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【小説】宇宙人のための「おじさん」論理ネス

フジテレビ月曜9時のドラマ
「ミステリと言う勿れ」第8話の中の一場面です。
(*久能は菅田将暉が演じる大学生の主人公)

Aさん「久能さんは教師めざしてると聞きました」

久能「あ、はい、そうです」

Bさん「きみー、部活とかサークルには?」

久能「え?あー、いや、特には、、」

Bさん「接客のバイトとかしたことある?」

久能「ないです」

Bさん「大丈夫かー?なんかあんまり向いてないようなきがするけど(笑)ふっふっふ(笑)」

久能「、、、向いてるから教師になりたいわけではないです」

この口調を聞いて、胸がモヤモヤしました。

自分はいったい、何にモヤモヤしたのか。

Bさんは何を考えてこの発言をしたのか。

今日はそんなことを考えていきます。

「おじさん」論理ネス

今回、私が注目したいのは、

「大丈夫かー?なんかあんまり向いてないようなきがするけど(笑)」

という発言とそこへ至る思考の流れです。

たまたま、ここでのBさんが40代の男性であったこと、
そして、大学生である自分が、40代の男性から同様の発言を受けたことがあることから、仮に「おじさん」論理とします。

私が「おじさん」論理にモヤモヤした点を正直に吐露していきます。

それは「否定」です。

もう少し詳しく言うと、
相手の想いをくみ取ろうとしないところ、
そして自分の尺度から相手を測り、評価するとことです。

それが、褒められる評価なら嬉しいですが、「向いてない」と言われてしまうと、嫌な気持ちになります。

「だから、相手を否定しないようにしましょう!」と言われればそうですが、あえてもう少し深く潜ってみます。

なぜ「おじさん」は否定するのか

鍵カッコつきの「おじさん」は、なぜ否定するのでしょうか。

今回の会話のラリーを見ると、「部活、サークル、接客バイト」と何かを探っています。

「教師になりたい」と聞いて、この「おじさん」は自分なりの教師で活躍人=向いている人の像を思い浮かべて、そこに主人公が当てはまるかをチェックしています。

おそらく、教師をコミュニケーション力が必要な存在であると思い、その像と対称的な主人公の社交性の低さを感じ取り、確認作業のように質問をしていたのかもしれません。

相手を「否定」することが、質問の前から決まっていたのか、それとも質問の末、決まったのかはわかりません。実際、他の場面ではどちらの場合もあると思います。

では、次に「おじさん」が否定することを決めてから、実際に発言するに至るまでの流れを考えていきます。

ここでは、「メリットとデメリット」「損得勘定」が関わっていると思います。

まずは、対主人公との関係を考えてみます。

主人公と「おじさん」は初対面です。初対面の人を否定することは、相手に敵対視される可能性があります。これはデメリットになりそうです。

しかし、このデメリットは今後予想されるその人との関係性によって大小が変わってきそうです。この場限りの関係であると考えれば、大した損はしないと考えたのでしょうか。

次に、対周りの人々との関係を考えていきます。

「おじさん」が否定したいと思っても、周りの目を気にしてしまうとよっぽど意見に正当性の確信が持てない限り、言動に移すことはデメリットになってしまいそうです。

今回の場合、「おじさん」の周りには、同級生や大人が多くいました。その集会を開催したのも「おじさん」本人でした。信頼もあり、価値観も近しいのでしょうか。多少のマイナス評価はストレスにならないような土壌がありました。

次に、意見の正当性と確信について考えていきます。

少し自分と意見が合わない場合も、相手に対する自分の意見の正当性に確信が持てなければ、否定するという行為には及びません。逆に、自分が打ち負かされてしまい、大きなデメリットになるからです。

今回、「おじさん」の否定対象である大学生は自分の半分以下しか生きていない人生の後輩です。知識も経験も自分の方が多いです。どうやら「おじさん」の方が根拠をこれまでの経験から語れそうです。論破できそうです。

