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【連載小説】息子君へ 226 (44 心が止まったあとに何が残るんだろうね-1)

44 心が止まったあとに何が残るんだろうね

 心が止まるというのは、ただ歳を取って衰えるというのとはまた違ったもので、だからそこで人生は変質してしまうけれど、そこからも人間はまだまだ生きないといけない。
 俺はまだ若者時代が終わってからさほど見た目も体力も衰えていなくて、痛いところもなくて、趣味とか時間の使い方もこの十年変化がないような感じではある。だから、みんなから老人だと思われるようになっていくということがどういうことなのか、まだ全くわかっていないのだと思う。
 とはいえ、もうまわりのひとからもおじさんとしか思われていないし、これから数年で、若い感じのおじさんから、おじさんでしかないおじさんへと扱いが変わっていくのだというのはわかっている。そうなったらもうあとは一気なのだろう。
 もちろん、歳を取るからといって、今から何だってできるのだということは俺だってわかっている。けれど、世の中を見ればわかることだけれど、何だってできるからって、一部の特殊なひとたちを除いて、みんな中年になってからは、仕事と、自分の家族のことと、みんながやっていること以外には、何もしないままになるのだ。
 それは俺の祖父母もそうだったし、俺の両親もそうだった。せいぜい、父方の祖父が子供会とかの地域の活動とか、地域のカラオケの集まりを主催したりとかをして、比較的ふらふらしている方だったというくらいで、他はみんなテレビの前でぼんやりして時間が過ぎていくのに任せている感じだった。そして、見事に祖父母は四人全員認知症になっていった。
 俺は老人に近いような年齢で、自分が思うことをあれこれ活発にやっているひとというのを、ステージの上とか、テレビとかインターネットとか本の中の以外には、ほぼ見たことがないんじゃないかと思う。お店をやっているひとと、会社のごく一部の優秀なおじさんでそういうひとはいたのだろうけれど、そういうひとが何かやっている姿をじっくり見ていられた経験もなかった。
 そういう意味では、俺は老人が充実した感じで何かをしているのをほぼ見たことがないのだ。仕事とか、掃除とか食事作りとか、そういうことにきっちり集中して、汗をかきつつやっているひとならたくさんいるのだろう。けれど、それは自分に身に付いた習慣で肉体的に充実しているというだけだったりもするのだろう。心が充実しているのかということを考えたときに、自分がやってきて身に付けたことを誰かにじっくりとやって見せて教えられていたりするひとですら少ないだろうし、何かを新しく思って、その新しく思ったことを新しく形にして、それをひとに伝えて、それがみんなを喜ばせられるものになっていくように磨き上げていくような、そういうことができている老人なんてほとんどいないのだろう。
 俺は特に何ができるわけでもないひとたちの界隈で生活していて、そういう俺からしたときには、自分が生きている世界では、どうしたって老人というのは、何かを感じて、何かを思って、それを生きるということが人生だとしたときには、もう何も起こらなくなってしまった人生を生きている存在なのだ。
 おじさんおばさんくらいだったらどうなんだろうと思うけれど、職場のおじさんおばさんを見ていても、自分の仕事を愛している感じがするひとはいるけれど、そういうひとたちが、自分の仕事に対して自分なりの観点を持って、自分なりに理解を深めようとしながら仕事に取り組んでいるとはかぎらないし、むしろ、仕事が好きそうなひとたちの中でも、そんなひとはめったにいなかったように思う。俺は堂々と仕事の業界に興味がないつもりで仕事をしていたけれど、そういう俺からしても、さすがにもうちょっと何か調べながら仕事したり、ごっそり知らない領域があってまわりのひとに負担をかけていたりするんだから、業務外でちょっと本を読むくらいすればいいのにと思ったりすることは多かった。仕事が好きというより、もっと成果を出そうとぎらぎらしながら仕事に本気で取り組んでいるひとたちもいたけれど、そういうひとたちも、競争意識で興奮しながら仕事をしているという感じのひとが多くて、結果のためにしか何かをしていない感じで、ひとにあれこれ話しかけて働きかけているようで、相手の気持ちをどれくらい感じているんだろうかと不思議になるひとも多かった。
