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大人になってもまだ無知で無恥でいられた幸せがどれほどのものだったか、今の若い人にはわからない

(こちらの記事の続きとなります)

みんながいつでも何でもインターネットで調べるようになってしまったことで、今はどういう振る舞いをするのが正解なのかというのがインターネットを調べればわかるかのような状態になってしまった。

そして、一定以上の割合のひとたちが同じことをすると、そこからは自動的に大多数がそうするようになってしまうものなのだろう。

大多数が同じような価値観で作られた同じようなコンテンツを消費していて、しかもそれがほとんど生活の中の楽しみの全部であるかのようになっていると、それはほとんどルールとかマナーのようにして、それを追っていないと面倒なことになるような存在になってしまう。

今から大人になっていく子供たちはあまりにもみんながみんな正しさに先回られながら育つことになってしまうのだろう。

無知で無恥でいられたら、心はいつでも自分なりの本当のことを何かしら思うことができるはずなのに、すぐに知っていることを思い出して、それで何か思ったことにしてしまうのだろう。

どっちにしろ、歳を取ると、それなりにいろんなことを知っていくし、自分が思うようなことがどんなことなのかは充分にわかってしまって、自分に飽き飽きしてしまうことで、いかにも自分が思いそうなことを思って、それで何か思ったことにしてしまうようになる。

けれど、大人になるまでは、世界にも自分にも無知で無恥でいられることを満喫しておくに越したことはないのだと思う。

けれど、今から育つ子供たちは小さい頃からあまりにもたくさんの情報をスクリーンから受け取りながら育ってしまう。

経験したことを知っていることがはるかに凌駕して、しかも、実際に経験して自分が感じたことよりも、誰かがそれを体験している姿を見ている方が楽しかったりしてしまう。

そうやって育つ子供たちが、俺がそうだったほどに、自分がよくわからないけれどやってみようと思った何かを無邪気にわくわくと楽しめるわけがないのだ。

せめて一人でも多くの子供が、間違ったことでもダサいことでもやりたくなったら一緒にやって、一緒に面白がり合っていられる友達に恵まれるといいなと思う。

正しいっぽいこととか、世間で面白いことになっていることばかり言うひとに取り囲まれて、小さい頃から心が死にかけている状態で、スクリーンに向かって心地よい刺激を得られることを楽しみに生きているひとにならずにすむといいなと思う。

今からの世界で普通に育ったら、子供たちの多くは自然と自分のしたいようにはしない子供や若者になっていくことになる。

多数派集団の一員として生きるかぎり、生活の全面で、自分がどう思うのかという以前に、正解を正解だからとなぞり続けなくてはいけなくなるし、多数派であるかぎり、自分が思うことより、多数派から排除されないために行動を選びながらひとの輪の中で過ごさなくてはいけなくなる。

感情とは別のもので生きるのは嫌だと思うのなら、自分の思いたいことを思って、自分の気持ちの通りの顔をして生きていたいのなら、言いたいことを言いたいように言いながら生きていきたいのなら、多数派集団の外側で友達を見付けるしかないのだ。

近くにいるみんなとも友達っぽくやっているのを楽しめばいいけれど、基本的にそれは自分の人生になってはくれない友達付き合いなのだと思った方がいいのだろう。

ひとは生活の中ではありきたりで表面的なことしか話せなくて、本当にそうだなと確かめられるところまで言葉を連ねていけるような時間や場所はめったになかったりする。

集団として動いている場所ではないところで、一対一でお互いに興味を持てたひとと個別に仲良くなるしかないのだ。

もしくは、何かの仲間としてお互いを面白いやつで、一緒に何かをやりたい相手だと尊重し合っていたりか、そういうお互いの人格への興味でつながっている相手のことを、友達付き合いをしているわけではなくても、特別な仲間だと思って大切にしていくしかない。

他人とお互いの今の気持ちを感じ合って、ちゃんと感じてくれていることにお互いにほっとしながら過ごせる時間というのは、自分の全部と、自分の人生全部をやんわりと肯定してもらえているような、深いところからよかったなと思える時間なのだ。

楽しいことをしても、ドラッグで幸せな気分になっても、よかったなとは思えない。

自分自身がいいやつになって、自分がいいやつだと思える相手と、お互いを感じ合ってお互いの反応を面白がっていられる関係になっていけるといいのだろうと思う。

ただ、そうやって多数派のひとたちと同じように行動しなくてもいいのだと思ってきたから、俺は子供を育てることができないだけじゃなくて、それ以前に結婚もできないままになってしまったというのもあるのだろうなと思う。

世の中の結婚している男の多くが、みんな結婚しているから自分もしたいという気持ちが先にあったから結婚できたという感じなのだろう。

結婚しても結婚しなくてもどちらでもいいとしたときには、そう簡単にこのひととずっと一緒にいたいから結婚しようということは思えないものなのだと思う。

多くのひとは、みんなするからということが強力な理由になっていることで、当たり前のように結婚自体はいい相手がいればするつもりでいるのだと思う。

俺はみんな結婚しているからということに何かを思ったことがなかった。

誰かが誰かと結婚することを羨ましく思ったこともないし、誰かの結婚生活を羨ましく思ったこともなかった。

かといって、自分をみんなと似たようなものだと思っていなくても結婚しているひとはたくさんいるのだし、俺だって結婚することはできたはずだった。

実際そうだったのだろう。

俺の人生は結婚できていてもおかしくない人生だったし、そのうえで結婚できなかったのは、みんなのことが羨ましくなかったからでもなく、みんなと同じようにしたくなかったからでもなく、俺がそうしたいと思えなかったからだった。

それがどうしてだったのかというのを、ここから書いていければなと思う。


(終わり)


「息子君へ」からの抜粋に加筆したものとなります。


息子への手紙形式で、もし一緒に息子と暮らせたのなら、どんなことを一緒に話せたりしたらよかったのだろうと思いながら書いたものです。

(全話リンク)

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