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【連載小説】息子君へ 225 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-13)

 いろんなことを書いてきたけれど、セックスの力が強大で、心が死んでもセックスは続くというのがどういうことかわかっただろうか。実際、俺は君のお母さんと不倫していた頃にはもうほとんど心が止まっている状態だったのだろうし、話が噛み合わなくて自然と楽しくなれなかったとはいえ、黙らされているような気分になって、何を言う気も失っていたのは、心が止まっていたからだったのだと思う。二十代の頃なら、君のお母さんと不倫して話が合わなくても、ちゃんと聞いてくれないむかむかした気持ちを相手にしっかり伝えて、わかってもらえない言い方しかできないことのもうしわけなさでいっぱいになりながら、無限に相手をなだめて、そのうちに噛み合わないことも含めて楽しくやれる関係になれていたのだと思う。
 心が死んでいたから、すんなりいかない相手に対して、すんなりいかないのが気分がよくないからと、一つ一つ噛み合うようにしていこうという気になれなくて、相手も話が盛り上がらないなら無理して話さないという態度だったからとさっさと諦めてしまったのだろうし、そのせいで人間関係といえるほどのものもできていかないままになってしまった。そして、それでもセックスはできたし、セックスで相手を幸せにしてあげられたし、セックスで相手に心底から愛してもらった気持ちでいっぱいになってもらえたということなんだ。
 心が止まってしまったからって、優しくしたい気持ちも、喜んでもらいたい気持ちも、動きが鈍くなるだけで、いくらでも残っている。心が止まっているからって、自分の顔が好きなひとがうれしくなれるような顔をして見詰めてあげることはできるし、優しくしてあげられるし、かわいがってあげられるし、硬く勃起したものを入れて長々と腰を押し付け続けてあげることはできる。そして、今さら人間関係を新しく作ることができないからって、セックスなら充実した時間は過ごせるし、セックスでお互いを大好きになって、会うたびにずっとうれしい気持ちでいちゃいちゃして、すぐに勃起してセックスしてばっかりな関係になることはできる。
 セックスとはそういうものなんだ。心が止まってしまったあとも、セックスでならひとにいいことをしてあげられて、自分をまだひと喜ばせられる力がなくはないものだと思っていられる。人間とはそのひとの感情で、その感情は若者の頃のようには動かなくなってしまうけれど、人間とは肉体で、人間とは影響力なのだ。何を考えて何をしてきたのかがそのひとなのではなく、そのひとと一緒にいてどんな気持ちになるとか、そのひととセックスしていてどんな気持ちになるのかというのが、そのひとがどんなひとなのかということなんだ。
 セックスできることで、ひとは自分がまだ終わっていないと思っていられる。肉体は自分に近付いてきた肉体に興奮することやめないし、心が止まっても勃起は続く。それが心が止まってしまったひとたちにとって、どれほどの救いになっているのかわかっただろう。
 そして、それは逆に言えば、それくらいしか残らないということでもあるんだ。心が止まったあとには、それくらい何もなくなってしまう。
 どれだけ歳を取っても、ひとにしてあげられることをして、それを喜んでもらえたり、ひとの役に立つことができたなら、よかったなとは思える。けれど、それくらいしかなくなってしまうのだ。やれることならいくらでもあるのだろうけれど、したいことはなくなっている。喜んでくれたから、それをやってあげてよかったと思えるだけで、もう自分の中には何もなくなっている。それが老いるということなんだ。
 心が止まるというのは、ただ歳を取って心身が衰えるのとは別のことだというのがわかっただろう。それは老いよりも前にやってきて、まだ自分ではそれなりに若いと思っている頃から心は止まり始めてしまう。他人からしたときにそのひとが若者という印象ではなくなってしまっているのなら、ほぼ確実にもうそのひとは心が止まっているのだ。
 心が止まったあとも、身体でならどきどきできるし、どきどきできることで好きになれるという話をしてきたけれど、それが素晴らしいといいたいわけではないんだ。むしろ、そういうものなしには、ひとを好きになれなくなるということが、どれほど絶望的なことなのかということを伝えたいんだ。
 セックスが救いなんじゃないんだよ。それはむしろ、セックスでしかどうにもならないくらいに、心は徹底的に動かなくなるということなんだ。セックスしか残らないくらいに、救いようもなく、生きていることの全てのわくわくとかどきどきが終わってしまうんだ。
