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【連載小説】息子君へ 212 (42 心は終わっていく-8)

 けれど、そういう時代の変化という問題でいえば、三十歳とか、三十五歳くらいで心が止まってくるとして、女のひとたちの晩婚化によって、心が止まりかけている時期から子供が生まれて、小さい頃の子育てが行われる場合が増えたというのは、近年の子供たちの気質の変化の一つの要因になっていたりするのかもしれない。
 親に子育てを手伝ってもらうわけでもなく、育児書を見ながら一人で自分なりに育てるようなスタイルになって、その初めての子育てを、心が止まる前の段階で体験できるのと、心が止まっている状態で体験するのかは、かなりの違いがあるんじゃないかと思う。
 心が止まってきていることで、自然と目の前のことに気持ちを動かされて、何かを思って、そのために何かをしてあげようという気持ちになりにくくなってしまうというのはあるのだ。いちいち何かに大きく気持ちを揺さぶられるのだと疲れてしまうからと、なるべく自分のことだけを感じて、常に自分の機嫌をよくできそうなことに意識を向けようとする習慣だって強まっていたりするかもしれない。そうすると、子供と接する中で、いろんな気持ちになって、いろんなことに気付かされるということも少なくなるのだろうし、自分なりに子育てを頑張っているときに、頑張っている自分のことばかり考えてしまったり、子供をかわいいと思っている自分を楽しもうとしてばかりで子供に接してしまう状態になりやすいのだろう。きっと、同じ知的レベルで若い初産と高齢の初産を比べれば、歳を取っているほどそうなりがちだったりしているのだろうと思う。
 そうでなくても、単純に、心が止まってきている両親の顔の動きや声で人間に慣れていくことで、心の動きの小さい子供に育っていくというのもあるのだろう。そして、そこに高齢な両親の場合は発達障害の傾向を持つ子供が生まれる可能性が高くなるというのも絡んでくるのだろう。晩婚化と発達障害の診断を受ける子供やグレーゾーンで生まれてきている子供が急激に増えていることには関連があるのかもしれないし、そこで親が加齢によって心の動きの素直さを失っていることで、生まれつき低い傾向のあった子供の共感能力が、親との表情や感情の行き来ではポテンシャルの上限まで発達させられなくて、かなり低いままで成長していくというケースもけっこうあるのかもしれない。
 親の年齢だけではなく、母親以外に子育てに参加しているひとの存在とか、兄弟がいるとか、いろんな要素があるのだろうけれど、実質母親がほとんどひとりで育てているようなケースは多いのだろう。そうしたときには、親の心がほとんど止まってしまっていることで、人間と人間が向かい合っていれば、言葉や表情以前に、心と心が勝手にどんどんお互いの気持ちの動きに反応し合っていくという当たり前のはずの現象を当たり前のものだとは思わずに育ってしまうというのはありえることなのだと思う。
 相手に合わせているばかりの上っ面だけの態度を取って、小利口に振る舞いながら、実際にはできるだけ放っておいてほしいとばかり思っていて、自分の好きにできることを好きにしているのを楽しんでいられたらそれでいいという雰囲気の子供が増え続けているのだろうけれど、それは時代が変わったというのが一番大きいとしても、昔の子供たちと比べて、小さいときに人間との接し方を教えてくれた自分の親が、あまり気持ちの動いていない上っ面ばかりの人間だったひとの比率が上がったからというのもあるのかもしれない。そして、その比率がじりじりと上がってきて、そういう親に育てられた子供たちが多数派になってきたことで、そういう子供たちの他人との距離感や気持ちのあらわし方のノリみたいなものが、その世代の他人との接し方の基本形になってきているということだってあるのかもしれないのだ。
