見出し画像

【連載小説】息子君へ 205 (42 心は終わっていく-1)

42 心は終わっていく

 自分の気持ちを確かめながら、自分の気持ちが動くスピードで生きていくことが君にはできるんだろうか。
 少なくても、君は俺の身体を引き継いで生まれてきているのだし、自分の心のスピードで生きるというのがどういうことなのかというのは、身体的な感覚として理解できるのだろうし、それがどんなふうに大事なのかということについても、この手紙のようなものを読んでいて、それなりに納得してくれているのだと思う。
 自分の気持ちを確かめながら生きていれば、いろんなひとといろんなことをしているだけで、いろんなことを思って、いろんなことに気付いて、いろんなことをやってあげたくなって、自然といろんなことを頑張って、いろんなことができるようになっていけるし、そうしているうちに仲間ができて、君が何かを頑張っている姿を素敵だと思ってくれるひととも仲良くなれて、そうやって君の心の続きとして君の人生がよいものとして続いていくのだろう。
 それは本当にそうなんだよ。俺は実家を出て以来、ずっとそれなりに充実した日々を過ごしてきた。それはずっと続いて、今までずっと、少しずつではあったけれど、歳を取るほどマシな人間になってこれた。
 けれど、俺は心が肉体とは別にさっさと終わっていってしまうものだということをわかっていなかった。三十歳を過ぎた頃でも、まだこれからもいろんな経験をしていくのだろうし、それによってもう少しずつは前よりマシな自分になっていけると思っていたし、自分がマシになっていくんだから、前よりも自分にしっくりくるひとと仲良くなれてもおかしくないとか、そんなつもりですらいたのだと思う。
 けれど、それは完全に間違っていた。俺はだんだん自分のダメなところに気が付いていけたし、多少は自分と全然タイプの違うひとの弱さや苦しみに共感できるようになって、マシな人間になっていけたけれど、かといって、もうその頃には、思いっきり楽しくやりたいとか、ひとにいいねと思ってもらえるように頑張りたいとか、このひとと仲良くなりたいとか、そういう気持ちになることがなくなっていた。
 中高年に向けた、いくつになってもやろうと思えば何でもできるというようなメッセージとか、もっと手前の、青春時代が過ぎていったくらいのひとたちに向けられた、まだまだ今から何でもできるというようなメッセージが、毎日どこかで発信され続けているのだろうし、みんなそれを目にして、やろうと思えば何だってできるのは確かにそうなのだろうと思っているのだろう。
 けれど、何でもできるといっても、そこで指し示されているのは、仕事とかそれに類するプロジェクトについて、いつからでも何でもできるということでしかなかったりする。それであれば当たり前で、いつからでも百姓にはなれるし、いつからでも非営利活動団体にも入れるし、いつからでも資格の勉強はできるのだろう。今から何でもできるというのはそういう意味でしかないか、もっとひどい場合は、いつからでも野球観戦を趣味にしたり、いつからでもアイドルを好きになることもできるとか、そういうことについて、今からでも何でも新しく楽しいことを始められるということが言われているだけだったりする。けれど、そういうファン活動的なコンテンツ消費というのは、何に時間を注ぎ込んだとしても、特定ジャンルのポルノを好きになって、インターネットで同じ趣味のひととお勧めのビデオを教え合ったりしながら、夢中になってたくさんのポルノを楽しんだというのと大差がないような、あとになって振り返ったときには、何をしたとも思えないような、何にもならない営みだったりする。
 人間とは自分の肉体で自分の感情で自分の影響力なのであって、仕事は人生になりえるにしても、多少頑張った程度なら、多少頑張った思い出が残るだけで、そんなものは自分の人生にはなってくれないし、どんなコンテンツ消費を楽しんだのかということは、全くもって自分の人生にはなってくれない。