 そもそも性的興奮や性的衝動なんて、そんなにありがたがらないといけないものではないはずだろう。若い頃は、むしろ、性的に興奮してしまったときには、普段ではしないような行動を取ってしまって、自分が自分ではなくなるような感覚になったりするものなのだろう。好きでもないし、セックスしたいとも思っていないような相手でも、身体を近付けられて、だらだらお互いの身体の近さに気をとられながら言葉や視線を交わしているうちに、相手の気分に引きずり込まれていってしまう。そうなると、頭ではちゃんと別のことを思っていても、頭とは別のところで相手の感情に同調してしまっているせいで、頭では制御できないまま、しない方がよかったことをしてしまうことになる。
 他人の欲情に自分の肉体が感化されてしまうというのは、自分が思うように自分が生きることを邪魔されることだったりする場合も多いのだ。性的興奮の強力さは、若い頃には、むしろ自分らしさを脅かしてくるものだったりする。心が止まってしまったひとたちのように、こんなにどきどきしてしまうなんていつぶりだろうかと心底うれしくなる方がおかしいことだったりするのだ。
 それはつまり、歳を取って心が止まってしまったあとには、自分の中の動物性と反発し合ってせめぎ合う程度の心の動きすらなくなってしまっているということなのだ。実際、中高年というのは、自己追認的にコンテンツ消費をしたり、楽しげな場所で楽しげにやっている以外には、なぞるべき習慣とかパターンがあればそれに沿って行動するけれど、そういうものがないときには、ほとんどまともに何かを思おうとしなくなっているものなのだろう。何も思い浮かばないし、特にどういう気持ちにもならないからと、当たり前のようにみんながやっていそうな感じで適当にやって、自分がしたくてやっていることではないからと、自分がやったことがどうなったかもまともに感じようとしていない。そして、もっと歳を取ると、頭が回らなくなって、現実から取り残されるようになっていく。自分でも自分が喋っていることがほとんど口からでまかせでしかないレベルにいい加減な内容になっているけれど、年寄りだと思われているから誰もどん引きしてくれもしないし、笑ってもくれない。わざわざ自分と会って喋ろうとするようなひとたちは、自分と同じくらい耄碌していて、こんな会話をしているなんてとみんなで内心恥ずかしくなりながら、誰かが頑張ってふざけてくれても全然面白くなくて、けれど、笑えてすらいないとみじめになるからと、おいおいと言いたくなるような冗談にも頑張って笑ってあげて、それが聞こえている近くにいるひとたちに、歳を取るのは嫌だなと思われることになる。
 会社にいればわかると思うけれど、現役世代からしたときには、仕事の話をするにしても、一部の例外を除いて、相手が六十歳を超えてくるくらいになると、かなりの確率で、ちょくちょくと話がまともに通じていない感覚になるし、世間話をするにも、ギャップがあるとかというレベルではなく、酔っぱらいと話しているときのような噛み合わなさを感じるようになる。
 多くの場合、他人からそんなふうに思われる頃には、あまりにも可能性がなさすぎて、誰かと現実にセックスしたいという気持ちも終わっていくのだろう。それでも、男の場合、おじいさんになっても風俗に行くひとは風俗に行くし、オナニーばかりしているひとはずっとしているし、痴呆になっても毎日オナニーしていたり、介護施設に入っても食事を食べさせてもらいながら自分のペニスを触っていたりする。そして、食べさせてもらっているときにペニスを触らない痴呆老人が、ペニスを触らない代わりに何かまともなことをやっているわけでもないのだろう。ひたすらに呆然としているだけなのだ。
 一部の男にとっては、呆けてしまってもなお性的に興奮できることが、自分をいい気分にさせてくれるということなのだろう。それがあることが本人には救いになっているのかもしれない。もちろん、食事中であれ、食事ではないときであれ、オナニーすることに執着している痴呆男性は女性の介護職員を見ながらオナニーしているわけで、女性の介護職員は、すぐに慣れるとはいえ、その痴呆老人のから伝わってくる、なんとかいい具合に興奮してもっと硬く勃起したいという気持ちの動きを、どうしようもなく醜悪で意地汚くて不愉快なものに感じるのだろう。
