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【連載小説】息子君へ 197 (40 俺は嘘をつきたくなかっただけだった-7)

 自分の中で恋愛とセックスが分離していることで、自分の何かが歪んでしまったとは思っていないのだ。ただ、恋人という特別な相手として密接な関係を継続していくうちに、蓄積してくるわだかまりのようなものを感じていたし、それが恋人とのセックスを曖昧にぼやけたものにしてしまうようには思っていた。そして、そういう関係性のわだかまりの外側でセックスしているときに、セックスとはこういうものだったなと思って、恋愛によってセックスがぼやけさせられてしまうことに不愉快なものを感じてはいた。セックスと恋愛は別のものだけれど、恋愛はセックスを私物化しようとしてきて、セックスを恋愛の中に取り込んで変質させようとしてくるものなのだと思うようになっていったのだと思う。
 セックスフレンドのひととのセックスしているときに、たまにこのまま何もかも全て終わってくれたらいいのにと思うことがあった。もしくは、そのひととのセックスが終わって、ぐったりしながら一緒にタバコを吸って、軽く身体を触れ合わせて、相手の背後から抱くように横になって、声をかけてあげたい言葉なんて何も思い浮かんできそうにもないことに清々しい気分になって、あっという間に眠ってしまいそうになりながら、これで終わりでいいのにと思ったりとか、もし世界が終わってしまうのなら、このひとじゃなくてもいいけど、あんまり今までのことなんか喋ったりしないでいいひとと一緒にいて、だらだら気持ちがいいだけのセックスをして、疲れたら一緒にうたた寝して、先に気が付いたら、身体や髪を触らせてもらいながらぼんやりさせてもらって、相手も気が付いたら、何か言いたいことが思い浮かぶまで、だらだら浅いキスをしたり、またうとうとしたり、勃ってきて硬くなってしまったらまたさせてもらったりとか、そんなふうに過ごせるのがいいんだろうなと思ったりしていた。
 何もかも終わってくれるのなら、これ以上何もいらないし、これまでのことを確かめたいとすら思わないということだったんだろう。生きていることの空っぽさと、空っぽであることの不愉快さと、けれど、セックスによって空っぽなまま肉体は充実できたときに、うまくいっているのだから、このままこの不愉快なものが全て流れ去ってくれればいいのにというような気分に、そのひととしているとなっていたということなのかもしれない。逆に言えば、もう終わりで何もかもいらないとしても、もしそれをもらえるのならいいなと思い浮かぶのが、ただ自分とセックスしたいとだけ思ってくれている、気持ちのいい身体をしたひとを抱いている感触だったのだろう。何もしなくていいのなら、何も喋らなくてもいい相手と、くっつけあっているだけで自動的に気持ちよくなれる自分たちの身体の気持ちよさにへらへらしながら、相手の中に押し込んでいるものがきつく勃起している感覚や、くたびれてゆるまってしまったものがまただんだんと勃起してくる感触に、自分は生きているんだなとぼんやりしていたいということだったのかもしれない。
 当時はそんなふうに思っていなかったけれど、それはきっと、生きていくしかないから彼女と付き合って関わりを深めようとしているだけで、生きないでいいのなら、そんなにまで一生懸命ひとと関わらなくてもいいというような感情だったのかもしれないとも思う。
 そして、そんなことを思っていたこと自体、そのセックスフレンドのひととそんな関係になれてしまったからだったのだろう。そのひととは、彼女とのセックスのように、普段の自分の続きで、お互いが日々確かめ合っている自分らしさの範囲に収まる態度と表情で、いつもの笑い合ったり真面目に話し合ったりしている自分たちの続きでセックスしていたわけではなかった。自分がどういう男で、何ができて何が喋れて誰からどれくらい頼りにされているなんてことは一切関係なしに、ただ身体のボリュームと肌のなめらかさとペニスの形と硬さがこういう感じというだけの、単なるセックスフレンドとセックスできてうれしい男として勃起して、にこにこしたり、気持ちいい顔をしたりしながらセックスしていた。そして、そういう自分にキスしてくれて裸になってくれるひとがペニスの押し付け方にあんあん言ってくれていることに、別に俺はこういうひとってだけなんだよなと思いながら、深いところからほっとしていたのだ。