 これは書きながらふと頭に浮かんだ単なる思いつきで、全くそんな影響なんてないのかもしれない。それでも、ファストフード店でいろんな家族を眺めている感じとして、どうしたって若い父母と高齢出産の父母とでは、子供に顔を向けて喋っている表情の柔らかさや表情の大きさの平均はだいぶん違う。それが全く何の影響も及ぼさないというわけにはいかないだろう。
 俺は母親が二十九歳のときの子供で、俺の母親は短大で青春時代らしい時間を過ごせたらしいし、三十歳くらいで心の動きが鈍くなってきたところはなくはなかったのだろう。俺がものごころがついたくらいだと、母親はかなり落ち着いていた印象がある。テレビで見る若い母親のような、若さや子供っぽさを自分の母親に感じたことはなかった気がする。俺が生まれてすぐとか、よちよちしているくらいの頃の母親の写真を見たときには、まだ若者っぽい雰囲気を感じたし、三十三歳とか三十四歳とか、それくらいまでにかなり俺の母親の若者っぽさは失われていったという感じだったのだろう。
 ものごころがついて以降の俺を見守ってくれていた母親の顔が、俺を見て次々と自然に表情が動き回るような顔じゃなかったからといって、それで俺が感情が乏しい子供になっていったわけではなかったんだろうとは思う。俺はまともに相手をしてもらったし、言葉とかポーズだけではなく、ちゃんと気持ちで反応を返してもらっていた。
 逆に、心が止まりかけていたことで、母親が俺に対して衝動的に振る舞ってしまうことがなかったことで、子供主体で干渉することのない適度な距離感での親子関係が、あまりにも安定したものとして徹底されてしまったというのはあるのかもしれない。多少は母親から気分任せに振り回されていた方が、嫌なときもあるけれど大好きなお母さんだから嫌なところも含めて好きにならないといけないと思いながら育つことができて、他人と馴れ合いやすい性格になれていたのかもしれない。
 どうしたって、親がまだ若者だったのか、もう若者ではなくなっていたのかで、幼少期の人間への慣れ親しみ方は変わってくるのだろう。単純に、若者からしたときには、若者と老人とでは、似たような中身だったとしても、はるかに若者との方が接していて楽しいし、仲良くもなりやすいだろう。だったら子供だとしてもどうしたってそういうものなのだ。というか、若者でなくなってしまったひとからしても、自分が年寄りだと蔑まれないのなら、接していて楽しいのは若者だったりしてしまうのだ。
 歳を取るとひとと仲良くなりにくくなるものだけれど、それは、自分の心が活発に働かないからというだけではなく、歳を取ることで自分の身近にいるひとたちも高齢化してきて、それによって、自分の話している相手が自分の話に気持ちをほとんど動かされてくれなくなって、そうするとひとと話していても楽しいことが減ってしまうし、仲良くなりたいと思うことも減っていくからというのもあるのだろう。
 社会人になってすぐは大丈夫でも、そのうちだんだんと友達と集まることが楽しくなくなっていくのも、みんなが若者じゃなくなって、一緒にいてもさほど面白くないひとになっていくからなのだろう。そして、面白くないひとになっていくのはお互い様だとしても、その後もずっと、歳を取るほどに鈍感で関わっていてうんざりする人間になっていくのだから、よほどお互いにいい思い出があって自然と優しくなれる相手もでなければ、会いたくなくなっていくのは当然のことなのだろう。
 もちろん、いい歳をした同士では、打ち解け合うことが簡単なことではなくなるというのは、心が止まってしまうからという理由だけでそうなっているのではないのだろう。若い頃に出会った場合は、お互いを自分と似たような何者でもないたいしたことのない存在だと思って接しているというのが大きいのだと思う。けれど、大学生とか、社会人になって、自分と似たような存在というわけでもないひともまわりに増えてきても、まだ若者時代であれば、相手によっては、あっという間に打ち解けられたりもする。それはまだ心が止まっていない状態であれば、ちょっと話すだけで、お互いに相手の心の動きから、相手がどういうひとかわかるし、相手の言うことにすぐに気持ちが動いてしまうから、素直に何かを問い返して、そうしていれば、自分にぴったりくるひととはすぐに親密になっていけるというのはあるのだろう。
