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【連載小説】息子君へ 195 (40 俺は嘘をつきたくなかっただけだった-5)

 けれど、俺がそのつど、ずっと一緒にいたくはないと思っていたのは、俺が自分の気持ちばかりを感じていたせいなのだろうか。俺はどのひとに対しても、一緒にいたくないなんて思っていなかったように思う。ただ、ずっと一緒にいたいと思っているわけではなかっただけで、むしろ、ずっと一緒にいたいと思っているわけではないということは、一緒にいたくないということなのだろうと、消去法的に自分が相手を拒否する側であることを受け入れていたというのが実際のところだったようにも思う。もしかすると、俺はずっと一緒にいたいという気持ちが自分の中にないことを確かめていただけで、それ以外に自分の中にどういう気持ちがあるのかということは、ちゃんと感じていなかったのかもしれない。
 とはいえ、ずっと一緒にいることを選ばなかったのは、自分の素直な気持ちではあったのだろう。素直な気持ちというか、どうしたいという気持ちがなかったから、素直に何もないなりに、そういう気持ちはないからと断ったとはいえるのだろう。
 空っぽな気持ちでぼんやりしがちなひとというのはそういうものだったりするんじゃないかと思う。どうしたいと聞かれて、どうしたいというわけでもなくて、とりあえずそうしたいという気持ちがなかったからそうしないようにしておくけれど、そうしたくない気持ちなわけではなく、心底どうしたいわけでもないだけだったりするのだ。むしろ、本人からすれば、そうしてみてもいいのかもしれないと流されてみる気になるところまで、相手がうまくプレゼンテーションしてくれなかったから、そうしてみようとしなかったというような、相手のせいにするような決断の仕方をしている場合すら多かったりするのだろう。
 実際、俺はずっと、恋愛をしたり、友達と遊んだりはしてきたけれど、特別何をしたいとか、どこに行きたいということを思ったりすることなく生きてきた。どういう女のひとと付き合いたいといろいろ考えていたこともないし、仕事だってIT系の仕事を始めたのはたまたまで、大学を卒業した時点からすれば、思ってもみないことだった。
 何でもなりゆきに任せて、自分のところにやってきた状況の中で、自分なりに目の前のことをやっているだけで楽しくやってきた。俺は石のように転がされるまま転がっていただけで、いつか置かれた場所で咲こうなんて思ったことがなかったんだろうなと思う。
 俺の側に世界に用事があったことなんてあったんだろうかと思う。世界の方が俺に用事があって、あれこれやるといいことを差し出してくるから、それに応えていたという感覚で生きていた感じだったんじゃないかとも思う。まわりのみんなと同じように学校に行ったり、バイトをしたり、働いたりしていたら、近くにいたひとと仲良くなったり、自分のやるべきことができていったり、みんなにどういうひとだと認知されて、俺のことを面白がってくれるひともいて、そういうものに応えているだけで、ずっとそれなりに充実してやってこれてしまった。
 俺にとってはなりゆきだけが人生だということなのだろう。男の友達だと、毎日顔を合わせる関係だったひととしか友達になったことがなかったんじゃないかと思う。よく行く飲み屋で顔見知りになったひとくらいはいろいろいたけれど、たまに隣りにいたら喋ることがあるくらいだったし、今となっては誰ひとりの名前も覚えていない。
 俺の場合、付き合ったひとたちとは、自然と仲良くなって、仲良くなっていく過程で好きになっていった感じだったし、恋したみたいな状態になって、自分から近付いたひとたちとは、仲良くなったり、キスしてもらえたりするところまではいけたけれど、誰ともセックスはできなかったし、ある程度好きになってもらっていたとはいえ、結局はただ自分が空回りしただけというのに近かったように感じている。そうしたときには、自分がまともに関係を持ったひとたちというのは、全員がたまたま行った場所にたまたまいて、たまたま仲良くなっただけという、なりゆきでそうなったひとだけだったという感じがしてしまう。