 そして、自分がどんな人間になっていけるかとか、ひとにどんなことをしてあげられるようになって、どんなひととどんなふうに生きていけるのかということについては、いくつになっても、やろうと思えば何でもできるなんてことはなくて、歳を取ってしまえば、そういうことのために何かをしようとすることすらできなくなってしまう。うまくやりたいとか、楽しくやりたいという気持ちで、そのために何かを頑張ったりすることはできるのだろう。けれど、自分の生きている日々に何かを感じて、何かを思ったりしたときには、その気持ちをどうにかしようと頑張りたい気がしたとしても、全く力が湧いてこなくなるのだ。

 君が早めに知っておいた方がいいことの一つに、多くの大人は何もかもをどうでもいいと思っていて、けれど、どうでもよさそうな顔をしていることも面倒だから、そうじゃないかのような顔をして生活しているということがある。
 人生になんとなく慣れてしまったあと、ただひたすらにやる気を失って、やる気を失う前の自分の人生を恨めしく思いながら、もう自分は何一つきらきらしたものを手にすることはないんだということに毎日うんざりし続けるというのが、典型的な歳を取ったあとの人生なんだ。
 それは特に男において顕著なのだろう。大人と一緒に働きだしたら、君もどうしてこのおじさんたちはこんなにもやる気がないんだろうと思うことになる。そうじゃないおじさんはちょっとしかいなくて、競争心や自分のプライドを守ろうとする攻撃性でぎらついているひとならいくらでもいるにしても、若い君がやる気だと思っているような、そういう熱意のようなものが、世の中の大半のおじさんたちからは、全く伝わってこないのだと思う。
 おじさんになる手前でやる気を失って、それからはおじさんとしてひたすらやる気のない自分に屈辱を感じ続けるのが人生なのだ。例外はいるにしても、それが多くのひとにとっての普通の人生で、この国を埋め尽くしているのは、やる気を失ったおじさんと、そのおじさんたちにうんざりしながらも過剰に適応してしまっている、同じ程度にやる気を失っているおばさんたちなんだ。それが世の中で、そういうひとたちが漫然とテレビを見て、漫然と買い物をしているのが日本経済の大部分なのだということをわかっていないと、どうして世の中がこんなふうなのかがわからなくなってしまうのだと思う。
 みんなそれなりにくたびれながら仕事に生きているようでも、仕事に関する勉強や業界についての勉強を仕事中以外にも積み重ねているのは、ほんの一部のひとたちだけなのだろう。みんな、その場その場でうまくやるだけでいいと思ってしまえるくらいに、たいしてやる気なんてなしに働いている。
 多くの場合、おじさんおばさんたちは、自分が昔よりやる気がないことには自覚があっても、自分が何に対してもまともに何かを感じたり、まともにそれに何かを思おうとしたりできなくなっていることにはほとんど自覚がないのだと思う。ある日突然まともに何かを思うことができなくなるわけではなく、歳を取っていくうちに、いつの間にかだんだんとくたびれていって、心の動きもだんだんと止まっていって、いつの間にかやる気が下がっているのだから、仕方のないことではあるのだろう。けれど、本人は今まで通りのつもりでも、実際は常に心を省エネしているような状態で、何をするにもいかにも自分がやりそうなことをやって、自分が言いそうなことを言っているだけになる。そして、まともにそれについて何か思っているわけでもないのに、うまいことやれそうならうまいことやろうとはし続けている。近くにいる若者からすると、そういう姿というのは、どう考えてもちゃんと見てくれてもないし、ちゃんと聞いてもくれていないし、前はどうだったからということしか考えていないだろうに、どうして今自分がちゃんとそう思ったかのように思って、嘘くさく気持ちを込めたふりをしながら顔を向けてくるんだろうと気味が悪くなるものに感じられてしまう。
 けれど、そういうおじさんたちも悪気はなくて、自分が心が動いていないことに自覚がないだけなのかもしれないんだ。知識とか経験は蓄積されていくから、同じ場所で似たようなことをやっているには、慣れさえすれば何も感じていなくてもやっていける。そんなでは自分で楽しくないだろうと思うかもしれないけれど、自分で楽しまなくても、フェティシズムは歳を取っても自分を気持ちよくさせてくれるから、目新しいものをつまみ食いしながら、昔から好きなものをこすり続けていれば、暇な時間もそれなりに楽しくやっていられる。そして、それなりに楽しくやれているのに、すでにやる気を失っているひとたちが自分の何かを改めようという気になるわけがないということなのだ。