 老いることを肯定する言葉は世間にいくらでもあふれている。けれど、俺はずっと、老いることの素晴らしさを語るひとたちのことを、建前としてそう言っているだけなのだろうと思ってきた。俺は自分の親族とか、自分のまわりにいた年寄りやおじさんおばさんを見て、楽しそうでいいなと思ったことがなかった。特にませたところのない、子供同士で遊んでいればいつでも楽しくなれていたような男の子だと、それが普通の感じ方なんじゃないかと思う。
 中高年になってからの方が楽しいと感じているのは、それまでやらされていることをやっているばかりで、自分のやりたいことをやってこなかったひとたちなのだろうと思う。生きることが苦しかったり難しかったひとがそう思うだけで、生きることがずっと楽しかったひとには、歳を取っていいことなんて何もなさそうに見える。
 ずっと鍛錬を続けて自分を向上させてきたひとは、若い頃は未熟だったなと思えたりするのだろうし、自分の進歩にはこれだけの年月が必要だったし、老いること自体も必要だったと思えたなら、歳を取ったことを喪失とか衰退だとは思わないでいられたりするのかもしれない。けれど、そんなひとはごく一握りのひとたちなのだ。
 きっと俺が母親に似た不細工な女の子として生まれてきていたなら、また感じ方は違ったのだろう。女の子とか、若い女として、まず何を差し置いてもかわいいかどうかを判別されて、いつでも、どんなときでも、そして最終的にも、かわいいかどうかで自分への扱いや、自分のやったことへの評価が方向付けられているのだ。そういう屈辱に二十四時間三百六十五日包まれていたなら、自分と同じくらいブサイクなおばさんたちが集まっている姿を見ていて、自分がブサイクであることを気にしていないみたいな顔で楽しそうに笑えているように思えるのだろう。自分もおばさんになれば、周囲も自分をおばさんとしか見なくなって、かわいいとか美人とかそういうことを言われることもなくなって、自分の楽しいことをしていても、誰もそれを邪魔してきたり、ブスを見る目で自分をバカにしてこなくなるのだろうし、ブスを見る目じゃなくて、みんなと同じようにおばさんを見る目で見られるだけなら、どれだけ生きていて苦痛が少なくなるんだろうと思うのだろう。女のひと同士の関係ですら、今はブスを見る目で見てきて、ブスに振る話題を振ってきて辛かったりするけれど、お互いにただのおばさんになることで、みんなが世間から見たらただのおばさんで一緒になって、やっと平等にお喋りできるようになったりするんだろうなとか、そんなふうに思うのかもしれない。
 別に不細工じゃなくても、きれいだとかかわいい扱いされるポジションでずっとやってきて、それをキープしようとは思っているけれど、それも疲れるし、今さら普通のおばさん扱いされるのも自分の人生を否定するみたいで嫌だから、これをキープしていこうと思っているけれど、かといって、もう別に誰かにほめてもらいたいという気持ちもなくなっていて、早くおばあさんになって、こういうことから解放されたいと思っているようなひともいるのだろう。
 そんなふうに、自分に付きまとっていたネガティブなものや、自分を煩わせていたあれこれを老いが奪い去ってくれたことでせいせいしたというパターンはあるのだろう。同じ人間として扱われるのではなく、自分のネガティブな属性によって嫌な扱いを受けていたひとが、みんなと同じような老人として、みんなと同じ扱いを受けられるようになったことで、やっと苦しみが薄れたりするのなら、歳を取ることがポジティブに思えるというのはあるのだろう。
 けれど、歳を取ることで身軽になれることはあるとして、歳を取ることで得られることなんてあるんだろうかとも思う。攻撃的になってしまいがちだったり、自分勝手なことをしてしまいがちで、ひとに嫌われてしまうことがよくあったようなひとだと、歳を取ってやっと自分のことだけじゃなくて、まわりのことも見られるようになって、ひととうまくやっていけるようになったとか、そういうことはあったりするのだろう。不安定だった性格が、歳を取って気持ちの反応が鈍くなることで丸くなってくるまで、世の中というのがあまり居心地がよくなくて、歳を取ってから生活のあれこれにやっとしっくりきたとか、そういうケースもあるのだろうなと思う。
 けれど、それにしたって、もともと生きづらかったというパターンなのだろう。生きづらさを感じていなかったひとたちからすれば、歳を取って昔よりいろんなことがバランスよく考えられるようになるなんてことはないんじゃないかと思う。学んできたぶんだけ、いつでも考え方や感じ方はマシにしていけるというだけで、年齢は関係ないというのが実際のところだろう。
