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【連載小説】息子君へ 221 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-9)

 どうなんだろう。若い頃にいいセックスをしていれば、肉体的な共感能力も向上していたんじゃないかなんて、障害のあるひとをバカにしていると思っているんだろうか。
 けれど、ひとは感じ方や考え方を変えれば物事を新しく体験できるものだし、新しい経験によって、新しい観点や新しい感覚がそのひとの中に生まれたりするものなのだ。そして、新しい感覚はそれを使っていくほどにどんどんと自分のものになっていって、より強く働くようになる。君のお母さんだって、じっとして、相手しか感じていない状態になって、相手の気持ちをそのまま自分の中に取り込んでしまう感覚を覚えることができたとしたら、そこから始まるものがあったとしてもおかしくはないだろう。
 少なくても、俺としたセックスは、君のお母さんに新しい体験を与えて、君のお母さんは新しい他人の感情の感じ取り方をしたんだ。もちろん、俺とするまでも、男の肉体に近付いてどきどきしたり、欲情されてじわっと興奮させられたことくらいはあったのだろう。けれど、俺とはそれだけじゃなかったのだ。
 君のお母さんのような、自分を面白い女ということにして、何かあればすぐにふざけることで、曖昧な状況でどう反応すればいいのかでよくわからない状況をやりすごしたことと引き換えに、かわいがってもらいたいという気持ちもちゃんと相手に向けられなかったひとが、どういうお膳立てによって、自分からでれでれして、好き好きと言えるようになったのかということはここまでにも書いた。そうなるまでのプロセスを想像してみれば、そこに君のお母さんがそれまで自分の中に感じたことがなかったものが自分の中にあるのを気付かされて、そういう感じ方をする自分や、そんなふうに他人に感情をあふれ出させる自分を初めて体験することになったというのがわかるんじゃないかと思う。
 身体を近付け合った状態で相手の気持ちを感じようとしていれば、それだけでお互いがお互いの興奮を伝染させられて、興奮が高まるほど感じている相手の感触はどんどん心地よいものになっていくはずだけれど、君のお母さんは相手の気持ちを感じっぱなしになる感覚がそもそもなかった。けれど、俺に延々と切れ目なく真正面からかわいがり続けてくれるセックスをしてもらって、自分は何もしないまま、ずっとされるがままになってかわいがられていたことで、人生で初めて、何十分もの間ひとつもふざけずに、何も考えることもないままで自分に向けて感情を発している男と見詰め合うことになった。かわいがられてうれしいから、もっとかわいくしようとしながら、もっとかわいがってくれる瞬間をもろに感じようと、俺が何か言ってくれるのをずっと待ち構えるような状態になって、そうすると、いつの間にか、今まで日常ではそんなふうにしたことがないくらい、相手の気持ちの動きをもっと感じようとする態勢になっていたのだろう。そうやって、いつもより他人の感情を正面からまともに感じている状態で、俺が自分のことを本当にすごくかわいいと思っているのをひしひしと感じてしまっていたのだし、そして、挿入されていることで、かわいいと言ってくれることと硬いペニスを押し付け続けてくれていることがひとつながりであることを身体で感じ続けることにもなっていたのだ。かわいいと言われてうれしいし、かわいい自分とのセックスに夢中になってくれているのがうれしくて、そんなふうにずっと目を合わせたままになっている俺の気持ちが注ぎ込まれるのをずっと感じ続けていたら、興奮して頭がしびれてくるみたいになっていたのだろう。自分でもどうしてなのかわからないくらいどきどきが続いて、どうしていいのかわからないからかわいくすることしかできないけれど、こんなに強い気持ちで求められて、こんなに強い気持ちでかわいいことを喜んでくれているのはこのひとが初めてで、こんなにセックスされちゃってるのもこのひとが初めて、何もかもうれしすぎて、興奮されるほど興奮してしまって、かわいいとうれしそうにされるほどうれしくなってしまって、俺からかわいいことと気持ちいいことが混ざり合った最高の気持ちで腰を押し付けられるほどに、伝わってくる最高の気持ちの中で、ペニスの感触がどんどん気持ちいいものになっていったりしていたのかもしれない。
