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【連載小説】息子君へ 232 (45 俺はかわいそうだと思われたかった-3)

 どうして自分のまわりにいるひとたちと一緒に楽しくやろうとしなかったんだろうとは思う。タイプ的に違ったかもしれないけれど、そんなにタイプが違うことを気にすることもなかったはずなのになと思う。
 けれど、俺は相手を見ていて、なんとなく噛み合わないものを感じると、その噛み合わなさがどういうものなのかということを確かめるような感覚でそのひとに接していたのだと思う。むしろ、違いを確かめるようにして接していたわけで、打ち解けるのとは逆方向の距離感で相手を見ていたのだ。
 けれど、合わなさそうなひとを合わないと感じるのはそれでよかったのだろうけれど、それにしたって、そういう相手の割合が多すぎたのだろう。学校とか会社のようないろんなひとがいる集団だと、大半を自分とノリが違うひとに感じていたのだ。
 そうすると、結局は集団のノリで関わるのが苦手で、集団のノリではなく一対一でお互いを面白がり合えるひととしか打ち解けられなくて、そして、みんなが集団のノリで行動しているときには、みんなに対して心の中で半歩引いていたとか、単純にそういうことだったのかもしれない。確かに、二人でいるときですら集団でいるときのノリで接してくるようなひととは、大学生の頃でも、社会人になってからも、ほとんど仲良くならなかったような気がする。
 ずっとそうだった気がするけれど、集団に近付くよりも、集団になっていない一人とか二人のところに近付くことが多かった。俺はむっすりしているようなひとにさほど近付きにくさを感じなかったし、気難しそうだとか、変わったひとだと思われているようなひとも、さほど近付きにくいとは感じなかった。小学生の頃にはそうだったように思うし、その後もずっとそうだった。そして、ひとりでいるなら近付きやすいというわけでもなく、いつでも誰かとつるんでいようとするようなタイプのひとには、ひとりでいるときでもあまり近付かなかったかもしれない。
 常に集団の力学の中で生きているようなひとというのが苦手だったということなのだろう。距離を測られる感じが昔から苦手だったけれど、それも同じようなものを感じていたからなのかもしれない。そういうひとというのは、相手との力関係に合わせて、相手との接し方を決めようとしているのだろう。だから、そういうひとたちは、俺の誰に対しても対等にしか接するつもりがなさそうな態度に嫌な感じがしていたりしたんだろうなと思う。逆に、マイペースで人懐っこいわりにはアウトサイダーという感じのひとがいると、たいてい打ち解けた感じで喋っていられた気がするけれど、そういうひとたちは、喋りたいことを喋れるのなら、すぐに楽しそうにしてくれるから、こっちとしても気が楽だったのだろう。
 そうすると、そういうような、つるんでいるのが好きなタイプの男たちというのが、俺に対してなんだかなと感じて、やりにくそうな感じに俺に接してくるのに対して、俺がそれに合わせて距離を取っていたことで、打ち解けようもなくなっていたというのを、俺は膨大な数の男たちにやっていたということだったのかもしれない。
 男集団というのは、特定のノリを飽きるまで延々とこすり続ける、思考停止を楽しむための集団だったりすることが多い。そのノリに合わせる気がなければ、その手の集団に加わって、一体感があるような感じで過ごすことはできない。実際のところは、ノリで接してこられるからダメだっただけで、俺と合わないひとがそんなにたくさんいたというわけではなかったのかもしれない。
 ノリに合わせる難しさというのが、ずっと俺につきまとっていたのだろうと思う。それは俺がマイペースだったからというだけではなく、ノリに合わせることに不慣れなままで他人との関わり方の基本形ができてしまったからというのもあるのだと思う。
 俺は親から、どういうノリで接してこられていたわけではなかったし、あまり何かっぽく扱われてもこなかった。もちろん親と子の関係性ではあったけれど、手下的にとか、ペット的に扱われてはいなかった。親とか年長者に敬った態度をとるようにも言われなかったし、四六時中ふざけて冗談を言っているひとたちでもなかったから、相手が何かしらのノリで接してくるから、自分もそのノリに合わせて振る舞うしかないというのが当たり前な状態では育っていなかったのだろう。それによって、何かっぽく振る舞われることに違和感を覚えがちな子供になったというのはあったのかもしれない。
 かといって、俺が男の子集団に感じていた、その集団の中に入っていきたくない気がしてしまう、壁みたいなものは、ノリのことではなかったのだ。俺が感じていたものは、無言のうちに発せられていたものだし、それは基本的にほとんどの集団が、内向きに楽しくやろうとしている状態のときに、集団の外側に向かって発しているものなのだと思う。