 最初に付き合った彼女からしてそうだったし、なりゆきということなら最初の彼女とは特にそうだった。好きだから付き合ったわけではなく、付き合ってから好きになっていった関係だった。初めての恋愛だったわけでもなく、それまでに好きになったひとはいて、これが好きという気持ちなんだろうと思えるくらいの感情にはなったことがあったけれど、最初の彼女に対しては、最初にセックスしていたときも、自分はまだこのひとをさほど好きというわけでもないという自覚があった。ひととしては嫌いではなかったけれど、女のひととして好きという気持ちはほとんどなくて、そういうことを初めてする興奮だけでそういうことをしていたような気がする。そんな状態から始まって、お互いにすんなり好きになれる感じではない相手と、なかなかうまく噛み合わない会話を一生懸命繰り返して、だんだん噛み合わせていけるようになって、だんだんとお互いを好きになっていく恋愛を二年くらい続けた。
 そのひととの恋愛のおかげで、俺は自分が好きになりたいように相手を好きになって満足するような恋愛をするひとではなく、相手の中に好きになれそうなところを探して、それを好きになろうとするのが基本になっている人間になれたのだと思っている。
 けれど、それは逆に、そのひとのことを自分が好きになれた特別なひとだと思わずに、素敵なひとたちにはみんないいところがあって、自分はそのいいところをいいなと思っているだけで、自分が何をしたというわけでもないのだと感じるようになったということでもあったのだと思う。実際、自分はまともなひとならそれなりに誰でも好きになれるのだと思っていたところはあるし、この相手と付き合っているのは、仲良くなる機会があったのがたまたまそのひとだったからだと思っていたのだと思う。
 もしかすると、恋人のことをたまたま仲良くなって恋愛をしている相手として、そこまで特別な相手だと思っていなかったから、人生の伴侶という特別な存在になる相手として見ようとしたときに、ギャップがありすぎてスムーズに結びけられなかったというのもあったのかもしれない。
 きっと、友達や恋人だけでなく、誰に対してもそんなふうに思いながら接してきたのだろうなと思う。そういう関係になったから、そういう関係なりに関わって、してあげられることがあればしてあげて、求められればそれに応えるけれど、それだけといえばそれだけだったのかもしれない。子供を育てたいというのも、子供がいたとしたら、いろいろしてあげられることがあって、長い期間安定して自分が応えてあげるべきものが目の前に用意された日々が送れるから、そういう生活をしたいと思っていたということでしかなかったのかもしれない。
 確かに、そもそも俺と俺の両親の関係が、俺からすればそういうものだったのかもしれない。俺は親に何も求めていなかった。もうすでに充分に相手をしてもらっているし、充分に大事にしてもらったと思っていた。俺は思春期には両親に満足しきっていて、もうそこからは、定期的に発生する大小の家族イベントをみんなにとっていい感じでやっていけるように、我慢するところは我慢して、楽しめるところで楽しんで、楽しんでいる姿も見せてあげるということをしていくのが、子供としての自分の役割のように思いながらやっていたのかもしれない。今思うと、俺はあまりにも受け身だったし、あまりにも家族に対して何も望んでいなさすぎたのだろう。そして、そういう親との関わり方の感覚を当たり前に思ったまま、大人になってからの人間関係もやってきてしまったせいで、親しいひとに何も望まないで、求められることに応えながら、なりゆきに任せつつ楽しくやれればいいというだけでやってきてしまったところもあったのだと思う。
 俺の実家は、少なくても俺が実家にいた間までは、みんなそれなりに仲良く楽しくやっていたのだと思う。けれど、俺はあまりにもマザコンとは真逆に育てられた。馴れ合いが足りなかったし、干渉やおせっかいが足りなかった。思い込みや約束も足りなかった。それによって、過去や未来を他人と共有する感覚が俺にはまともに身に付かなかったというのはあるのかもしれない。