 そのセックスフレンドのひととも、それなりにいろんな話をしてきたし、俺がどういうひとで、まわりからどう扱われているのかもなんとなく知っていた。けれど、セックス前に飲みながら何を話したところで、そのひとにとっての俺は、特にどういうひとというわけでもなくて、自分とセックスしたがってくれる男の子というだけだったのだろう。実際、何度セックスしても、モチベーションがだんだんと下がっていった以外は、セックス中の力関係も、セックス中に交わす言葉のバリエーションも、セックス中の態度も、全くといえるほど変わらなかった。
 それは最初からお互いに何も求めていなかったからなのだろう。セックスしてみて、お互い気持ちよかったからうれしくて、うれしかったからまたしてみてもやっぱり気持ちいいのがうれしくて、いつも楽しみでにこにこした状態からセックスが始まるのもうれしいとか、それくらいの感情しかなかったのだ。お互いに相手のことを自分とセックスしたくて、気持ちいいセックスをしてくれるひととしか思っていなくて、だからこそできるにこにこ仕方でセックスまでの時間を過ごして、お互いに少しも気取らずに抱き合って、身体を押し付け合ってあんあん言っていた。俺もそのひとに刺激が強すぎることをされて声を上げさせられるのは好きで、なぜかそのひとには全く恥ずかしくなかった。
 人間関係がある相手には、関係を踏まえないといけないし、関係にとっていいことをしてあげないといけない。そうやって、いろんなことをわかってあげられるようになるし、相手が大事にしてもらいたい大事にしてあげ方で大事にしてあげられるようになるけれど、その代わりに、そういう役割の自分としてしか相手に何もしてあげられなくなっていく。
 別に恋人だけではなく、友達にしてもそうなのだろう。お互いのことを気にかけ合っていて、いろんなことを話しているうちに、お互いの話を少しも誤解せずに聞いていられるようになったような友達関係だって、関係を踏まえたうえでしか関われなくなっているのだろう。いい関係になって、一緒に楽しい時間を過ごせる相手になっていくというのは、どうしたってそういうものなのだ。
 さほど友達という感じのないセックスフレンドという関係は、人間関係的なもの抜きにお互いを知っていきながら、一緒に楽しい時間を過ごすことを繰り返していけるということでは、あらゆる人間関係の中でもかなり特殊なものなのだろう。ひととひとが楽しく過ごすことができる何かとして、いかにセックスが特別で強力なのかというのは、こういうところにもあらわれているのだと思う。
 俺はそこまでそういう実感を繰り返し体験したわけでもないけれど、それに似ているとしたら、クラブに行って朝まで身体を揺らしていることなのだろう。暗い中で、お互いによく知らないひとたちで、まわりのみんなをうっすら意識しながら身体を揺らして、朝も近付いて、もうずっといい気分で、そこに疲労の心地よさも混じってきて自意識が薄れてきて、みんながそんなふうに楽しんでくれているから自分もこんな気分になれているという感覚で気持ちよくなれている時間というのは、人間関係ではないもので他人といい感情や強い充実感を共有できている時間になっているのだろう。
 俺は翌日に疲れが残りすぎたり、仲良くなったひともいなかったりで、一時期はたまに行っていたけれど、だんだん行かなくなって、その後は知り合いが主催する小さいイベントに行ったりするくらいになってしまった。そもそもそういう界隈の知り合いもほとんどいないし、友達でクラブにちょくちょくいくようなひとも全くいなかったし、昔からダンスミュージックを家でも聞いていたとはいえ、一時期でも俺がクラブに行っていたことの方が、俺の人生からすれば不自然なことだったのだろう。
 クラブにちょくちょく行っていたのは、彼女と別れて落ち込んでいたときで、その頃はセックスフレンドのひとも全然連絡をくれなくなっていて、誰ともセックスしていないまま時間が過ぎていった時期だった。きっと悲しくなったときに、気持ちの行き場がなくて、セックスしたいなと思って、けれど相手もいなくて、その代わりにクラブに行っていたというのが実際のところだったのだろう。
 翌日に疲れが残りすぎたけれど、クラブに行くのはそれなりにうまくいっていたなと思う。誰が回すのか事前に調べて、好きそうなひとがやっているところに行っていたのもあるけれど、何時間も音楽に受け身になっていれば、身体は自動的に音楽に気持ちよくなり続けられる状態になっていくし、空間を感じて、自分の身体を感じて、頭の中が空っぽなことを感じながら、気持ちいいなと思いながら朝まで身体を揺らしていれば、箱を出たときには頭の中にこびりついていた感傷はさっぱりと洗い流されていた。
