見出し画像

【連載小説】息子君へ 220 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-8)

 けれど、俺がそう思うのは、そもそも俺がわざとらしいことされるのをあまり楽しめなくて、わざとらしいことをされていると、ずっとわざとらしいなと思い続けてしまうからというのもあるのだろう。ぶりっ子をしているひとと関わるのも不快だけれど、それと同じように、俺はきっと、多くの男が好きそうな感じにエロい女ぶっているひととセックスしたとしても居心地悪く感じるのだろうと思う。
 ぶりっ子をかわいいと思うことと、メンヘラセックスをエロいと思うことを似たようなことに思うというのはおかしいと思うのだろうか。確かに、ぶりっ子的なキャラをしていない女のひとでも、メンヘラセックスをしているひとというのはたくさんいるのだろう。けれど、多くのひとが普通の振る舞いだと思っている範囲を逸脱した振る舞いをするということでは、自分でそれがかわいいと思ってぶりっ子するのも、男が喜ぶからと思ってメンヘラセックスをやってあげるのも、似たようなことなのだ。
 ぶりっ子というのは、ひとの気持ちをまともに感じ取れるひとからすれば、ぶりっ子をかわいいと感じている男の鈍感さにもうんざりするし、鈍感な男をターゲットにしてバカみたいなことをやっている自分が惨めにならない女のひとの方にもうんざりさせられるという、視界の中にいるだけでげんなりさせられる存在だったりする。
 そういう意味では、ぶりっ子というのは、あまりひとの気持ちのわからないひとたちの界隈で流通している媚の売り方なのだろう。ただ、男にひとの気持ちがわからないひとが多すぎることで、ぶりっ子をすることがうまくいってしまう場所があまりにもたくさん存在してしまっているというだけなのだ。
 それだって、メンヘラセックスと同じなのだろう。メンヘラセックスは、ポルノをなぞりたがって相手の気持ちを感じる気を失ってしまっている男たちの界隈でもてはやされているセックスさせてくれ方なのだ。そうではない男からすると、女のひとにメンヘラセックスをしてくれようとされても、そんなことしてくれなくていいから、お互いがリラックスしていい気分でくっついていられるように。ちゃんと自分を見て、気持ちが通じ合っている感じがしてくるセックスをしてほしいと思うのだろう。
 メンヘラと言われるひとたちというのは、ひとの気持ちがいまいちわからなかったり、ある程度わかったとしても、自分の感情の乱高下に振り回されてひとのことをまともに感じられていない時間が多いひとたちなのだろう。
 メンヘラセックスをするひとには、オタク趣味でぶりっ子なひともいれば、ギャル的だったりヤンキー的ですぐ殴るような男と付き合うようなメンヘラセックスをするひともいるのだろう。けれど、どういうタイプにしても、関わる男がひとの気持ちがわからない男だったり、気持ちがわからなくはなくても、相手の女のひとがいまいち話が通じないことをむしろ楽しんで、セックス面でも、メンヘラのメンヘラさに変態的に欲情するのを楽しめたがるような男だったりしているのだ。そういう意味で、メンヘラセックスをしているひとたちというのは、ひとの気持ちをまともに感じていないような男とばかり関わるような、そういう界隈のひとたちなのだし、それは当然、各種メンヘラのひとたち自身が、いまいちひとの気持ちがわからないから、そういうグループが自分の居場所になっていくことでそうなっていることなのだろう。
 その界隈にいるかぎり、どの男からも同じように変態的な行為を求められることになるし、そういう界隈の住人だから、まわりにいる友達も自分の男と似たような男と付き合って、似たような扱いを受けているから、そういうものだと思うようになっていって、だんだん自ら進んで男が望むようなエロいことをするようになっていくのだろう。そして、その界隈の女のひとたちが、みんなさせてあげているから自分もさせてあげるというようになることで、その界隈の男たちは、普通どれくらいのことはやらせてもらえるものだという感覚をより変態化させていくのだろう。そして、変態的な行為で楽しもうとしていると、同じことをやっても刺激が得られなくなってきて、もっと変態的なことをしないと物足りなくなってくるのだろうし、そうやって、メンヘラセックスは、進歩し続けるポルノ文化とぴったり並走するようにして、メンヘラセックス的であることを先鋭化させていっているのだろう。