 ストレスに弱いひとが、ストレスの強い生活がずっと続いていて、ずっといらいらした状態で生活していたことで、あまりいいひとでいられなかった場合なんかだと、歳を取って鈍くなって、ストレスも感じにくくなって、少しはいらいらせずにいられるようになって、昔よりまわりのひとにとってマシなひとになったりということはあるのだろう。けれど、それにしたって、本人に自覚がなかったとしても、生きづらかったひとなのだろう。
 俺は生きづらくなかったし、君も生きているだけで苦痛だらけになるような人生にはならないのだろうし、生きづらいひとのケースを考えても仕方がないのだろう。
 特に生きづらかったわけでもない多くのひとにとって、歳を取ることは、ひたすらに衰えていくことでしかないのだ。そして、それは当人にとって肉体的感情的な衰えが実感されるというだけではなく、歳を取ると、他人が自分を個人として扱うのをやめて、歳を取った相手としてしか扱わなくなっていく。まわりから一目置かれているようなひとたちは、おじさんおばさんの頃なら、単なるおじさんとか単なるおばさんという扱いを受けないように振る舞うこともできるけれど、老人になっても単なる老人扱いを受けないということは、誰であれほとんど不可能なのだろう。
 老人になるというのは、そうやってほとんどむりやりに人格を奪われて、ひとりの人間として見てもらえなくなってしまうということなのだ。それはおじさんになった時点ですでにそうなってしまうもので、おじさんになると、みんな自分をひとりの人間としては見てくれなくなって、単なるおじさんとしか見なくなる。そんな視線しか向けられなくなったら、何かを思うこと自体が虚しくなっていくのだろうなと思う。
 それは大げさな話ではないんだよ。実際、君はそのひとについて知りたいとか、そのひとがどんな感じ方をしているのか興味を持ったような老人が身近にいたことはないだろう。そういうひとがいたとしても、それは本の中とか、スクリーンの中にいるか、運がよくて教壇に立っているという感じなのだろう。単純に、特別なひとたちだけなのだ。
 老人や中高年なりの苦労というものを知らなくて、そういう観点で、そのひとなりの苦労に何かを思ってあげられないとき、そのひとが何を言ってくれていても、おじさんが言うようなことを言っているという以外に何も感じられないのがおじさんなのだし、現実にそれくらい他人からするとわざわざそのひとの人格を感じ取る価値を感じられないのがおじさんなのだ、
 結局、仕事とか何かしらの領域で、歳を取ったあとでも自分の属している界隈のひとたちから一目置かれ続けているひとくらいしか、老いを肯定的にとらえることはできないんじゃないかと思う。そういう立場からなら、老化ではなく、その年齢なりの経験を積めたことで自分をより向上させられたというようにとらえることができるのだろう。
 経験の蓄積量もそうだし、年齢なりの体験というか、その年齢にならないと得られないものがあったりもするのだろう。年齡を重ねたぶん文化的に洗練されたあれこれを身に付けられたような場合もそうで、そういうひとは、それを感じ取れるひとからは一目置かれ、年齡も含めた尊敬を受けられたりもするのだろう。
 もちろん、多くのひとは文化とか他人がやっていることへの敬意とは無縁に生きているのだし、おじさんおばさんの大多数だって、誰が洗練されているのかも、どういう洗練なのかもわからないし、興味もないのだろう。積み上げられた洗練を見せつけることができるのは一部の界隈の中でだけで、世の中全体からすればそういうものに価値は認められていなくて、歳を取ることは、ただ年寄り扱いされるというだけになってしまう。
 大衆文化が変化しないか、変化がとてもゆっくりなら、知識や経験を蓄積させられていることで、年寄りがいばれる状況も残ったのだろうけれど、そういうものはもう伝統芸的な職人芸の世界くらいしかないのだろう。というより、年寄りをいばらせないために、何もかも伝統的なものよりも新しいものの方が価値があることにして、新しいものを持ち上げ続けるということをどこの社会もやってきたのだから、そうなるのは当然のことなのだろう。
 特定の集団の中では、その中で権力を持っているひとが尊重されるし、権力や名声を持った老人というのはどういう界隈でもいるのだろう。会社でえらくなれば、会社の中ではえらそうにできるし、金持ちになれば、そういう場所で金持ちらしく振る舞うことで、金持ちとして扱ってもらえたりもするのだろう。けれど、権力と関係なく見たとき、老人というのは常に軽視される存在なのだ。