 それは全て、君のお母さんにとっても、自分でも気付かないうちにそうなっていたことなのだろう。何も言うことがなくて、かわいがってもらおうとかわいくしているだけになっていたから、一生懸命気持ちを込めてかわいくしようとしている状態で、かわいいと感じていることを一生懸命伝えようとしている俺と目を合わせ続けることになったのだ。自分の気持ちも強く動いている状態で、普段にはありえないくらいにひとの気持ちを感じて、しかもそれがうれしくて全部まるごと受け取りたいようなとても強い感情だったことで、それを受け取った自分の身体は、普段の許容量をはるかに超えた感情によって、押し流されるみたいに性的で恋愛的で幸せな気分にさせられて、今までなったことのない気分になったことで、今まで働いていなかった感覚まで動き出すことになったという感じだったのだと思う。
 君のお母さんは、むしろ何かのポーズとして、相手の目をじっと見るというのをやろうとしがちなタイプなのだろう。けれど、そういうポーズとして相手を見る視線は、相手に視線を押し付けているだけで、相手を感じようとして見ているものではないのだ。俺とのセックスでは、ひたすら延々とかわいがられるだけの状態になったことで、君のお母さんは自分がかわいくしているところを見られているだけの状態になっていた。本当は恥ずかしくて目を逸らしたいけれど、この顔をかわいいと言われているし、かわいいと思ってくれている顔を見たいからと、目を合わせたままでいて、そうするとかわいいと言われてうれしい自分も見られたままになって、興奮して気持ちよくなってずっとこうしていたいと思っている自分の顔も見られたままになって、こんなにうれしくて好きになっちゃうセックスはこのひとが初めてだと思っている自分の顔も見られたままになってというように、思っているままを全部見られている状態になっていた。それは面白い女としていつでもふざけられる自分らしい距離感を手放してしまったまま、一時間とか二時間を過ごしていたということで、そんなふうにいつもの自分じゃない自分で思い切り何かに没頭できたのは初めてだったのだろうし、だから今までなったことのない気分にもなっていたのだろう。
 今までひとに面と向かった状態で気持ちのままに本気で好きだという顔をできたことがなかったのに、いつの間にか、かわいいと言ってもらえるようにかわいい顔をしているつもりが、もうずっと好きとうれしいしか思っていない顔になってしまっていて、その好きという気持ちでしている顔を、ずっと見られてしまっていたのだ。ものごころがついたときから、基本全部隠して自分が見せようとしたぶんしかひとに見せないようにしていた自分の気持ちが、まるっきり思ったまま顔に出てしまっているのが怖くて、けれど、もうすでにうれしくなってしまっていたから、怖いよりもはるかに恥ずかしくて、怖がるよりもはるかに興奮してしまっていたのだろう。そんなふうに自分で気持ちを制御できなくなっているところに、全力でかわいいと言われ続けながら、かわいいの言い方と同じ感触で腰を押し付けられ続けていたのだ。うれしいのが止まらないのと一緒に、ペニスも気持ちいい感じがじりじり膨らみ続けていて、もうどうされてもいいというような気持ちになってしまって、そんな気持ちになってしまったことに自分で興奮してしまったら、好きという気持ちが止まらなくなって、誰にも言えたことがないみたいに好き好きと言ってしまって、言うたびに恥ずかしさで身体がもっと気持ちよくなって、恥ずかしさをまぎらわせたくてキスをねだって、またすぐにかわいいと言ってもらいたくなって、また心の中で好きと念じながらかわいくして、かわいいと言ってくれるまでの俺の顔の動きを全部感じようと俺の目を見て、そうやってもろにかわいいと言われてしまうことで、頭がしびれてくるみたいにうれしくさせられて、もっとこうしていたい、ずっとこうしていたいと、かわいくした状態の顔を俺に見せ続けようとするのをずっとやめられなくなっていたのだろう。
 この手紙のようなものの中で、君のお母さんは、俺とのセックスで、自分が存在まるごと愛されていると実感して、無条件の愛情に自分が包まれているような気持ちになっていたのかもしれないと書いた。それは大げさな話ではなかったんだよ。君のお母さんにとっては、俺とのセックスで、俺の気持ちを受け取り続ける状態で長い時間を過ごしたことは、それくらいそれまでの人生で体験していた他人との気持ちの行き来とは別種の体験になっていたんだ。
 それが別種の体験になるために、セックスの距離でかわいがられて、言葉ではなく身体でかわいがってもらえたからそうなれたというのも、これを読んできた君には、どういうことなのかわかったんじゃないかと思う。そして、ここまで読んでくれば、男がやりたいことを一方的にするセックスではなくて、俺がするようなセックスだったからそうなったというのも納得できただろう。大好きなひととセックスできたという出来事への喜びだけでは、そんなことは起こらないんだ。
