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【連載小説】息子君へ 224 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-12)

 子供時代に触れる情報や、思春期くらいからの活発なポルノ的コンテンツやポルノの消費によって、君たちの育つ世代の性についての意識は、俺の育った世代とかはかなり違ったものになるのだろうと思う。
 君たちの世代は、俺の世代とか、それ以上の世代のひとたちくらいに、セックスを好きになれるんだろうか。きっと、そこで何よりも大きく影響するのも、生まれつきなり、育てられ方なりで、ひとの気持ちをあまり感じていないひとが増えていることと、そういうひとが増えることで、そういうひととの関わりに慣れすぎて、ひとの気持ちを感じられるはずなのにあまり感じようとしないまま生活するひとが増えることなのだろう。
 ひとの気持ちをあまり感じていないことで、セックスでなら他人の感情と共鳴できた気になるからとセックスを好きになるパターンと、君のお母さんのように、ひとの気持ちをあまり感じないことで感情の行き来としてセックスを楽しめないままになって、セックスをたいしたことがないものだと思ったままになるひとと、どちらが多くなるのだろうなと思う。
 現実的には、今の若者世代では、俺が若者だった頃より、セックス以前に恋愛もしないひとが増えているらしい。もちろん、男の場合、セックスも恋愛もしていないひとの大半は、ポルノのようなセックスがしたいけれど、他人と恋愛関係になることがすでに困難で、仕方なくひとりでポルノを消費しながら生活しているひとたちなのだろう。
 自分の魅力のない生身の肉体を相手の前に差し出しながら生身の人間同士の濃密な人間関係をうまくやっていくということが苦痛でしょうがないひとたちがたくさんいるのだろう。他人をそのひとの感情だと思っていなくて、他人を自分が置かれたシチュエーションの構成要素のように思っているのなら、自分の肉体を値踏みしてくるうえに、自分の思った通りに反応を返してくれない他人の生身の肉体は、それに働きかけるのが億劫に思えるものだったりしてしまうのだろう。
 そもそも他人の肉体に対してそんなふうに感じているのなら、他人の肉体というのは面と向かわずに眺めるだけですませて、オナニーのネタとして消費させてもらうのが一番快適な関わり方ということになるのだろう。そして、自分の中に生身の肉体と関わる可能性すら感じなくなっているのなら、生身の肉体の感触への憧れもないのだろうし、そうすると生身の肉体に欲情する必要もなく、もっと頭で興奮するためだけに最適化された画像でオナニーすればいいということになっていくのだろう。
 きっと、生身の肉体へのコンプレックスもなく、恋人がいてセックスして結婚するようなひとたちの中でも、セックスと無縁に生きていくひとたちと大差ない感覚でセックスしているひとはたくさんいるのだろう。そもそもセックスよりオナニーの方がはるかに快適だと思っていて、セックスがいいとしたら、最高なオナニーを現実で再現できているかのような気分になれるセックスができたときだと思っていて、もちろんそんなセックスはお互いが前のめりな恋愛の初期にしかできないから、そういうひとは、恋愛の高揚感と相手への新鮮さがなくなったら、さっさとセックスレスになって、ひとりの時間にオナニーを満喫するようになっていくのだろう。
 もちろん、そんな男ばかりじゃなくて、素直な気持ちで相手に喜んでもらえるように頑張って、いつも優しくしようとしていて、女のひとと一緒に過ごすときはたいていリラックスしたいい雰囲気で過ごせている男もいるのだろう。そういう男も飽きればセックスレスになっていくにしても、グロテスクな感情でセックスして相手を嫌な気持ちにさせることはないのだろう。そういうような、密室の中で、恋愛やセックスのシーンでも特に気持ち悪い瞬間をみせたりしない男だって、過半数というわけにはいかないにしても、それなりにいて、そういう男たちほど、付き合っている女のひとにしつこく求婚されてさっさと三十歳までとかに結婚していたりするのだろう。
 けれど、それは自然と近くにいるひとと深い関係になっていける、愛されやすいまともなひとたちの界隈のことでしかなくて、素直で自然な欲情ではなく、グロテスクな欲情をする男は、比率としては増え続けているのだろうし、それは仕方のないことなのだ。
