって、ようやくはじめて可能なところとなるわけである。

〈つづく〉


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