 別にクラブに行かなくて、ベッドでうずくまっているだけでも、やりすごすだけならなんとかなったのだろう。けれど、そのことについて考えないと苦しくなってきそうな気配に気分が悪くなりながらベッドに移動して、考えるほどに息が詰まって視界も暗くなってきていつの間にか眠ってしまうまで、もうすでに何度も考えたことを同じように考えても、とりあえず眠れたことでその一回の発作をやり過ごせただけにしかならなかった。映画を見てそれなりに没頭できてぼろぼろ泣けたとしても、せいぜい映画館を出て二時間くらいなんとなく気が楽になるだけで、頭の中はいつでも嫌悪感が動き出せる状態のままだった。頭で何かを思って、それでもいいんだと思い込もうとすることで自分の心を鎮めるというのは、そんなに簡単なことではないのだ。
 どうしたところで人間は頭ではなく肉体なのだというのは、そういうことからもわかることなのだろう。暗いフロアの中で、そばで揺れている他人の肉体を揺らしている音楽を感じ続けて、その空間の一部へと埋没していくようにして、音楽とみんなの気配にしっくりくるように自分の身体を動かし続けているというのは、身体で感じ続けることで、感じていることで自分の中をいっぱいにしてしまうことなのだ。身体の中がどんどん感じていることだけでいっぱいになっていくことで、ずっと自分を包み込んでいた感情や思考が身体から追い出されて、ずっととらわれたままになっていた思考からも抜け出して、身を委ねられる音楽の感触しか感じていない時間が始まって、身体を動かし続けていれば、そこから朝まで、別の気分で数時間を過ごすことができてしまう。暗い中で、音楽の心地よさに反応してしまう自分の身体と、みんなが楽しそうにしている気配に集中して、空間に溶け込みながら自分の身体を気持ちよく揺らし続けることを朝までうまくやり遂げられたときには、自分はこの場を楽しめたと心から思える。映画を見て泣いたりするのとは、すっきりするといっても、すっきり仕方からしても別の体験なのだ。
 映画と違ってフロアの中の光景や音は現実なのだ。その場の現実を感じて、その場の現実に自分の身体をフィットさせ続けることで、身体が気持ちよくなって、心地よさや楽しさで心が満たされるというのは、自分が頭の中でそんな気持ちになっているのとは全く別のことなのだ。頭の中ではなく、現実でみんなと一緒になって、現実で気持ちよくなったまま時間を過ごせてしまうことで、自分がどれほど同じ思いにとらわれ続けていつまでも悲しい気持ちから抜け出せないつもりでも、ちゃんと自分の身体はみんなと楽しくしていられたのだと、現実を思い知ることができる。朝になって外に出て、来てよかったなと思いながら、明るくなった街を歩いていると、疲れているのもあるけれど、身体がまだみんなと揺れていたときの気持ちよくなろうとしていたときの身体のままで、気分はずっと自分の頭の外側にいて、家に帰ってシャワーを浴びて眠るまで、それはずっと続いてくれるのだ。
 あの頃、疲れるし億劫に思いながらではあったけれど、クラブに行っていたことが自分の助けになっていたんだろうなと思う。落ち込みすぎてあまりにも同じことばかり考えてしまう日々だったけれど、フロアの中で心地よくてほっとしていることにじーんときたりすることもあったおかげで、自分が自分の肉体だということを完全に見失ってしまわずにすんだというのはあったのかもしれない。
 誰ともセックスできないときにも、クラブに行くことでなら、自分の身体を一度すっきりさせられてしまうというのがどういうことなのかわかっただろう。長い時間の肉体的な充実でしか洗い流せないものがあるのだ。ひとりきりで、誰と喋る元気もなくても、クラブには行くことができて、みんなに混じって、黙ったままゆっくり気持ちよくなりながら身体を揺らして時間を過ごしていられるというのは、とてもありがたいことだったりするんだ。
 そして、セックスフレンドのひととの充実していた時期の、何の義理も遠慮もなく、お互いにセックスしたいだけの相手と、うれしくてにこにこしながら始められるセックスは、そういうものに匹敵していたということなんだ。三十分とか一時間くらいでも、最近お互いにどういうことがあったのか全く知らない同士で身体の感触に夢中になりながら腰を押し付け合っていれば、朝まで踊っていたみたいに感傷が洗い流されて、何もかもどうでもいいけれど、いい時間を過ごせたとほっとできている状態で眠ることができていた。