 セックスで見詰め合ったまま揺るぎなくかわいがられて、喜ばせてあげたいという気持ちだけを向けられて時間を過ごしたことで、やっと人生で初めて揺るぎない愛を実感できるひともいるんだ。もしかすると、自分の中に揺るぎない愛を感じられて、ひとの気持ちを揺るぎないものに感じられることなんてあるんだと知って、それはこんなにもうれしいんだと知って、そうやって愛されるということがどういうことなのか身体と心でわかったから、君がお腹の中にやってこれたのかもしれない。どういうものが本当の愛情なのかわかっているお母さんになれるように、君のお母さんの身体は、自分への揺るぎない愛情を身体で思い知らされるようなセックスをされて、心も身体も変えられてしまうまで、君がやってくるのにストップをかけてくれていたのかもしれない。
 もちろん、そんなことを思うのは、世の中の妊活をしているひとたちに失礼だったりするのだろう。けれど、君のお母さんはずっと妊娠できてもいいはずの長い年月を過ごしていたわけで、少なくても、俺へのどきどきとか、長時間のセックスとか、快感の大きさとかによる、ホルモン的なものの問題で、俺とのセックスによって肉体的に妊娠可能性が高くなったというのはなくはないのだろう。そういう肉体的な変化と並行して、感情面でも新しい何かがそのときから動き出したかもしれないというくらいなら、それほど不自然な考えではないんじゃないかと思う。
 君のお母さんにとって俺とのセックスは、ただ好きなひととセックスしてすごくうれしかったとか、すごくときめいたとか、そういう誰もが事前に舞い上がっておくだけで体験できるセックスのうれしさとは別種の、君のお母さんにとってショックのある体験だったのだ。そうだとすれば、目の前の相手に本気で興奮したり、本気で好きな気持ちを伝え合ったり、抱き合うほどに幸せな気持ちになるセックスをしたりとか、自分の身体に初めてそういうことを体験させてあげたことで、身体の中のうまくいっていなかった何かがまた動き始めて、それによって君を生むことができたと思っていた方が、妊活しているひとたちには失礼でも、セックスという素晴らしいものには失礼がないんじゃないかと思う。

 けれど、それだっていかにセックスを軽視する言説が世の中にあふれているのかということのあらわれだとはいえ、君のお母さんのような、愛されたくて、かわいがられたいばかりの人生を送っていたひとが、セックスを男が射精するためにあれこれする何かというようなくらいにしか思っていなかったというのは、驚くべきことだなと思う。そもそも、好きな相手にでれでれしながら好き好きと言うことすら恥ずかしくてできなかったというのがすごいけれど、人間関係ではどうしても恥ずかしかったなら、せめてベッドの中でもっとかわいがってほしいとべたべたすがりつけばよかっただろうにと思う。
 もちろん、君のお母さんがセックスしてきた男たちが、相手に喜んでもらいたくて、自分のことを大好きになってもらいたくてセックスしてくれるような男たちではなかったからというのは大きいのだろう。けれど、君のお母さんからでれでれしてあげれば、君のお母さんはかわいくすればかわいいのだから、男たちもとりあえず飽きるまではかわいがってくれたのだろう。
 それを考えても、いかに君のお母さんが裸で抱き合っていてもなかなか簡単に興奮できないし、相手が興奮しているからって、興奮されていることに興奮できたりもしないひとだったのかというのがわかるだろう。俺が早漏だったら、俺だって一線を越えるところまで興奮してもらうことはできなかったのかもしれない。そして、俺とだって、興奮はある程度してくれていたのだろうし、かわいくはしてくれていたけれど、そこ止まりになっていて、君のお母さんはいつまで経ってもエロくはなってはくれなかった。性的な興奮での一体感は何回セックスしてもなくて、俺はずっとかわいくしてくれていることに興奮して、その興奮に君のお母さんが興奮して幸せいっぱいになっているだけで、エロさでつながっていた瞬間は一瞬だってなかったのだろう。それなりにエロくなりにくい何かで凝り固まったひとだったということなのだろうし、我ながら、そんなひとを相手に、よく一回目のセックスの途中であんなに劇的に違う精神状態にまでいってもらえたなと思う。