 社会全体からすれば、とにかく老いれば老いるほど、そのひとはみんなから無視されるようになっていく。そして、老人たち自身、老人を見ていて楽しい気分になるわけではないから、メディアでは老人の楽しそうな姿はあまり取り上げられないし、老人からも老人は軽視されていると言えるのだろう。
 近年、日本の幸福度の調査をすると、沖縄が一位で秋田が最下位になるというのが続いているらしい。気候の違いもあるのだろうけれど、その二県というのは、県民の平均年齢の一位と最下位だったりもする。それはもしかすると、まわりに子供や若いひとがいなくて、老人ばかり目に入って、老人ばかりと関わっていると幸福なんて感じようもないということがランキングにあらわれているということなのかもしれない。
 実際そういう面はあるのだろう。単純に、どこかに行って、老人だらけだったら誰だってうんざりするのだろう。老人ホームならそういうものかと思えるけれど、転職先の会社が中高年しかいなかったら、すぐにうんざりしてしまうのだと思う。
 もう心がほとんど動いていないひとが、すっかり何事にもやる気をなくして、目の前のこともまともに感じずに、摩耗しきった昔の自分らしさでセルフパロディを繰り返しながら、教養も好奇心もないから、どうしたって時代から取り残されていくしかなくなっている姿は、そばにいるひとからして、ちょっと何かあるたびにうんざりさせられるものになるのは当然だろう。老人と一緒にいてなんとか耐えられているのは、老人とかおじさんのやっていることだからと、まともに受け取らないように感じ方を調整しているからだし、それが老人を軽視するということなのだろうけれど、若者からすれば、軽視しないとやってられない相手なのだ。というより、軽視するも何も、そもそもほとんどのまともな若者は、ほとんどの中高年のことを話も気持ちも通じない相手だと思っているのだろう。
 ひとは歳を取ると誰からも影響を受けなくなっていく。それにしたって、三十歳くらいでは、もう壊滅的な状態になる。友達と喋っていても、その場の雰囲気にいい気分になって自分も頑張ろうと思えたりはするかもしれないけれど、直接相手からいい影響を受けられるようなことはなくなってしまう。だから自慢話ばかりになっていくのだろうし、お互い相手が自分の話を真に受ける気がないのがわかっているから、へぇと言って終わることしか話さなくなっていくのだろう。
 ある程度の年齢以上のひとに何を訴えかけても、そのひとの感じ方は変化しないのだ。もうそのひとがそういうひとだったなりにしか、そのひとは生きていかない。だから、何かを表現したり発信しているひとたちは、みんな若者に向けてしか語りかけていないのだろう。若者向けではないものは、懐メロ的に消費できるものとか、自己追認のネタとして提供されているものばかりだけれど、そのマーケットには何も新しいことを感じてくれないひとしかほとんどいないのだから、そうなるのは当然のことなのだ。
 もちろん、いい歳になってから、誘われて宗教にかぶれたり、何かのセミナーにはまったり、エコとかオーガニックのひとたちと仲良くなってイベントに出るようになったりとかで、本人にとっては新しい何かに出会って、新しく何かを学んで人生が変わったと思っているひとたちもいるのだろう。けれど、そういうひとたちは、ほとんどが生きづらい系のひとたちなのだろうし、そうなるとそれは全く別の話なのだ。
 生きづらくなかったひとで、子育てが一段落して以降に、ものの感じ方が大きく変化するようなことがあったひとなんてほとんどいないんじゃないかと思う。思い上がっていたところから謙虚さを身に付けたとか、自分に自信がなかったひとが堂々と思ったことを言うようになったりとか、そういうことはあるだろうけれど、それくらいだと、行動はまるっきり変わったように見えても、感じ方や考え方が変わったというほどのことではなかったりする。
 単純に、一生懸命何かを学びながら試行錯誤するようなことのなかった大人は、何十年も全く精神的に進歩しなくて、だんだん耄碌するというだけなのだろう。俺の両親も、俺が見ていた感じだと、二人とも四十歳以降は全く賢くなってはいなかったのだろうなと思う。働いているからって、組織や集団の舵取りをしているわけでもなく、みんながやっていることをやっているだけで、家ではテレビしか見ていないなら、そういうものなのだろう。生活していればいろいろイベントは起こるし、思い出はだんだんと増えていっただろうけれど、かといって、内面としてはただひたすらに停滞していたのだろう。