 俺は親子の絆によってではなく、親が提供してくれていた環境とイベントによってずっと自動的に幸せなままで暮らしていた感じだったのだと思う。俺はずっと幸せの価値がよくわかっていなくて、だからだろうけれど、幸せそうにしているひとの姿というのを見ても、そのひとの何に注目すればいいのかわからないような感覚になっていた。テレビなんかでささやかな幸せを実感しているようなシーンを見せられるたびに、そんなこと普通のことじゃないかとか、そんなことでそこまで喜んでいてどうするんだろうかといつも思っていたように思う。
 もちろん、家庭環境の影響が全てではないのだろう。俺は自分がいつでも当然のように幸せなことで、幸せになりたいという気持ちが全くわからないまま大人になったけれど、男の場合は、幸せに育たなかったひとも、幸せになりたいなんて全く思っていないひとばかりだったりするのだ。
 それでも、幸せを羨ましく思って、幸せになりたいという観点で世界を見ているのかどうかというのは、大きな違いになってくるのだと思う。幸せになりたいと思いながら、どうであれば幸せなんじゃないかと未来を思い描いて、幸せになるために行動しようとできるかどうかで、自分の人生の中での他人の位置付けは全く変わってくるのだろう。俺の場合も、自分の幸せのことを考えていなかったから、自分の幸福な未来像の中の登場人物として誰かのことを自分の幸福に必要な特別な存在だと思うことができなかったというのはあったのだと思う。
 それはアイデンティティが他人に食い込んでいないということなのだろう。そのひとがいて、自分にとってどういう存在でいてくれているということが、自分のアイデンティティに食い込んでいないのだ。そのひととの過去のあれこれは大事に思っていても、自分の日々の幸せや未来の幸せに関係あるひととして見ていないから、自分の未来や現在のことを思ったときに、そのひとの存在に重みを感じられないのだろう。どのひととも、ただなりゆきに任せているだけというつもりだから、何もなければ何もないでいいし、関わるのなら関わるというだけになって、自分の人生にはこのひとが必要だというような感覚になれなかったのだ。
 相手が自分に用事があるなら会うし、自分のことを話し相手だと思ってくれているのなら、こっちも話を楽しめればいいとは思っているし、向こうが何かあれば、それは聞こうとは思うし、気持ちは受け止めようとは思う。けれど、俺はただそれだけだったのかもしれない。
 何か楽しいこととか面白いことがあったときに、今度あのひとに会ったら話してあげようとか、そんなふうに思っていた時期が自分にあったんだろうかと思う。あったような気もするけれど、それは放っておいても明日になれば会うから、会ったら話そうと思っていただけで、仲のいいひとたちと離れて生活して、会おうとしなくては会えなくて、連絡を入れないと連絡が来ない生活になったあとは、何があったところで、誰のことも思い浮かばないようになっていった。
 けれど、それだって男には普通の感覚なのだろうと思う。そんなふうに自然と友達と遠ざかっていくし、奥さんから会話を求められなくなってきた気がしても、そのまま最低限相手を不快にさせない程度にしか喋らない関係にさっさと甘んじしまうひとが過半数だったりするのだと思う。
 もちろん、そういう種類の、幸せになりたいと思っていないことをベースにした男の投げやりさというのも、一定年齢以上の男たちが、そういう時代を生きてきたことでそうなっているだけのことだったりもするのだろう。今から大人になっていくような世代のひとたちは、若者時代ですら、お金がないなりにコンテンツ消費を楽しんでいくくらいしかできることはないんだし、それはつまり、自分の快適な場所を確保して、好きなひとと好きなことができる時間をなるべく作って、なるべく嫌な気持ちにならずに、なるべく安心していられるような生活を送りたいということくらいしか望めるものがないということで、そうしたときには、幸せに暮らすくらいしか目指せるものがなくなっていたりはするのだろう。
 そういう世代として、そういう感覚を当たり前に思いながら育って、そういうつもりで大人になっていく世代の男たちというのは、当たり前のように幸せになるために生活して、自分を幸せから遠ざけるものと戦って、手に入れた自分なりの幸せを大切に守るために生きられるのかもしれない。そうなれば、不幸ではないという自己イメージに執着できることで、自分のことをどうでもいいと思わずにすむようになるのだろうし、自分の幸せに貢献してくれていると思える相手に対しては、自分のことのようにして大事に思うことができるようになるのかもしれない。