今回であれば「教師になる」という目的に対して、相手の「間違った」考え方、行動を、自分の長年の経験から得た「正しい」考え方でアドバイスすることができます。

なんとお互いにとってメリットがあることなのでしょうか。多少の嫌な気分は目をつぶってほしいくらいです。「あなたのメリットのために。」

少し皮肉気味になってしまいましたが、今回の発言における損得勘定はここが一番大きいと予想しています。

経験という偉大な神が、相手が自分と全く別の考え方と前提のもとに生まれた宇宙人であるという可能性への思考回路を遮断するDX装置を作り出してしまったのでしょうか。

「ワレワレハ宇宙人ダ」

「教師に向いていない」と言われた主人公は、数秒の沈黙の後、

「向いてるから教師になりたいわけではないです」

と答えました。

すっきりしました。主人公は「おじさん」の発言を聞きながら、「おじさん」の中の教師に向いてる像をモノサシに自分を測っていることに気づいたのでしょう。

その上で、
「私はそのモノサシを私は理解しました。ですが、あなたのモノサシと私のモノサシは違うので、ゴールが同じでも前提が違います。」
と言っているように感じました。

経験DXされた人の対処法は、「おじさん」のモノサシをへし折ることではなく、そのモノサシは魅力的だけど自分にはいらない、と丁寧にお断りすることだと思います。

そこで、察しのいい「おじさん」は、おじさんに戻り、宇宙人だらけの現実に気が付きます。もちろん自分も。

そして口をそろえて言います。

「ワレワレハ宇宙人ダ」

と。

そして、相手の星にはどんなものがあるのか、何があるのか。
興味深々で語り合うでしょう。

いつから「おじさん」になるのか

よく若者と大人(今回はおじさん)が対比される構造を見ます。

最近では、スウェーデンの16歳(2019年当時)の活動家、グレタ・トゥーンベリさんの発言が思い起こされます。

子どもで将来のある私たちと対比して「YOU(あなた)」=大人たちという言葉を多用した国連での怒りのスピーチです。

このスピーチの内容や発言の経緯は置いておきます。今回は若者と「おじさん」について考えてみます。

人間は生きている限り、年をとります。昨日の赤ちゃんは今日の青年であり、明日のおじさんです。
その前提では、年齢によって何かが決定的に違う訳ではない気がしてきます。

では、「おじさん」はどのように生まれてくるのでしょうか。

ここでは「おじさん」を、経験により相手の前提を疑えなくなってしまった人とします。

なんだか多様性の認識が関係している気がします。多様性の考え方はいろいろありますが、人間社会で使う場合は、違うことを差ではなく違いとして認識することだと思っています。

「差」であれば、モノサシで測ることができます。違いがでる度にモノサシを取り出します。モノサシには、ありがたいことに誰かが良い方向と悪い方向を書いてくれています。

あとは簡単です。良いポイントを貯めるゲームです。良いポイントを貯めると、お金や名誉、フォロワーやいいねと交換できます。指標を作った人には褒められます。

一方、「違い」の場合は、モノサシに指標は書いてありません。1と10ではなく、「A」と「ん」という違いになります。自分が「ん」でも、だれも褒めてくれません。

「無」になりたくなければ、自分で指標を決めなくてはいけないし、その指標が相手と同じことはありえません。自己満を出来る人が精神的な余裕や充実感という褒美を享受し、出来ない人はモノサシを買いに行きます。

そろそろ、「おじさん」の話に戻ります。

「多様性」の認識と「自己満」の能力が欠如することで、誰でも「おじさん」になれます。おじさんでも、「おじさん」でも楽しいことと辛いことが待っているでしょう。

人間の思考はあまり変化しません。環境は変化します。昨日書いたアメリカにいる天才のソースコードを、今日、中国の天才が上書きしていきます。そして、明日には常識になっていきます。

このネット時代において、モノサシ屋は急速に閉店してきていきます。昨日まで隣で前提を共有していた人の前提は、今日全く別のものに上書きされています。

DSで人間と遊ぶのか、宇宙人とメタバースで遊ぶのか。ムラに避難するか、ノマド化するのか。

よし、自己満。


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