 本当は、クラブに行ったりしていた辛かった時期だって、セックスフレンドのひとが相手をしてくれたらよかったのだろう。もう覚えていないけれど、一回くらいは連絡したのだと思う。きっと、最近はずっと遅いし時間がないとか、そんな返事がきたのだと思う。そのときたまたまセックスフレンドのひとが暇にしていて、セックスしに会いに来てくれていたら、俺はひと目見て普通の状態ではなかっただろうし、心配して慰めてくれたんだろうなと思う。俺は彼女とのことは誰にもあまりまともに話さなかったけれど、セックスフレンドのひとには、あまりまともに話さなくても、ぼろぼろに泣くことができたのだろう。泣き疲れて寝てしまって、俺が起きたら起きてくれて、キスしてくれて、セックスしてくれて、かわいそうにね、まだ辛いね、辛いときはうち来てもいいんだよと言ってくれて、また泣いて、ごめん、我慢できないから、家行きたいって連絡しちゃうと思うと言って、相手も少し泣いてくれて、いつでもおいでと言ってくれたりしたのだろう。そうやって、久しぶりに、数ヶ月とか一年近くあくのではなく、三日後に会ったり、一週間後に会ってもらったりするようになって、相手は俺を抱きしめたり、顔や頭を撫でながらにこにこして、かわいそうだねと言って、キスしたりペニスを触ったりしながら、しょうちゃんのせいとかじゃなくて、みんな自分のことしか考えてないんだよ、というようなことを言ってくれたのだと思う。多分しょうちゃんも自分のことばっかりだし、誰のせいでもないんだけど、しょうちゃんをそんなに悲しい気持ちにさせたのはひどいなと思うし、しょうちゃんはひどいことされたと思ってていいんだよ、というようなことを言ってくれて、めそめそしている俺に、みんな自分のことしか考えてないけど、でも、私はしょうちゃんのことが大好きだからねとキスして、泣くのを止められなくなっている俺の服を脱がしながらキスを繰り返して、泣いてていいからねと言いながら、もう勃起してしまっている俺に興奮しながら、いろんなところに唇をつけて、自分の中にペニスを入れて、しょうちゃん気持ちいいと言ってくれたのだろう。
 もしそうなっていたなら、俺はクラブに行かないでも、たまに映画館に出かけて、そのついでで長々とした散歩をしたりするのを繰り返すくらいで、あの頃を乗り越えられたのかもしれない。
 セックスとはそういうものなんだ。特に、人間関係が希薄な相手とのセックスや、人間関係を踏まえない状態になってするセックスは、人間関係に人生を乗っ取られているような息苦しさや、自分が自分であることの苦しみから、一瞬かもしれなくても、そのひとを救い出してくれたりする。関係として関わるのではなく、単なる肉体と肉体として抱き合っているだけだからこそ、相手に喜んでもらえていることのうれしさに夢中になっている間は、人間関係に窒息させられないで、気持ちのままに息を吐くことができるということなのだろう。
 悩みや苦しみによって身体も心も痛みを覚えるし、その痛みだって現実なのだろうけれど、悩みや苦しみは自分の中にあるだけの現実ではないもので、そして、裸で抱き合っている相手の肉体は圧倒的な現実なのだ。自分の感情に反応して相手が興奮してくれているのも、自分のペニスに相手が気持ちよくなってくれているのもどうしようもない現実で、相手の気持ちよさが自分にも伝わってきて、そうやって、一緒に気持ちよくなれていることのうれしさをお互いの顔で確かめ合えているとき、自分はちゃんとできている、自分は喜んでもらえている、自分はひとに嫌なことしかできないわけじゃないと思えて、それはときには泣けてくるほどにほっとできることだったりしてしまうのだ。
 話が脱線してしまったけれど、辛いときや虚しさでいっぱいなときほど、セックスというものが、ひととひとは優しく抱き合うことでうれしくなれるという優しい現実へと助け出してくれるありがたいものになるというのはわかっただろう。
 というか、そもそも辛いときの話をしていたわけでもなかった。人生そのものであるはずの人間関係というものから外れたところでお互いの身体と心の感触の気持ちよさを分かち合っているだけのセックスというのが、思うべきことをなくした頭を停止させたまま、心と身体を満たしきってしまうことで、射精して、気持ちいいことをさせてくれたひとを抱いて横たわりながら、こんなにも満たされているはずなのに、放っておくと何かを思おうとしてくる頭が虚しくて、もうこれ以上自分のことも、誰かが自分に思っていることについても何も考えたくないし、もう人生これで終わりでいいという気分にさせてしまうということだった。そして、それはクラブで朝まで身体を揺らすことに似ているということだった。