 ここまで、まるで感情がないみたいに感じられるひとたちのことをいろいろ書いてきたけれど、心が止まるというのは、それとは別のことだというのはわかるだろう。
 ひとが他人のことをまともに感じていないとか、他人の気持ちに気持ちで反応していないとか、何か感じてもまともに何も思っていないとか、感じたものを確かめていてもほとんど心が動かないとか、そういうまるで心がないみたいに見えてしまうという現象は、いろんな原因によるいろんな気持ちの動いていなさが同時並行的に発生して、混ざり合ったものになっている場合が多いということについて、ここまでいろいろ書いてきた。けれど、心が死ぬというのは、ここまでは書いていなかったような心の変化と、それによる心の反応の低下のことなのだ。
 心が止まってしまう以前のこととして、そもそもひとの気持ちがわからないひとがいるけれど、そういうひとたちの全てが、生まれつきそのための機能がうまく働かないことでそうなっているわけではない。虐待されたりとか、傷付けられたショック状態が常態化した環境で過ごしていたようなひとも、後天的に脳が萎縮したりもするらしいし、ひとの気持ちを感じ取る機能がうまく働かなくなったりする。そこまでひどい目にあったわけではなく、脳に大きな影響が残らなくても、傷付けられるほどに、できるだけ傷付かないでいいように、ひとの悪意を真正面から受け取ってしまわないようにと、防御しながら生きるようになってしまうし、傷付けられるほどに、人間全般に対して心を閉ざしてしまうし、人間全般に対して感覚を遮断するようになってしまうのだろう。それによって、他人から見たときには、過度に防御的なせいで、ひとのやっていることをちゃんと見ていないし、空気も読めていないように感じられるのひとになってしまうというケースも多いのだろう。
 そして、ひとの気持ちを感じ取れていないパターンとして、もっと頻繁に目にされているのは、心が疲れてしまっていて、感じようとする気力がなくて感じられなくなるというパターンなのだろう。それは加齢もあるし、鬱病で心に元気がでなくて、ひとのことをまともに感じられなくなったりというのもあるのだろう。
 鬱病のひとを心がないみたいだと感じるのは間違ったことに思うかもしれないけれど、他人の気持ちも自分の気持ちも感じてない状態になるということでは、鬱病でなくても、疲労やストレスが溜まりすぎているだけでも、他人から見れば心がないみたいに見えてしまうのは本当のことだろう。ノイローゼもヒステリーもそういう種類の精神障害も、他人の感情をベースに現実を感じていない状態になっているのだから、そのうえで自分のことしか感じていないような状態になってしまえば、その場にいるひとたち全員の感情を自動的に共感で感じ取って生活しているひとたちから見たときには、心がないみたい見えてしまうのだ。
 心が疲れて感じていられなくなるというのは、それくらいにそのひとを変えてしまうことなのだ。けれど、他人の感情を感じ取ったり、その感情に感情を反応させるというのには体力が必要なのだから、感じていられなくなること自体は仕方がないことなのだろう。
 生きているだけで疲れてしまうというのはかわいそうなことなのだ。若い頃の方が、自分の見たいようにしか物事を見ていなくて、そういう面では鈍感な場合が多いのだろうけれど、歳を取ってそういう体力が衰えることで、ちゃんと意識して向き合っているには大丈夫でも、意識していないところでは、本人は感じているつもりでも感じ取れていないという状態が増えてしまう。
 別に歳を取らなくても、疲れていれば鈍感になるし、疲れたくないからと、意識せずに自分から鈍感になっている若いひとたちもたくさんいるのだろう。他人の気持ちを感じ取れるひとであっても、感じ取らなくていいのなら、その方が楽ではあるのだ。だから、居心地の悪い会社とか、気持ちを出さないようにして関わりたいひとしかいない場所では、普段はひとの気持ちをまともに感じているひとも、誰のこともあまりちゃんと見ないようにして、あまりひとの気持ちを感じようとせず、適当にそれらしく応対してやりすごしていたりする。
