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野田祥久郎
2019年6月3日 22:53
一年半ほど前から疎遠になってた友達がいた。くだらないドッキリを仕掛けて、ネタバラシをする前にLineブロックそして着信拒否されていた。本当にくだらないことだった。いつものノリならそんなムキになって怒ることもないと思っていたけれど、いざ蓋を開けてみると驚くほどに怒りがこみ上げてきたのだろう。Lineの文章もキツイ言い方で、吐き捨てるようにグループLineを抜けていった。いつもであれば、
2019年2月6日 21:51
野田祥久郎(のだしょうくろう)という名前を思いついたのは29歳になって1ヶ月後、品川にある昭和大学病院のベッドの中だった。その日は朝から体調が悪く、寒気と喉の痛みが時間が進むごとに酷くなっていった。2日間、恵比寿三丁目スタジオに缶詰め状態だったけれど、2日目午前中の準備はアシスタントに任せて病院に行った。1月の終わりだったのでインフルエンザかなと思ったけれど検査は陰性だった。薬をもらい、寝
2019年2月5日 21:43
東京が面白くないというと、実際のところはもちろんそんなことはない。モノはある。日本で、世界でも屈指の都市だ。どこに行っても楽しい。東京から発信されるカルチャーは世界の標準にもなる。海外の初モノは東京に、東京にいれば世界のファッション、アート、飲食店、すべてではないにしろ、なんでも手に入る。街中を歩けば世界各地から観光客が来ている。オリンピックに向け区画整備を様々な場所で、それに便乗して
2019年2月3日 17:17
さよなら東京、こんにちは福岡。 その1東京に来て初めて住んだ場所は川崎市だった。というとなんだか可笑しいけれど、ド田舎の大分から上京した僕にとって東京も神奈川も同じようなものだった。多摩区の中野島というこれといって何もないけれど、住むには丁度いいところに当時大学の陸上部の寮があったからだ。川崎から立川までJR南武線が通っていてちょうど真ん中より少し川崎よりだった。隣りは登戸、逆隣りは稲城長
2019年2月2日 21:47
東京に初めて行ったのは小学校4年生3月、ドッジボールの全国大会だった。大分のド田舎で育った僕にとって東京という街は、この世界のどこでもないような気さえした。中学生になり引退するまで5回、全国大会で4回、アジア大会で1回、東京に行った。そこから約6年間東京とは縁がなかった。中学生からは陸上競技にのめり込み、次に東京に行ったのは、全九州高校駅伝が終わって直ぐ11月、大学の推薦入試のときだった
2018年11月16日 20:27
the brilliant greenが中学生の時大好きだった。この頃よく聴いていたバンドはハイスタ、ニコチン、スーパーカー、くるり、ラブサイケデリコ。あとはヘビメタ、ハードロックが多かった。モーニング娘。が全盛期だった。携帯電話はまだパカパカ式でNナンチャラとかSHナンチャラとか白黒の画面で着信は三和音?とかだった。今では考えられないけれど。ダウンタウンがよくCDを出していた。小室
2018年9月8日 17:13
9月8日(土)12:00〜9日(日)21:00までdilemmaが都内にあるコインロッカー20カ所ランダムにイギリスで活動するアーティストのリアム・コブのイラストが描かれたTシャツが設置されているイベントをしているらしい。早速nstagramを確認してみるともう20カ所全て公開されていた。最近こんな面白いことをするブランドなんてなかったので気になってしまった。 近年、お店に足を運ばな