 少なくても、俺の両親は日々いろんなことを思っていたわけではなかったのだと思う。仕事のこととか、仕事の人間関係とか、近所のひととの人間関係のあれこれを夫婦で話したりはしていたのだろうけれど、そういうこと以外に何か日常的に考えたり思い悩んだりすることがあったんだろうかと思う。本当に特別何も思っていなかったから、生活していたり、テレビを見ていたりしても、なんとなく思うことを聞いてもらいたいような気分にもなってこなくて、そのせいで、半分独り言みたいにしてしか、自分が思うことを子供に話すことがなくて、その結果として、俺はあんなにも干渉されずに育ってしまったというのもあるのかもしれない。親はそうしようとして子供の自主性を重視した適度な距離感で見守って育てたつもりだったのだろうけれど、そうだとしても、あまりに何も親の考えを押し付けられることがないまま、ひたすら見守ってもらうだけで、好きにしろとだけ言われて育ったのは、親が自分の思うことを話す習慣がなかったことで、自分が前に話してあげたのにまだ理解できていないのか思ってまた話すというのを繰り返して、自分の考えをわかっているふうに振る舞うことを暗に強要していくというようなやり取りが発生しなかったからというのもあるのだろう。
 生きていて、働いていて、しかも子供を育てているのだ。何かに気付かされて、そうだったんだなと驚きとともに少し感慨にふけるようなことくらいあるだろう。そのとき、子供が近くにいて、ちょうど話しかけられるタイミングがあったなら、今の時点のこの子の中ではそういうことにどういう意識なんだろうと聞いてみたくなったりするものなんじゃないかと思う。自分の中のいろんな思いを自分で楽しむために子供に話しかけるというのは、親には親で思っていることがあるということを知っていってもらえるような触れ合いにもなるし、子供の側も、全然わからないことを聞かれて、けれど、自分なりに考えて喋ってみて、親が楽しそうにしていればなんとなくうれしく思えたりするものだろう。親が子供に対して言うようなことだけでなく、親がひとりの人間として生きていて思ったことを子供に話しかけるのは、何も悪いことではないはずだろうと思う。
 俺の親には、そばに子供がいても、そういえばどうなんだろうと思って子供に話してみたくなるようなことがなかったのかもしれないけれど、それは今四十歳前の俺が、もう業界にも仕事内容にも慣れてしまって刺激の少ないサラリーマン生活していても、ひとがそばにいたのなら、こんなことを思ったけれどどうなんだろうと聞いてみたくなることくらいちょくちょくあるのを考えると、とんでもないことに思えてしまう。もちろん、生まれてからしばらくは、何を言ってもわからないんだから、子供扱いしているしかないのだろうし、その頃の習慣がずっと抜けないままになっていたから、子供の前では自然と親が子供に思うようなことしか思わなくなってしまっていたということなのかもしれない。けれど、ある程度の歳からは、そんなにも子供扱いされていたとも思わないし、むしろ、親のエゴに付き合わせないとか、干渉しないようにという意識で接してくれていたのだと思う。そうやって、それなりに適度な距離感があったわりに自分が思っていることをあんなにも何も言わなかったのだし、やっぱり俺の親には、日々のふと思うことに、ひとにわざわざ話したい気がしてくるようなことが何もなかったということなのだろうと思う。
 中年以降、歳を取っていくというのは、果てしない停滞なのだ。そして、そんなこと本人が一番感じていることなのだろうし、老人が他人からするとつまらない存在なのも、老人自身が自分をつまらないものに思いながら、表面的な気分の上げ下げしかない、ずっと凪いだままのつまらない内面を生きているからなのだろう。
 老人になる以前に、若者ではなくなっていく時点から、ひとは自分のことをつまらなく思い始めて、それによって他人からもつまらない存在に思われるようになっていくのだろう。たいした感情も野望も欲望もなくて、知りたいという気持ちも、もっとうまくやれるようになりたいという気持ちもなくなってしまうのだ。何事にも受け身になってたうえで、何事であれ面倒だなと感じてばかりになって、そして、そうなっていくほどに、まわりからの自分に対しての反応も着実に鈍くなっていく。むしろ、うっすらと疎まれるようになっていくことで、わざわざ関わりたいひとではないと思われていることをはっきりと突き付けられていく。何一つ思い込みではなくて、自分が弱るほどに、確かにはっきりと自分には価値がなくなっていくのだ。それはとてつもなく絶望的なことなのだろうなと思う。




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