 実際、複数回セックスしたひとだと、セックス中に性的な興奮で一体感を発生させてくれないようなひとは君のお母さん以外いなかったのだと思う。一回しかしなかったひとだと、三十代になってから、飲み屋で知り合ったひととかで、酔っ払った状態でセックスしたひとだと、おぼろげな記憶の中で、自分の頭の中で盛り上がってくれてはいるようだけれど、あまりこっちを感じてくれていないなと思ったようなひとは何人かいた。そういうひとと素面で何度かセックスしていたら、君のお母さんに感じたものに近いものを感じたのかもしれない。
 酔ってしかセックスしなかったうちのひとりは、放っておくとずっと恥ずかしがってあれこれぶつぶつ言っているようなひとだった。抱きしめたあとも、ずっと恥ずかしい恥ずかしいと言って、目を閉じていたり、違う方向に顔を向けたりして、見詰め合ってもくれないし、お互いの息遣いを確かめるみたいにもならなくて、抱きしめられてあたふたしているのを見せられているだけになって、どうしたものかという状態になっていた。
 本人は口説かれているシチュエーションに頭の中でそれなりに興奮していたのかもしれない。けれど、こっちからすれば、あたふたされるにも、あたふたしてしまって恥ずかしいけれど、その恥ずかしい気持ちもうれしいというのをこっちに伝えてくれるようなあたふた仕方をしてほしかった。けれど、そのひとは、こちらへの注意が切れて、シチュエーションと自分しか感じていない状態になってあたふたしていた。
 そのひとには、相手がぶつぶつ言い始めたら遮って、こっちがゆっくり何かを話して、それを聞いているしかないようにして、そうしながら身体を触って、基本こっちを見てくれなくても、ちょっとずつ目を合わせて、かわいいとか言いながら横顔にキスしたりしながら、相手が恥ずかしいことを身振りで表現するのをやめさせて、俺にされていることをじっと感じているしかないような状態を続けさせて、そうしているとだんだんまともに俺といちゃいちゃしていること素直に興奮してきてくれたし、その流れのままセックスを始めることができた。とはいえ、服を脱がすにもぶつぶつ言うし、裸で正常位になるとまた恥ずかしい恥ずかしいと目も合わせなくなって、また同じようにだんだんおとなしくさせながら、かわいいと言われっぱなしになってもらって、少しずつこっちをまともに感じるようになってもらって、それでなんとか最後まですることができた感じだった。
 そのひとは自分のことをブスだブスだと言ってばかりいるひとだった。ちゃんと相手と向き合って、視線とか言葉を一つ一つ確かめ合いながらセックスされるのは、どんな顔をしていいかわからなくなったり、変なことを言ってしまわないかとか、ブスな顔になってないかとか、とにかくいろいろ不安になってしまうことだったのだろう。男もむしろ好きだし、セックスされるのも好きだけれど、そういうことをするときほど不安にもなるから、若い頃からずっと、どきどきするたびに自分の頭の中に逃げ込んでうやむやにしながらなりゆきにまかせてきた感じだったのかもしれない。そんなふうにしていても、身体をくっつけ合っていれば自動的に興奮できてしまうのだし、相手をちゃんと見ようとしていなくても、自分の頭の中で、こんなひととこんなふうにエッチしちゃうなんてダメなのにとか、かわいくないのにかわいいって言われてうれしい私バカみたいと思いながら、どんどん興奮していけるのだろうし、あとは気持ちよくしてくれたら何でも喜ぶので盛り上がっている私を好きに抱いてくださいという感じでセックスを楽しめてしまうのだろう。
 俺とは浮気セックスだったし、シチュエーションの時点で興奮できたから、相手が自分にどんなふうに感じているのかを確かめながら、喜んでもらえるように頑張ってセックスしなくても、恥ずかしがったふりをしながら相手任せにセックスして、シチュエーションに気持ちよくなるのを満喫させてもらえるだけで満足だったのだろうし、俺がちゃんとこっちを見てくれなくて残念な気持ちになっているなんて思いもしないことだったんだろうなと思う。
 そのひとは彼氏とのセックスがよくない感じになってしまって、彼氏からはそれを自分のせいにされて腹が立っていたのもあって俺とセックスしたようだったけれど、これから結婚しようかという相手にそんな状態になっているのだから、感情のこじれはあるにしても、放っておいても自然と気持ちよくなれるようなセックスができる組み合わせのカップではなかったのだろう。その女のひとにしても、どういうセックスを今までしてきたという自負みたいなものは一切感じられないような、特に何のイメージもなく流されるままという感じの身のこなしでセックスしていたし、単純にそういうひとではあったのだろう。
 頭でっかちに生きていて、すぐに軽いパニックになっておどおどしたり、まわりが見えなくなってしまうようなひとは、セックスするにもそんな感じになる場合が多いんだろうなと思う。