 そういうサイクルの全体が、ひとの気持ちをまともに感じ取れないひとたちが、ひとの気持ちを感じていないからこそできるような興奮に身を委ねたがっていることによって駆動し続けているのだ。ひとの気持ちを感じていないことによって成り立っている界隈という意味で、ぶりっ子界隈も同じだというのもわかっただろう。ひとの気持ちをまともに感じていないことでぶりっ子をかわいいと思えてしまう男たちがいて、自分もひとの気持ちをまともに感じていないからぶりっ子することをかわいくて楽しいと思えてしまう女のひとたちが、そういう男たちがちやほやしてくれるからと、自ら進んでぶりっ子しているというのは、まるっきり同じような、気持ちのわからなさを前提にしたようなひととひとのつながり方なのだ。
 もちろん、ひとの気持ちがわからないひとだからといって、メンヘラになるわけでもないし、ひとの気持ちがわからないからメンヘラセックス的なセックスをするようになるというわけでもないのだろう。ただ、ひとの気持ちがわからない女のひとは、メンヘラ的でなかったとしても、お互いの気持ちを確かめ合いながらするようなセックスはしないのだろう。それでも、あまり相手の気持ちを感じ取れていなかったとしても、相手がにこにこしてくれて、かわいいと言ってくれて、抱きたいと言ってくれて、気持ちいいと言ってくれればうれしくなるし、触れ合っていると普段よりも他人とまともにつながれている気がするのだろうし、それでセックスをしているのは好きだというひとはそこそこいるのだろう。気持ちをあまり感じていなくても、セックスを楽しめるようにはなっていて、そのうえで本人がもともと性的なものへどれくらい興味があったかとか、付き合った男がエロいことをやらせようとしたがる男だったかで、そのひとのセックスライフが大きく変わってくるのだろう。男が喜ぶからと、ポルノビデオでやっているらしいことの真似をどんどんしてあげて、男が興奮してほめてくれることに充実感を感じているようなひともいるのだろうし、男に求められるままにどんどん男が喜ぶようなことをするようになって、セックスはそういうものだと思うようになっていくひともいるのだろう。そして、それくらいセックスに積極的になっていれば、身体をくっつけ合って、お互いが興奮していることに興奮するような状態には入っていけるのだろうし、エロいことをして興奮してくれていることに自分も興奮しまくって頭を空っぽにできて、自分の身体が感じる快感にうまく没頭できるようになれば、すごくセックスが気持ちいいと思えるようになっていったりもするのだろう。
 ひとの気持ちがあまりわからないということだと、君のお母さんもそうだったけれど、君のお母さんはエロいことが何もできないひとだった。かわいくしていたし、ある程度気持ちよさそうにしていたけれど、見ていてエロいと感じるような表情や態度が自然と出てくることはないままだった。
 それは単純に、君のお母さんがエロい気持ちになっていないからだったのだと思う。相手から流れ込んでくるエロい気持ちに自分から同調していって、自分の中のエロい気持ちにしっくりくるような顔をして、しっくりくるような触り方で相手に触って、もっとこのエロい気持ちに入り込もうとするような感覚は君のお母さんにはなさそうだった。フェラチオとかをするときも、フェラチオしていてどんな気分になっているのかを伝えながらフェラチオしていなくて、ただフェラチオしていた。
 もちろん、君のお母さんは何をするときにもそうだったりするのだろう。だから職場でも何を考えているのかわからないと言われたりしていたのだ。けれど、ひとがたくさんいて慌ただしい状況の中でそうだっただけではなく、ゆっくりと一対一でやれるセックスですらそうだったということなのだ。セックスしていても、舐められていても、気持ちよくさせられていて、うれしかったり恥ずかしかったりする自分を相手に見せているという感覚がなさそうだった。
 きっと、君のお母さんは、セックスはエロいことをするものだと思っていて、そして、自分はエロいことをするのが苦手だと思っていたのだろう。そして、エロいことなんてしなくても、相手と身体を近付けてお互いをじっと感じ合っているだけで、どきどきして興奮して性的快感がそれに混ざるとうっとりできて、いかにもエロいことなんかしなくても最高にいい気持ちになれるのがセックスだと多くのひとが思っているなんて、君のお母さんには思いもしないことだったんだろうなと思う。
 けれど、君のお母さんがそんなふうにエロくセックスできないし、セックスしていても自然とエロくなれないというのも、ひとの気持ちがわからないひとならではのセックスへの慣れ親しみ方をしていったからということなのだろう。