 そもそも、それなりに多くのひとが、自分の好きひとと自分の味方や身内ではない他人全般をうっすら疎ましく思っているのだと思う。自覚のないところで、自分の味方じゃないひとは基本的に全員自分の楽しみを邪魔するかもしれない存在であるかのように見ているところがゼロではないひとはとても多いのだと思う。
 ひとはひとりでいると不安になって、どこかに仲間に入れてもらいたい気持ちになるものなのだろうけれど、集団の中にいると、その集団の中でいい扱いを受けたいということばかり思ってしまうし、集団の外にいる相手を自分たちと敵対する存在に思ってしまったりする。
 集団になっているひとたちは、集団を仲間として、その外側を仲間ではないものとして見ているし、外側にいる相手に対して、仲間とは別の距離感で接しようとする。そのとき、そのひとたちの中には、仲間ではない相手としてしっくりくる距離を取ろうとする心の動きが発生していて、そういう状態にあるひとたちから気持ちを感じ取ってしまうと、距離を取ろうとする気分が自分の中に写し取られるし、そうするとその瞬間に自分もその距離感を保っていた方がいいような気分になってしまうということなのだと思う。
 新しい場所でやっていくときの、そこにいるみんなの仲間に入れてもらうことの苦痛というのがあるだろう。俺の今までの経験でも、露骨に嫌な顔をされる場合だって多かったし、全体としては歓迎されているような雰囲気だったとしても、そこで行き来している感情としては、鬱陶しさとか、面倒くささとか、別にこっちに来てくれなくていいという気持ちだったり、本人が自覚的にそう思っていない感情の動きも含め、俺が自分たちの方に来ることを喜んでいないことが伝わってくることは多かった。
 俺は小さいときからなんとなくそういうものを感じ取っていて、それで集団にあまり積極的に近付こうとしなかったのだろう。それは俺が繊細だったということではないのだ。俺は弟に意地悪して毎日のように泣かせていたし、小学生になっても、学童保育の下級生に弟に接するみたいに乱暴に接していたらしくて、その子の親からうちの子がいじめられていると連絡が来て、親同士で話し合いになったことがあったりもしたみたいだし、自分が小さいときに優しかったり、純粋だったとは思っていない。
 ものごころがついた頃に、自分は邪魔者なんだと歳が近い子たちに思っていたとしても、それは動物的な警戒心みたいな感覚でしかなかったのだと思う。けれど、俺の場合、そういう感覚はむしろ強まっていったのだし、大人になっていくにつれて、はっきりとしたものになっていったのだ。
 どうしてそんなふうに思うようになったのかは覚えていない。もしかしたら、全く覚えていない保育園の頃とかにいろいろあったのかもしれないけれど、きっとそういうわけではなく、俺はただ実際のところをそのまま感じ取っていただけなのだと思う。人間の集団が自然と発生させる、特に意図したものではない感覚をまともに感じ取って、実際に当人が邪魔だと頭で思っていないまま、本能のようにして俺に対して邪魔だと感じていた気持ちの動きを感じ取っていたということだったのだと思う。
 俺だって自分は邪魔者なんだという感覚について、ずっとこれは自意識過剰からくる妄想なのだと思ってきたのだ。けれど、どうしても実際に人間の集団を前にすると、自分が邪魔者であるかのような感覚を感じ取ってしまって、どうにも妄想ということにできなくて苦しかった。
 大学生になっても、仲のいいいつも一緒にいるようなひとたちにも、ふとした一瞬にそういうものを感じ取ってしまって、胸が苦しくなってしまうことがあった。そういうものにしたって、どうしたって俺の妄想ではなく、そのひとからすれば邪魔なんて思っていないのだとしても、確かにそのひとの中で面倒くささとか、疎ましさのような気分が持ち上がりかけたのを感じ取っていたのだと思う。俺のことを邪魔だと思っていないからといって、その瞬間、俺がそこにいることや、俺がそう言ったことや、俺がそういう顔をしていたことに対して、ネガティブに気持ちが動いたのだし、俺がいない方がよかったという意味で、邪魔といえば邪魔だったのだ。
 そういう瞬間というのは、胸に引っかかったままになりがちなものだけれど、そういう被害妄想の全ては、その後のそのひととのあれこれとか、そのひととの今までのあれこれと照らし合わせたときに、その瞬間俺を邪魔に感じていたとして整合性のあるものに感じられていた。少なくても、俺が感じていたものについては、自分が邪魔者だという感覚は妄想ではありえないものだったのだ。
 きっと、それなりに多くのひとが、そういうものを感じているのだろう。そして、だからといって、他にどうしようもないからと、邪魔をしてもうしわけない気持ちになりながらも、無理をしてひとの輪の中に混ざっているのだと思う。