 若いひとたちの間では、とにかく嫌な気持ちになりたくないというのと、とにかくうまいことやろうとする気持ちがどんどん強くなっていっているのだと思う。気持ちと気持ちでひとと接している度合いは低くなっていって、ポルノをなぞらなかったとしても、お互い相手を変に刺激しないようにいい感じにやろうとしてばかりになるから、気持ちを伝えることで喜んでもらえるようにセックスしようとする男はさらに減っていくのだろう。その結果、そういう男としかセックスしたことのない女のひとが増えてしまうし、女のひとたちも、傷付きたくなくて、安全そうで正しそうなことをなぞったり、うまいことやろうとするばかりで、無防備になって相手に気持ちをさらけ出して、相手にもたれかかるようなことを簡単にはできないひとが増えてしまうのだろう。両性ともに防御的になっているのだから、充実したセックスをしたことがないままになるひとたちの割合は、今ですらひどいのに、もっと高くなっていくのだろう。
 だからこそ、君は自分の中のセックスを汚くないものに保っておかないといけない。自分の中に発生する相手への性的な気持ちが、全く汚いものを含んだものではないと思えることで、何ひとつの後ろめたさもなく、もっと気持ちよくなってほしいという顔を相手に向けられるのだ。ポルノに毒されて、目に見えるものや自分の置かれたシチュエーションを頭の中で自分が気持ちよくなるように編集して再構築したものに浸りながらセックスしていたら、自分のフェティシズムに気持ちよくなっているばかりになって、相手に君がどういうひとなのかを身体で知ってもらって、その君がどんなふうに自分を素敵だと思ってくれているのかということを伝えることで喜んでもらえなくなってしまうのだ。
 君は相手が喜んでくれていることに気持ちよくならないといけない。そのために、自分が相手を素敵なものだと思っていて、よい感情として興奮していることが伝わるようにセックスして、自分の気持ちを受け入れてもらえるようにならないといけない。そのためには、興奮できればいいとか気持ちよければいいなんて思っていてはダメで、自分とは自分の感情で、肉体で、影響力なのだと思って、それを相手に喜んでもらえるようにと、喜んでくれている相手の姿に自分の心が動かされるのをちゃんと待って、相手が与えてくれているうれしい感情を自分の肉体でしっかり感じて、それがどれだけうれしいのか、全身で相手に伝えるというのを繰り返すのがセックスだと思っていないといけない。
 今まで書いてきたことは全てつながっているんだよ。逆に、今まで書いてきたことが理解できていたなら、俺がセックスを圧倒的にとてつもなく素晴らしいものだと思っているのも当然のことに思ってくれているのだろう。
 どうしたところで、自分の感情と肉体を生きるというのはそういうことなのだ。感情は伝わるし、心は誰かに喜んでもらいたがっている。頭の中を生きているから、ひとは自分勝手なことをやってしまうし、グロテスクなことをやってしまうのだ。
 グロテスクじゃない欲情はある。エロいことを考えなくても身体を近付けて相手を感じているだけで勃起するし、優しくしてあげたくて気持ちよくなってもらいたいだけでセックスしていられる。セックスするためにエロいことを考える必要はないし、セックスするためにエロいことをする必要もない。そう思っていれられるように、君は君のセックスを汚くないものに守り続けていかないといけないんだ。

 心が死ぬというのが一番伝えたかったことだったわりに、この手紙にはセックスのことをああだこうだと書きすぎてきた。けれど、自分から心を止めてしまうひとたちであふれているし、そうでなくても歳を取ってくると心が止まってしまう人間にとって、セックスというものがどういうものなのかというのがわかっただろう。君のお母さんが不倫セックス一発でいきなり幸せになって、人生もまるごと変わってしまったという話もしたけれど、それは誰にでも起こることで、セックスをしないようにしているひとたちも含め、みんなそういうもの込みでしか生きられないんだ。
 君は世界を眺めて、どうして恋愛やセックスだけが価値があることであるかのような世の中になっていて、それなのにどうして恋愛やセックスを諦めているひとたちがこんなにもたくさんいるのか、自分なりにいろんなことを思えばいい。人々がそれぞれどうしてそんな顔で生活しているのだろうかと思うとき、一番最初に感じ取ろうとするべき観点というのが、そのひとにはセックスでも何でも、自分に向かって心底からうれしそうにしてくれるひとがいるのかということだったりするんだ。
 自分を特別な存在に思ってくれているひとが自分とセックスしてうれしそうに抱き合ってくれていた感触がまだ身体に残っているような気分でいるひとと、もうずいぶんと誰からも身体に触られていないひととでは、そのひとがそこに存在している雰囲気からして違っていたりするのだろうと思う。人間はどうしたって肉体で、他人から遠ざけられ続けている肉体は、生きていることの不快感を充満させている。それは老人の表情や肉体の動きを見ていてうんざりする感覚だったり、ずっと恋人が欲しかったのに一度も恋人ができたことがないようなひとをたちの表情や肉体の動きを見ていてうんざりする感覚の中心にあるものなのだろう。俺も弟に対して、犬でも飼えばいいんじゃないかと思うことがある。犬に飛びつかれて、犬のお腹を撫でてやって、心からの笑顔を犬に見せてやれば、もう少しマシな気分で生きていけるのだろうと思う。セックスができなくて、働く以外には、誰の世話を焼いて喜んでもらうこともできないのだし、もう犬くらいしかありえないだろうにと思ってしまうのだ。