 それは友達付き合いだけではなく、恋愛でも全く同じなのだろう。若者でなくなってからの恋愛は、若者の頃の恋愛とは、全く違ったものだったりする。ひとの気持ちを感じているひとたちは、若い頃には、そのひとと一緒にいると自分の気持ちがよくわかるような、自分を自分らしくしてくれるような相手と一緒にいられる時間をいつの間にか過ごせていたというひとがそれなりに多くいるのだろう。いつも話が自然と深まって、お互いが前のめりになって素直な気持ちを伝え合って喋っていられることで、相手の気持ちの動きをまるごと受け取っているからわかってくるようなレベルでお互いへの理解を深めていけてしまうのだ。そういう相手との関係の中で、自分はこういうひとだったのかと気付かされていくのだろうし、信頼が深まって、気持ちをそのまま素直に出せる関係になっていくことで、より自分らしい自分として振る舞えるようになっていけるのだ。
 若者のうちは、そういう恋愛が続くのだろう。けれど、どこかのタイミングで、大切に思ってはいてもうまくいかなかった相手と別れてしまって、また新しい相手との関係をスタートさせたときに、それまで相手に感じていたものの大きさと、それまで相手が理解してくれていたものの深さが、新しい相手とは到達不可能なものに感じられてしまうときがくるのだ。恋愛初期の盛り上がりで一気に親密になれればいいけれど、そうでもないのなら、それなりに仲良くなって、関係が落ち着いてきたときに、落ち着いた状態として、前のひとほどわかりあえていないし、前のひとほど自分にたくさんのことを感じさせてくれない関係で止まってしまったと感じてしまうのだろう。そして、昔のひとたちとの違いを埋めていけるだけのコミュニケーションをこのひとと積み上げていくことが自分には絶対にできないだろうということを、相手を眺めていてもほんの少ししか動かない自分の気持ちに思い知らされることになるのだ。
 誰かと深くわかり合えた経験をしてしまうことで、そのひとのひとと関わるときの要求水準は、自分でも気が付かないうちに変わってしまう。そして、自分はそんなふうに他人と関われるはずだと思わせてくれた相手との間で確かめられた自分らしさは自分にとっての自分らしさであり続けるけれど、それは、深い関わりだった相手しか触れられないような自分らしさになってしまう。
 過去に深い関係になれたひととお互いの自分らしさを伝え合う充実した時間を過ごしたぶんだけ、そのひとは自分らしくなって、自分らしさの詳細に自覚的になっていくけれど、それは同時に、その成長を確かめ合ってきた相手以外からしたときには、気軽にコメントしにくいひとになっていくということでもあるのだ。
 若い頃の恋愛で自分らしくなれる代わりに、そこでうまく関係を永続化させないと、若い頃にいい恋愛をしていたことによって、自分らしくなりすぎた人間になってしまうということなのだろう。その自分らしさにうれしく思ってくれるのは昔の相手だけで、深すぎる自分らしさが多くのひとから自分を遠ざけることになるし、かといって、加齢による心の力の減退によって、新しく打ち解けることは難しくなっている。そうして、お互いの自分らしさを教え合えるような恋愛ができていたはずの自分が、何か思っているようで、何も伝える気にもなれないまま、適当な相槌を打っているばかりの恋愛しかできなくなってしまったことに自分で幻滅することになってしまう。
 そうなったとしても、どこかで諦めるだけのことなのだろう。好きになれないし、このひとと一緒にいる自分を好きになることもできないのだろうとは思いつつ、お互いに親切にすることはできるし、寂しくないふりをするためのいいわけくらいにはなってくれるのだろうとか、それくらいの感情で結婚するひとが、心が止まってしまったあとで結婚したひとの過半数なのだろう。毎週のように恋人と朝までいろんな話をしていた自分が、年に一度だって夢中になって一生懸命話すことがなさそうな相手と一生一緒にいることになるなんてびっくりだなと思いながら、それでも今の自分にとっては、きっとこれで上出来なくらいなんだろうと思って多くのひとが結婚しているのだろう。