 俺は不幸になりたくないということを行動原理の一番中心においている女のひとたちを眺めながら、ずっとなんだかなと思ってきたし、それが自然なことだとは感じてこなかった。けれど、不幸になりたくないという気持ちでつながって、不幸を感じさせないように努めることを約束することが、パートナーになるということの実態だったりする場合は多いのだろう。
 けれど、それが好きなひとに自分のパートナーになってほしいという願いの実態だったとすると、俺はその願いに全く応えようとしていなかったということになるのかもしれない。自分は幸せになりたいと思っていなくて、けれど、相手のことは大事に思っていて、相手が自分の思うように生きられるといいと心から思っているという、付き合っている相手への俺の基本姿勢みたいなものは、それ自体は自然なもののようでいて、相手からすれば関係性を深いところで拒絶しているように感じられるものだったのかもしれない。
 俺は自分も付き合っているひとがいても平気で浮気していたけれど、付き合っているひとが他の男とセックスしても特に何も思わなかった。それは単純に、もし他の男と遊んでみて、そっちの方がいいなと思ったら、そっちに乗り換えればいいし、もっといい相手と仲良くなったんだから、それは相手にとっていいことだし、だったらそうするのがいいだろうと当たり前のように思っていたからだった。
 それは俺が恋人に対して、ずっと一緒にいるつもりでもないし、まだ一緒にいたいと思っているわけでもないということでもあったのだろう。相手が望むのなら、相手が望んでくれている間だけ一緒にいられたらいいとしか思っていなかったのだ。そのひとと一緒にこれからいろいろと楽しい日々を過ごすつもりでいるわけではないから、相手が自分との日々を終わりにするきっかけになるかもしれない行動を取ったとしても、相手の好きにすることだとしか思わなかったのだろう。
 けれど、それは心底からそう思っていることだったのだ。自分の彼女が他のひととセックスしたからといって、彼女への気持ちが少しでも変わったことがあったんだろうかと思う。二十代で付き合っていた三人は、みんな他のひとと寝ていた。ひとりは俺から他のひととしていいと言われて、じゃあしたいときがあったらすると言っていて、四年くらい付き合っていたけれど、何人ともしていた。他の二人は関係がぎくしゃくしているときにひとりとだけだったのだろうけれど、そのひとたちとも、他のひとと寝たと言われたあともセックスしていた。他のひととセックスしたことで、そのひとを汚いと思ったり、裏切られたと思ったり、悲しくなったりもしなかったし、他のひとと寝たからといって興奮したわけでもなかった。自分も他のひとと寝ていて、付き合っているひとに何の悪気もないし、他のひととするのはとても楽しいし、そのひとと自分との間にとてもいい思い出も残るし、何も悪いことなど起こっていないのを知っているから、自分の彼女が他の男と寝るのだって、同じようなことをしているだけなのだし、彼女はそれで楽しい時間を過ごせたのだし、俺が悲しむようなことではないと心底から思っていた。
 俺にとって、彼女というのは、定期的に会って一緒に楽しく過ごす相手というだけだったのだ。一緒にいないときに何をしていても俺には関係のないことだし、一緒にいるときに楽しくやれていればいいだけで、それ以外は相手が自分の好きにすればいいというだけだった。
 相手を自分の所有物のように感じていなかったり、自分の一部のように感じていなかったり、自分の生活の一部のように感じたりもしていなかったのだから、そうなるのは当然ではあったのだろう。実際、自分の生活の一部を担ってもらってもいなかったし、自分がこれから何をするときにはその相手はこのひとだとか、自分が何をするときにはこのひとにそばにいてもらいたいとかとも思っていなかったということでは、自分の人生の一部でもなかった。あくまでデートとセックスの相手でしかなかったのだろう。




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