 君は俺と君のお母さんの子供だし、きっと大丈夫なのだろう。君は世界からセックスしたいという気持ちを拒絶されないのだろうし、君はセックスでひとを好きになることができるのだと思う。好きなひとをセックスでもっと好きになることもできるのだろうし、セックスが誰とでも気持ちいいことで、君は自分の好きになれそうな誰のことも、セックスすることですぐに好きになっていけるのだと思う。君がいろんなひとを好きになって、いろんなひととセックスできればいいなと思う。
 俺だってそうだったのだ。俺のしていた恋愛は、ひとと気持ちを通じ合わせる時間の素晴らしさと、それが消費されて変質されていくことの悲しさを何度も通り過ぎながら、どれだけお互いを好きになっても、だんだんとお互いの自己満足を支え合うようなお喋りしかできなくなっていく自分に悲しくなるというのの繰り返しだったのだと思う。セックスのために付き合っているような感覚は全くなかった。それでも、セックスがなければ、気持ちのままに振る舞って、気持ちのままの顔を相手に向けられていた時間のほとんどがなくなっていたんだろうなと思う。
 俺は付き合っていたひとたちとは、あんまり頻繁にセックスしなくなってからも、ずっと喋ってずっと楽しくやっていられた。けれど、セックスがなくて、楽しくお喋りして一緒に眠っていただけだったなら、半分も好きになれなかったんじゃないかと思う。それはむしろ、セックスのおかげで二倍好きになれたということなのだろう。セックスだから見せられる顔を見せてもらえたおかげで、二倍の顔で好きになれたのだから、それも当然のことなのだと思う。
 君もいつか、何が残ったわけでもなかったけれど、セックスできて、いい時間は過ごせたし、本当に好きだと思って、心底うれしくなることはできたんだなと、自分がちゃんとしたセックスをできる人間でいられたことに自分で感謝したくなる日が来るのかもしれない。セックスが残されていてよかったし、自分はセックスを嫌いにならなくてよかったと、そういう恩寵のようなものを感じて、虚しい感謝を自分のペニスに向けたとして、それは何もおかしなことじゃないんだよ。ひとはそのひとの身体で、ひとは自分の楽しみのために生きているんじゃなくて、ひとに喜んでもらえるようにと思って生きるべきものなんだ。
 身体的に必要な資質が欠落していたり、損傷しているのなら仕方ないけれど、お喋りとか料理とかセックスとか、そういう自分の身体で相手を喜ばせてあげる行為を好きじゃないひとのことを、いつでも君は軽蔑していればいい。そして、セックスを過小評価したがるひとたちのことを、人間全体に悪意を植え付けようとするゴミどもだと思い続ければいい。自分のことしか感じていないクズのような男がクズのようなセックスをするからといって、それはそれなのだ。そんな男とばかりセックスしている女のひとたちの界隈を世間そのもののように思ったり、女のひとがみんな世の中から嫌な目にしか合わされていないと思う必要はないんだ。
 君はひとを嫌な気持ちにさせないためではなく、君が喜ばせられるひとに喜んでもらうために生きればいい。君は人数合わせのために生きているわけじゃない。誰かを喜ばせられないのなら、君には価値がないんだ。
 仕事以外には、男にとっては、セックスくらいしか興奮や熱狂とともに自分の価値を実感できることなんてないんだ。もちろん、君がセックス以外にも、ひとの話し相手になってあげられることにも価値を感じられるひとになってほしいとは思う。けれど、みんながそれぞればらばらな生活をして、ばらばらな知識を無限に積み重ねるようになってしまったことで、アルゴリズムがランキングしてくれたものの上位から情報に触れていくような生活をしているひとたち以外にとっては、身近なひととの会話は難しいものになってしまった。君が自分の話したいことを一生懸命話しながら生きていけるかどうかは、君が自分のいたい場所にいられる人生を送れるのかによってしまうのだろう。そして、君の生まれつきの熱意や集中力がどれくらいのものかによるだろうけれど、そんな人生を送れる可能性はそれほど高くないのだ。
 だから、俺は君が変態にならず、セックスを心底から清らかで善意と優しさをベースにした素晴らしい行為だと思っているひとになって、君を気に入ってくれたひとといいセックスができるようになるといいねと思っているんだ。さほど知能も野心も強くない肉体で生まれる君が、せめてそんなふうにして、人生を素晴らしいものに思えるようになればいいなと思う。




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