 別にクラブに行かなくてはそんな気分になれないというわけでもなかったりはする。セックスでへとへとになりながら空っぽになれたのと同じような体感ということで、何もかも終わってくれていいのにという感覚は、特定の曲だけれど、家で音楽を聴いていてもやって来ることがあった。夜中なんかに、空っぽな気持ちになっているところに、音楽の感触が他の全てを流し去ろうとするみたいにして流れ込んできて、音楽だけが聴こえているような状態になれているとき、もうこれで終わりでいいなと思うことがあった。そういう状態で聴けばそうなるということでは、その特定の曲たちは、何度もそんな気分へと俺を押し流してくれて、俺が独りよがりに感傷に浸っているわけではなく、その曲の力でそうなっているんだなと思って、そんなにまでの力を持つものを作れてしまうなんてすごいなと思っていた。
 俺はいろんな充実の中でそんな感覚に降りていってしまうということなのだろう。けれど、セックスフレンドのひととぐったりして、このまま全部終わってくれていいなと思っていたのは、音楽でそんなふうに思うようになるよりも前だった。
 そのひととのセックスの中で気付かされた自分の感じ方は、音楽とか、何かしらの作品に対してだけ拡張されていったわけではなかった。自意識過剰が弱まってきた三十代以降は、光がとてもきれいに感じられてしまうときなんかに、景色が美しすぎることに思考が停止してしまって、自分がいない自分の視界の中の世界の美しさに、自分はこの美しさとは関係がないのだという気分になって、ただ空っぽな感じに、きらきらしている世界の感触で自分の中がいっぱいになっていることに呆然としたりするようになっていった。
 どうしたって俺はそうだったのだろう。空っぽになれるならそれでよくて、そして、空っぽなんだから、もうそれで終わりでよかったのだ。そして、俺が一番そういうことをはっきり感じていたのがそのひととのセックスだったのだろう。セックスしか求められていなくて、人格としてはお互いたいして好きじゃなくて、もっと仲良くなりたいとも思っていなくて、それなのに、セックスの何もかもがちゃんと噛み合って、身体の全部が自動的に相手の身体の全部に反応し続けてくれる心地よさに浸りながら、自分とセックスするのが好きなひとがやっぱり今日も自分のセックスで喜んでくれてくれているのがうれしくて、今日も俺のセックスに喜んでくれてありがとうというだけの空っぽな笑顔を向けながら、これだけでいいし、これ以上に何もないから、もうこれで終わってくれればいいと、空っぽの中に最後に残った気持ちみたいにして、そんなことを思っていたのだろう。

 そんなふうに思っていたから、俺の人生はこんなふうになってしまったのだろう。彼女と仲良くするくらいしか世の中には楽しいことなんてないんだと思えていたのなら、俺の人生は全く違うものになっていたのだと思う。
 自分が最初にした浮気があまりに楽しくて、あまりにも毎回セックスが充実して、ずっと心が安らかなままな関係が何年間も続いてしまったことは、俺の人生に大きな影響を与えてしまったのだと思う。
 彼女をバカにするようなことを言ったりしながらセックスしていたわけでもないし、お互い旦那と彼女がいることを心底どうでもよく思って何も気にしていなかったから、全く後ろめたくもなかったし、むしろ、セックス以外何も期待されてないし、期待する気もなかったから、あまりにも気が楽な関係だった。たいしてこそこそもせずに、お互いに空いていればすぐにセックスするのを何度も繰り返していたけれど、妊娠してしまったりはあっても、他には何もまずいことも起こらなくて、全く嫌な思いをしない、ただ楽しくてうれしいばかりの、完璧な遊びだったなと思う。
 そこで俺は人生とは人間関係だけではないということを知ってしまったし、その人間関係ではない充実は、何度でも確かめられて、何度でも自分に喜びをもたらすものなのだと、繰り返し深いところから実感してしまったのだ。
 セックスフレンドのひととのことだけでそうなったわけではなく、俺がもともとそういう方向性のものの感じ方をしていたから、セックスフレンドのひととの時間の中でそういうものを感じていって、そういう関係になっていったということではあるのだろう。
 それでも、きっとそういうことがなければ、こんなにも俺はこんな人間ではなかったし、きっともっと当たり前のように結婚するような人間になっていたのだろうと思う。
 もちろん、俺は心の底から、そのひとと会えて、そういう関係になれてよかったなと思っているんだけれどね。




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