 君のお母さんの場合はオタク趣味が全くなかったから、エロいことに全く興味がないままで思春期や大学時代を過ごしたのだろう。セックス自体は求められるままにしていて、別に嫌いじゃないつもりだったのかもしれないけれど、君のお母さんに近付いてみようとするような男は色っぽくないだろうし、君のお母さんもふざけてばかりのひとだし、お互いにエロい気持ちになって、べたべたしているだけでエロい気持ちが伝わってきて興奮してしょうがないというようなセックスをしたことがなかったのだろう。むしろ、それとは対極の、男がぎこちなくやりながら自分なりに頭の中で興奮しようと頑張って、君のお母さんは好きにさせながらたまにくすっと笑ったりしているような、散漫さの限りを尽くしたセックスばかりをしていたんだろうなと思う。きっと、男からもっとエロくしてと言われたことくらいはあるのだろうけど、そんなのわからないし恥ずかしいとか言ってやり過ごしていたのだろう。そして、その代わりのようにして、自分がやりたいようにできる騎乗位とフェラチオはうまくなろうとして、エロい雰囲気を作りながら、エロい表情やエロい動かし方で口や腰を使えるようになったわけではなかったけれど、的確な刺激ですぐに射精させられるようにはなったのだろう。けれど、フェラチオと騎乗位をほめてもらえるようになったことで、君のお母さんはそこでもう大丈夫だと満足してしまったのだと思う。俺としていたときも、されているだけで自分から何もしていないことに後ろめたそうにしていた瞬間はなかったし、そこで満足して以降は、ただ男がやりたいことをやらせてあげているだけで、エロい気持ちになってあげてすらいないのに、自分は充分セックスできているつもりでやってきたのだと思う。
 君のお母さんだって、メンヘラみたいにセックスするようになる可能性はなくはなかったのだと思う。若い頃に、自分の方が格下だと思える見た目のいい男とセックスするようになって、その男にもっとエロくやれと言われて、わからないといっても、ポルノを見せられて、これくらい感じられるはずなんだからちゃんとやれと言われて、道具なんかも使われてしつこく身体をいじられ続けて、もっとエロくしろとか、これくらいエロく感じまくっているふりをしろと、叩かれたりしながら、本気でそれをやらされながら、ちょっとずつエロい振りがうまくなるたびにほめられて、その間もセックス自体はどんどん気持ちよくなって、その男の前では恥ずかしさがなくなっていって、自分のエロいふりに合わせて興奮した顔をしてくれる相手のかっこいい顔にエロさを感じられるようになってきて、エロい気持ちの顔をして相手に興奮してもらうという感覚もだんだんわかってきてということがあったっておかしくはなかったのだ。
 そういうことがあったなら、君のお母さんは三十代後半にもなって、初めてセックスする不倫相手に対して全くエロい雰囲気もなく裸になって挿入させるような女のひとではなかったのだろう。
 もちろん、そうやってエロい感覚に没頭することでどこまでも興奮していこうとするセックスに慣れ親しむのがいいことなのかは別なのだろう。俺からすれば、君のお母さんがメンヘラみたいなセックスをするのではなく、かわいいと言ってもらいたくて一生懸命かわいくしようとしながら、じっとして何もせずにあんあん言っているだけのセックスするひとだったから、君のお母さんとのセックスに夢中になれていたのだ。
 それに、君のお母さんは自然とエロい気持ちになってエロい顔になっていってはくれなかったけれど、かわいがられることのうれしさと肉体への刺激の心地よさだけでセックスしていたわけでもなかったのだと思う。共感があまり働いていないひとなりに、いちゃいちゃしているときと、セックスのときには、俺の気分に気分で反応してくれていたように思うし、興奮されていることに興奮してくれていたのだと思う。
 きっと、頭ではよくわかっていなくて、自分で興奮しようとはしていないけれど、身体は反応しているとか、そんな状態だったんじゃないかと思う。まだエロいということがどういうことかわかっていない子供が、初めて見たエロい写真に、何を見ているのかわかっていないまま、だんだんどきどきしていつの間にか勃起しているような、いつも通りセックスしているつもりだけれど、いつもと気分が違うとか、いつもよりどきどきしているとか、なんとなくいやらしい気分というのはこういう気分なのかもしれないと思っていたりとか、そういう状態にはなっていたのかもしれない。
 けれど、それはエロいことをやろうとしたり、やらせようとするのではなく、向かい合って目を合わせたまま、特に何を話すでもなく長い時間よい感情を伝え続けていたからそうなったことだったのだろう。目の中を覗き込まれることで、どぎつく相手を感じている状態がずっと続いていたことで、だんだんいつもよりもじーんとしてきたり、どきどきしてきたり、俺がそうなるみたいに、目が合っていることで性器の気持ちよさが全身に広がるような感覚になったりもしていたかもしれない。