 ただ、もともと他人の感情に興味がなかったようなひとも、歳を取っていろんな面でもっと鈍感になるのだろうけれど、ひとの気持ちのわかっていなさということなら、もともと自覚が薄いままよくわかっていなかったものが、より見当外れなことを思っていることが増えるだけで、他人からすると、そこまで変わらなかったりするのだろう。逆に、ある程度ひとの気持ちを感じ取ろうとしていたひとは、それまで特に意識もしないままに感じ取れていたものが、意識しないうちにあまり感じ取れていない状態になってくるから、本人にも自覚ないままで、ひとの気持ちがわかっていない状態になってしまう。それまでは、何かを話していて相手の反応が微妙だったりしたら話し方を調整したり、相手の気持ちを確かめて、相手が納得いくように話を進めていたのが、相手の反応の微妙さを感じ取れなくなることで、ずっと自分の話したいように話して、自分がそうであってほしい方向にしか話を進めないひとに変わってしまったりするのだ。
 それは痴呆が始まりかけているような老人の話ではなくて、会社のおじさんたちだって充分に当てはまる話なのだ。おじさんたちの多くは、そもそも相手の気持ちに気持ちで応えようというようなモチベーションが、おじさんになるまでに根こそぎになっているし、そのうえで、昔なら鈍感なりにバカにされないようにとまわりを気にしていたけれど、加齢による慢性的な疲れによってそれも維持できなくなって、それで鈍感さが垂れ流しになってあんなにも話が通じなくなっているのだ。
 そういうおじさんたちの話の通じなさというのは、心が死ぬ以前の問題だったりする場合が多い。心身全体の衰えによって目の前にあるものをまともに感じられなくなっていて、そもそも感じていないから心も感じたものに反応しようがなくて、だからずっと心が動かないままで、そうすると頭はずっと省エネで自己追認を繰り返してばかりになって、だから話も通じないというパターンも多いのだろう。
 そして、それとは別に、歳を取ったどこかの時点から、ある程度は目の前のことを感じてはいるし、それに少しは心で反応もしているのだけれど、少し何か感じたからといって、そこからたいして何も思わなくなってしまうという現象がある。何か思っても、たいしてそうしたいとも思わないし、どうにかそうしようとも思えなくて、自分が思ったことを生きられなくなってしまうのだ。それが心が死ぬということなんだ。
 心はそんなふうに死ぬから、必然的に、それなりに何かを感じようとして、感じたことに心を動かされることで生きてきたひとの人生に直撃して、生きている実感を激変させてしまう。それはつまり、一定以上の年齢のひとたちには、もともとは自分のことしか感じていないようなひとではなく、ひとの気持ちに気持ちで応えられるような心があったのに、いつの間にか心がないみたいになってしまったひとたちがたくさんいるということなのだ。
 心がないみたいなひとたちのうちには、頭で自分のことを感じているばかりで心で反応してくれていないからそう感じるひとと、感じてくれているようではあるけれど、心の動きをこちらから感じられないことで、心がないみたいに感じるひとがいる。本当に心がないみたいなひとというのは、接していてこちらの気持ちを感じてくれないことですぐにわかる。けれど、心が死んで動かなくなっているひとというのは、こちらの気持ちには反応しているし、相手の気持ちの動きも伝わってはきているから、もっとわかりにくい。
 おじさんやおじいさんと仕事で関わったり、真面目な話なんかをしていると、ちゃんとしたものの見方をしているし、ちゃんとした言葉を使って話しかけてくれるけれど、どうしてそんなにちゃんとしたことを考えているひとなのに、このことについてそんなふうにしか思ってくれないし、そんなふうにしか行動してくれないんだろうと不思議になるときがあると思う。そういうときに、相手にがっかりして素通りするのではなく、このひとも心が止まるまではそうじゃなかったのに、心が止まってしまって、もうそんなふうにしか頑張れなくなっているのかもしれないとか、そんなふうに相手の中の行き詰まりや無気力に本人がうんざりしている気配を感じ取れるようになっていた方がいい。そうやって大人たちを眺めながら、君自身は、自分の心もそのうちに止まってしまうと思いながら、自分の人生を生きていくのがいいのだと思う。




次回

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?