その女のひとにしても、俺とセックスするのは、見た目が好みだし、セックスもキモくなくて、こんなひととするなんていい気分と思いながらやっていたのだろうけれど、それまでの三十年ちょっとの人生としては、日常的に外でも記憶をなくすくらい飲むひとのようだったし、飲みの席にずるずる居残って、たまにいい感じのひとにお持ち帰りされて、上手にしてくれるひとだったときには、酔っ払いながらもすごーいと思ってうれしかったりするとか、そういうことはたまにあったのかもしれないけれど、セックスのやり方としても、上手い下手以前に、自分らしいセックスまでいけていないという意味で未成熟なひとだったし、セックス自体を好きになれるほどは、セックスでいい思いをしてきてはいないひとではあったのだろう。そして、それはそのひとのせいでもあって、すぐにあたふたして、じっくり相手に身体も心も開いて感じ合うようなことがまともにできないひとだったから、セックスをするときにも、シチュエーションとして楽しんでいるだけで、セックスしている相手の感情も自分の感情も素通りすることになって、だからいつまでたってもまともにセックスを好きになれないままになったのだ。
 気質のせいですんなりセックスを好きになっていけなかったということでは、そのひとと君のお母さんと似たようなケースだったのだろう。そして、君のお母さんの方が堂々とはしていて、少し慣れてから、かわいくするのを真正面から頑張ってくれるようになった。けれど、性的に興奮しているのが表情に出ていた度合いは、恥ずかしがるふりをやめたあともなかなかまっすぐにこっちを見てくれなかったその女のひとの方が高かったのかもしれない。エロい気持ちになるということだと、ひとりで騒ぐのをやめてくれた時点で、そのひととの方がお互いに対してエロい気持ちになれていたのだろう。
 そのひとの方がはるかに会話は噛み合ったし、そのひとはちょっと不器用で、そこそこ子供っぽくて、コンプレックスがかなり強かっただけで、共感能力にうまく働いていないところはほとんどなかったのかもしれない。エロいものを見てエロい気分になる感覚とか、エロいことをされてエロい気持ちになる感覚も、君のお母さんほど希薄ではなかったのだと思う。
 きっと、セックスできそうだったのにしなかったときに、もうちょっと粘って、させてもらっていたら、そのときはお互いに素面だったし、じっくり一緒にエロい気持ちになれていたのだろう。そのひとからすれば、顔が好みの男にじっくり身体を撫で回されながらもう一回ちゃんとエッチしようよと説得されていた状態で、すでにエロい気持ちだったのだろう。胸も太ももの内側や付け根も触られるままになって濡れてしまっていたのだろうし、あのまま丁寧にどれくらいセックスしたいのか語りかけていれば、好みの顔が微笑みかけてくれているのを見ながら、自分で赤ちゃんのためのセックスしかしないとか言っちゃってるのに浮気エッチしちゃうんだと思ってしまって、どうしようもなくエロい気持ちでいっぱいになってくれていたのだろうし、裸にされて、諦めてわざとらしい困り顔で俺を見上げてきたなら、それは充分すぎるくらいにエロい顔になっていたのだろう。
 とはいえ、君のお母さんは異様なほどうれしさを充満させたかわいい顔をしていた。そんな君のお母さんと、真正面から見詰め合ったまま時間が止まったみたいに延々とかわいがりながらペニスの抜き差しにあんあん言ってもらっていたわけで、セックスとしての気持ちよさは比べ物にならないくらい君のお母さんとのセックスの方がすごかった。エロっぽさなんてなくても、うれしさと、もっと深くくっつきたさと、もっとペニスに反応して欲しさがあれば、セックスはいくらでも充実していく。君のお母さんはペニスでかわいくなってくれていたのだし、異様にうれしそうなかわいい顔をもっとあんあん言わせたくてたまらないセックスなのだから、エロっぽさなんて皆無でも最高に興奮できるのは当たり前のことなのだ。
 ただ、どちらにしろ、適当にやっていてもいいセックスにはなってくれないひとたちではあったのだ。相手の自分への身体の向け方を作り直すところからやらないと、噛み合わないなりに噛み合っていこうとするセックスにすらなってはいかなかった。そんな苦労をさせられるということでも、ちゃんと相手を感じて、相手に気持ちを動かされるということが、セックスが充実したものになるためにはとても重要なのがわかるだろう。




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