 そういう感覚は、男と裸になって性器をつなげていても、すぐにふざけてしまって、長時間見詰め合ったりすることのない君のお母さんにはめったにないか、もしかすると初めてのもので、君のお母さんはそういう感覚をどうしていいかわからなかったのかもしれない。自分の興奮に身を任せるような感覚も身に付いていなかったのだろうし、かわいい顔をして、俺にかわいいと言われてうれしくて顔がでれでれしてしまうのが止められないけれど、それだけでいっぱいいっぱいで、自分の身体が興奮しまくっていて、興奮のせいでうれしさが頭の中で暴れまわっているのも自分でよくわかっていない状態のままで、ただただずっとどきどきしていたのかもしれない。
 発達障害で他人の感情を読み取る能力が低いひとも、共感能力が働いていないわけではなく、実験として、対象の気持ちを感じ取るのに適切な注意の向け方ができる状況を作ったうえで画像から感情を判別するテストをすると、定型発達のひとと比べても共感能力は低くなかったというのを何かで読んだ。
 知覚の過敏さや知覚情報の統制なんかの要因で、外界のいろんな刺激に注意が逸れてしまっったり、それによって感じるべきものを必要な感じ方で感じ続けることが難しかったりすることで、ひとの気持ちを感じ取り続ける態勢を維持できなくて、それで発達障害のひとはうまく気持ちを感じ取れないということもあるのだろう。それならば、会話していて気持ちに気持ちで反応するのは難しくても、黙って至近距離で見詰め合って、相手しか視界に入っていないし、相手のことばかりがはっきり感じられる状態になっているときには、相手の性的興奮をある程度まともに感じ取れてしまうというのも、充分にありえることなのだろう。普段はひとの気持ちがあまりわからないけれど、セックスで見詰め合っているときはじーんとするし、なんとなく相手と一体感があって、エッチな気持ちにもなってしまうし、こうしているときだけは気持ちが通じている気がすると感じているひとはけっこういるのかもしれない。君のお母さんは、興奮はしていたし、じーんともしていたけれど、俺の欲情に欲情させられているような感じにはなっていなかった。ある程度止まりになっていたということでは、そういうひとたちの中でも、そこそこしっかりひとの気持ちが感じ取りにくい身体をしたひとなのかもしれない。
 もしも中学生とか高校生くらいで付き合った男と、俺としたみたいにセックスできていたなら、君のお母さんのひとの気持ちのわからなさとか空気の読めなさも、大人になる頃にはずいぶん違っていたのかもしれない。長時間心の中を覗かれっぱなしになっているみたいに見詰め合ったままになることに慣れて、かわいいと言ってほしいからと恥ずかしくてもかわいくして、好きだと思ったからそのまま好きと言うのが当たり前になって、素直になればなるほどうれしそうにしてもらえるし、気持ちいいと言うほどうれしそうにしてくれるような時間を、まだ自分らしさが固まってくる前に、繰り返し夢中になっていちゃいちゃしたりセックスできていたら、いろんなことが違ったのだろう。相手をじっと見て相手を感じようとするほど気持ちよくなれることで、相手をじっと感じる感覚も身に付いてきて、共感能力が肉体的な機能として多少発達することにもなったのだろう。そうしたら、ひとの気持ちが自動でわからないからいつでも好き勝手に誤解するようなことはなくなっていって、感じ取りにくさはあっても、ひとが何か思っていたらそれに気付いて、それを気にしながら行動できるようになれたのだろう。そうすれば、少し天然なところがあるくらいで、空気が読めないとは誰からも思われないくらいにはなっていたのかもしれない。感じ方とか行動パターンみたいなところでも、ほめてもらいたい気持ちに振り回されている度合いも下がって、素直でいられる相手がいることのうれしさをいつも大事するようになったのだろうし、頑張ったらほめてもらえるわけじゃないんだというのも自然とわかってきて、自分が次々面白いことを言ったりしたりしなくても、他のひとに面白いことをしてもらえるように待ってあげているのも楽しいと思えるようにもなったかもしれない。そうしたら、もっと気持ちの落ち着いた、好きなひととゆったり時間を過ごすのも好きな、今よりももっと善良なひとになっていたのだろう。
 俺とのセックスであんなにも自分でびっくりするほど幸せいっぱいになって、うれしくて仕方がない気持ちがずっと続いていたのだ。君のお母さんにはセックスの距離感でしか伝わらないものを大量に注ぎ込んでもらうことで劇的に変化するような、心の働きのうまくいかなさがずっとまとわりついたということなのだろう。なんとか君を安全に産んであげられる歳に俺との不倫が間に合いはしたけれど、本当ならもっと早く、できるかぎり早く、俺にしてもらったようなセックスをいっぱいしてもらえるのがよかったんだろうなと思う。




次回

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?