 君のお母さんと不倫をする二年くらい前に、マッチングサービスアプリで知り合ったひとで、若い頃に結婚してすぐ離婚したあと、何年間も引きこもりをして、その後フラダンスの指導者になったりしつつも、また精神的に不安定になったのもあって、休み休み楽な仕事をして暮らしているというひとがいた。そのひとは、今までの自分にあったよくなかったこととか、うまくいかなかったことの話をいろいろしてくれて、だから、俺も自分のそういうことについて話したりして、お互いに自分が後向きな感情にとらわれがちであることについての話をじっくりしたりしていたのだけれど、自分はここにいない方がいいような気がしてしまうこととか、それなりに仲のいいひとたちの中にいても、自分がいない方がみんな楽しいんじゃないかと思ったりしてしまうことがあると俺が話したのを聞いて、私もそれはよく思うと言っていた。
 そのひとがフラダンスのショーで踊っている映像を見せてもらったことがあったけれど、粗い画像ではあっても、動き始める瞬間にこれからそのひとの身体がどんなふうに動くのかわかっている感覚になるような、見ていてぞくっとさせられる、一線を越えて自分の身体で何かを表現できるひとの動きだった。ハワイのひとから伝統的なスタイルのものを学んだらしくて、元彼女がフラダンスを習っていた頃に発表会を見に行ったことがあったけれど、そのとき一部の演目で踊っていた指導者らしき女のひと何人かよりもはるかにうまかった。
 そういう非凡なセンスや身体能力があって、理解力や想像力もあるけれど、けれど、考えすぎてしまったり、傷付きすぎてしまうような女のひとからしたときにも、自分は邪魔者で、自分がいない方がみんな楽しいのかもしれないという感覚は、ひとの群れに加わっているときについて回る感覚だったりしたのだ。
 そのひとは、何年も引きこもってしまったり、そこから回復しても、男にいいように遊ばれてやり捨てられると、復讐心で気が狂いそうになってしまったりとか、かなり自分の感情に振り回されてしまう度合いが強いひとだった。そのひとに比べると、俺は感覚面でも感情面でもかなり鈍感ではあったのだと思う。
 それでも、そのひとや俺のように、ひとの気持ちの動きを感じ取っていて、ひとの輪の中でも自分の感情にとらわれがちで、そこまで集団に溶け込んで自分を忘れてみんなとの一体化できないようなひとからすると、集団とは確かにそういうものだったのだ。みんなが自分に対して、仲間として自分たちの方に寄ってくることを求めてはいない感じとか、一体感が場を包んでいるときに、そこに一体化しきっていない眼差しでそこにいる自分に対して、距離を測り直そうとするひとがわずらわしさのような気分を向けてくる感じがするのは、確かに繰り返し何度も感じてしまう、どうしても実際にそうなのだろうと思えるようなことだったりしたのだ。
 きっと、そこに自分が加わりたい集団があったときに、そこにいるひとたちに自分から同調していって、とにかく一体感がある状態にまで同調し続けて、一体感が出てきたらそれで安心するというような他人とか集団への関わり方をしているひとたちには、俺やその女のひとのような感覚はわからないのだろう。
 単純に、俺は仲間意識が希薄だということなのだろうとは思う。集団を前にしたときに、仲間に入りたいとか、入れそうな集団の中で、一番地位が高そうな集団に入ろうとするような、そういう動物的な本能が弱いということなのかもしれない。
 それは生まれつきもあるのだろうし、人間以外でもそういうものが弱い個体というのはいるのだろう、あまり群れの中のことにべったりできずに、ふらふらと群れと関係のない行動を取りがちだったり、みんなが集団で盛り上がっているときにそれについていかないようなことが、猿とかゴリラでもあるのだろう。
 そう考えてみると、集団内の地位のために行動する衝動が弱いぶん、特に目的のない視線を他人に向けてしまいがちで、そうやってフラットに他人が発しているものを感じたときに、当人も無意識の、他人を煩わしく思う感情を感じ取っていた、というようにしっくりくる。けれど、相手は無自覚なのだ。相手はそんなこと思っていないのに、俺は近付かない方がいいとか、ここにいない方がいいというようなメッセージとして受け取っているわけで、相手からするとこっちが勝手にありもしないことを思っているようにしか感じられないのだろう。そんなつもりもなくて、みんなで楽しくやればいいとしか思ってないのに、俺からうっすら腰の引けた距離感で接されていることに、どうしてあのひとはそんな感じなんだろうと不思議に思われたり、寂しく思われたりしたことがたくさんあったのだろうなと思う。