 例えば、犬が脚にしがみついてきて腰を振ってくることがあるけれど、自分の飼い犬が毎日自分と目が合うたびにしがみついてきてしつこく腰を振ろうとしてくるようになって、いくらしつけようとしてもダメで、散歩中も散歩時間の半分以上は腰を振るような状態になってきたら、去勢していなければ去勢するのだろうし、それでもダメなら、しつけ教室に出すのだろうし、教室から戻ってきても直っていなければ、保健所だって文句はないだろうから、殺処分ということになるのだろう。そんな犬はいないのだろうし、いたとしても脳の障害によるものなのだろうけれど、とはいえ、事故なんかで脳に障害が残ってそうなったとしても殺処分されるのは同じだろう。コミュニケーションができない相手が発作的に自分の身体を使って何かをしようとしてくるのだ。そんな存在と家族をやっていけるわけがないだろう。
 勃起できるかぎり、できるだけ勃起していい気分でいようと思っている痴呆老人だって、それと大差がない存在なのだ。だから高齢者介護施設にいるのだろうし、介護施設には去勢も殺処分もないけれど、当然毎日自分を見られながらオナニーされている女性職員たちは、こんなやつ消えてしまえばいいのにと思っているし、それができないにしても、薬で化学的去勢というのができるのだから、それをやってくれよと思うのだろうし、そもそも、もう老人にはオナニー以外使い道はないんだから、男は介護施設に入る場合は事前に去勢するようにしてくれたっていいはずだろうと思っていたりするのだろう。
 人生は終わるけれど勃起は続くとはそういうことでもあるんだ。勃起が続いていれば、そのために何かしたいような気にはなれるかもしれないとしても、それくらいの感情しか残らないくらいに、人生は勃起できなくなるはるか前に終わっているんだ。若者時代が過ぎ去ったあと、残っているのは、ひとの世話をして、相手が喜んでもらえたらうれしいとか、それくらいのことしかない。つまり、世話をしてあげる相手もセックスする相手もいないひとは、心が止まった時点でもう完全に終わってしまっているんだ。だから、あんなにも、絶望的につまらなさそうな顔をして歩いておじさんやおじいさんや、明らかに本当の気持ちとは別の表情をし続けていて気味が悪いほど胡散臭いおじさんやおじいさんたちが世の中にはあふれかえっているんだ。

 俺はどうなんだろうなと思う。仕事上で、一緒に働いているひとたちにしてあげられることはあるとは思えているのだろう。けれど、友達付き合いも、自分から連絡しないと存続しない関係は終わってしまっていいやと思って連絡するのをやめてしまったし、中学高校の友達以外だと、もう実質誰かの友達でい続けている状態でもなくなってしまっている。そうしたときに、他に俺が生きていて何かしてあげられていることが何かあるんだろうと思う。
 まだ年齡のわりには若く見えるし、みっともない顔をしないように、締りのある顔をし続けているように気を付けて生活してもいる。かといって、それは自分が汚い感じのするおじさんを見ていて嫌な気持ちになるから、そういう印象を他人に与えてしまわないようにと思っているだけだったりする。
 それでも、まだどこかでセックスできる可能性にすがっているところはあるのだろう。実際、君のお母さんと会わなくなってから、女のひとに近付こうとしていないまま二年近くが経ってしまったけれど、オナニーはしないわけではない。メッセージのやり取りに一生懸命になれないからマッチングしても会おうという話にもならないで終わってばかりけれど、マッチングサービスアプリもたまに開いている。
 それは可能性だけを自分の中に残そうとしてやっていることなのかもしれない。実際、飲みに行って仲良くなってその日のうちにということがあったりはしたのだし、今日またそういうことがあるかもしれないとは思っている。
 けれど、もう何もない可能性は高くて、別にそれでもいいんだと思ってしまっているのだろう。誰と仲良くならなくても生きてはいけるのだ。やれることがあればやって、何もなければ、自分の気が向いたことについて調べてみて、もうちょっと気が向いたら出かけてみたり、それに触れてみたりするのかもしれない。別にそうでなくても、延々とインターネットで何かを見て、どうにもストレスを感じるのなら酒を飲んで、それでも物足りないのなら、もっと酒を飲みながらポルノでも見てオナニーすればいいのだろう。もしくは、数十年ぶりに、ゲームばかりする毎日に戻ってみてもいいのかもしれない。
 どうせもう他人からしたら、ほとんどまともに生きていないみたいに見える、たいしてちゃんと気持ちが動いていない中年男性なのだ。みんなにそう見えている通りの人間になればいいというだけなのだろう。それを誰も悲しまないのだし、それで何の問題もないのだ。
 心が止まってしまうと、自分に対してすら、そんなくらいにしか何かを思ってあげられなくなるんだ。それが君に伝わっているといいなと思う。




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