 けれど、それは俺の被害妄想ではなかったのだ。集団として活動しているときの人間の心の動きとはそういうもので、常に集団の内と外とを意識して、集団の内側でもさらに小さな集団の内と外を意識しているものなのだ。集団の中にいるときの精神状態の人間を、集団への一体感が希薄になっている状態で見たときには、相手が自覚していない、人間という集団を生きる動物の、動物としての習性のような心の動きを感じ取ってしまうのだろうし、それは猿の一種ではなく人格を見ているつもりの心には、粗暴でどぎついものに感じられてしまうのだ。
 確かに、俺は他人が発している仲間意識を攻撃性の一種のように感じていたところがあったんだろうなと思う。それが攻撃性だったとして、それは集団の外に対してだけ発せられるわけでないのだろう。集団の内側でも、その集団のノリとかパターンがある程度できてくると、集団のメンバーはその集団がいつも通りのその集団であることを確かめ合おうとして、当然のようにお互いに対していつも通りのノリで接するようになる。それは既存のノリを強制しようとする同調圧力のようなもので、俺のように集団に埋没しきれないひとからすると、そういうノリに付き合わされているときには、どこか脅されているような気分になってくることがあった。
 集団というものは、そこがみんなで仲良く楽しくやっている集団であっても、一瞬の小さな不快な感情が膨大に行き交っている場所なのだ。みんなで何かをしているだけでいろんな種類の誰かにとっての不愉快さが少しずつ受け渡されていく。それはきっと、他人の気持ちを自動で感じ取った状態で生きているひとなら、誰にとってもそうなのだろう。けれど、どこにいても誰といてもそういうものだし、生きているうちにだんだんそういうものが気にならないように感じ方が調整されていく場合が多いのだろう。
 社会人になって数年して仕事に慣れた気がしてくる頃に急速に男はクソなやつに変化していったりすることが多いけれど、それにしても集団に馴染もうとする習性のせいなのだろう。社会人になった当初は下品さに開き直ったおじさんたちに嫌悪感を持っていたけれど、仕事に慣れて結果を出せるようになって会社の中心メンバーの一人になれたような感覚になると、積極的に周囲のおじさんたちに同調して会社内のあれこれを楽しくやろうとするようになってしまうのだろう。
 単純に、下品なパワハラ野郎だらけの職場で毎日嫌な気持ちにならずにすむためには、自分もクソなやつになるしかないというのはあるのだろう。けれど、社会人になってすぐから会社でうまくいっているひとの方が急速にクソ野郎になって、会社であまり楽しくやれていないひとはそれまでとさほど人柄が変わらずくすぶったままになっているというのは、ただ慣れだけの問題ではないということだろう。
 若者の世界だって嫌なやつはたくさんいるけれど、おじさんたちの世界はみんながみんな心が死んでいるからよりいっそうひどいのだ。そこにはギャップがあるから、最初はみんなうんざりしていて、けれど、集団の中でいいポジションを確保したいという本能は働くから、うまくやりたい気持ちと軽蔑とが入り混じった状態からスタートする。最初は仕事ができなくて地位が低い存在として扱われているから、集団に対して敵意が強くて、軽蔑をまだ維持できるけれど、仕事ができるようになって、集団内で満足な扱われ方をするようになると、集団に対しての感情が一気によくなって、軽蔑を維持できなくなって、もっと集団内での自分の地位をよくできるようにと、その集団の価値観を積極的に内面化していくことになる。
 それは本能のようなもので、ずっと集団に対して自分はそうは思わないと思い続けることでしか、その本能に抗うことはできないのだろう。自分が集団と敵対しているか、自分は集団の一員だと思うのかは、表裏一体のことでしかないのだ。集団の中にいても、みんなが思っていることと自分が思うことは別なのだと思っていないといけないし、集団の中にいるときも個人として自分が思うように行動するつもりでいることが必要なのだろう。
 俺はほとんどの場面でそうしてきたのだろうし、結果として、下品さに開き直ったおじさんたちのようにはならずに歳を取ってこれてはいるのだと思う。けれど、それはそうしたくてそうしていたというより、集団と一体化しようとする本能が弱めなひととして生きてきて、集団の調和を微妙に乱してくる邪魔者としていらつかれてきたことでできていった距離感で世界を眺めながらひとと関わってきたからだった。
 当たり前だけれど、俺はこんなふうになれてよかったなんて思っていないんだ。もっとみんなとうまくやれたらよかったなと思っているし、もっとみんなと仲良くなろうとすることができたらよかったなと思っている。けれど、みんなといい感じのノリで接しようと本気で頑張ってみることができたことは一度もなかった。そういう意欲すらあらかじめ自分の中でしぼんでしまっている人間として、俺は生きてきたのだ。




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