 きっと、こんなふうに結婚するしかなかったのなら、そんなにたくさん遊んでいい思いができたわけでもなかったし、大学のときに普通に仲よく喋っていられたようなひとたちの誰かと学生結婚でもしてしまっていた方がよっぽどよかったのかもしれないと思っているひとが、特に女のひとではたくさんいるのだろう。そうすれば、少なくても心底好きで、本当に思っていることを一生懸命に話し合ったりできるひとと暮らしてみることはできたのだ。仕事のキャリアを含め、若いうちに結婚しなかったことで得られたものに、それより素晴らしいと思えるものなんて、仕事に生きるという感じにはなれなかったひとには、何ひとつなかったりしてしまうのだろう。
 そんなふうに、このひとと結婚しようと決めたときですら、結婚したからって心底から好きになれることもなく、本当の本心で話すことも死ぬまでないんだろうなという予感がしていて、それでも結婚してしまう自分に自分で恐ろしくなったりしながら、けれど、もう昔の自分ではなくなった自分にはこれしかないんだと、そのひとと結婚することを選んでいるひとがたくさんいるのだと思う。
 実際そうするしかないのだ。心が止まってしまって、昔のようにひとを好きになれなくなってしまったからって、好きになれる範囲で好きになるしかないのだ。たいして好きになれないんだから誰も好きにならなくていいじゃないかということにはならないし、むしろ、心が止まってしまったからこそ、結婚して子供を作るくらいしか、やれることがなくなってしまっているのだ。
 けれど、むしろ順序が逆なのだろう。典型的なパターンというのは、心が止まってきたことで、自分のことにかまけていてもさほど楽しいわけでもなくなって、自分のことばかりやっていても仕方がないから、ひとの世話できたらいいのになと思って結婚しようと思って、けれど、心が止まってきたからそう思ったのに、心が止まってしまっていることで、あまりいい恋愛ができなくて、このひととずっと一緒にいたいと強く思えるところまで相手を好きになることもできないし、心が止まっているせいで、相手に向けて自分のいいところを相手にわかってもらおうと一生懸命になることもできなくて、自分を好きになってもらうことすらできなくなっていることに愕然とするというのが、心が死んでしまう年代のひとたちの恋愛と結婚によくあるパターンなのだろう。
 ある程度の歳になれば、自分のことを考えていても楽しくなくなってしまう。そのあとには、自分で自分を楽しませるか、ひとの役に立つことをするかしかない。そして、ひとに楽しんでもらったり、喜んでもらったりすることができないから、みんな自分で自分を楽しませてることに甘んじながら、空っぽな気持ちをやりすごしているのだろう。そして、何ができるわけでもない自分なりに、それでもひとの役に立ちたいなら、どうしたって仕事と家庭しかないのだ。
 結婚もしなくていいし、子供も育てなくていいと思っていた女のひとたちが、三十歳を過ぎてから考えを変えて、子供を育てたいし、そのためにも結婚しようとし始めるというのはよくあるパターンなのだろうけれど、それはまるっきりそういうことなのだろう。みんな何も考えていなかったわけではなく、自分の気持ちを感じていて、そのうえで、自分の中に結婚したい気持ちも子供を作りたい気持ちもなかったから、自分でそれがいいと思ってそうしてこなかった場合はとても多いのだろう。そして、三十歳過ぎまでは心が死んでいないから、自分のことをやっていて楽しめるけれど、その頃に心が死んできて、自分が自分であることもつまらなくなってきて、それまで楽しんできた楽しさもくすんだものになってきて、別に今でも結婚したいわけでもないし、子供を育てたいわけでもないけれど、かといって、ひとりで生きていくのは思っていた以上につまらないことなのかもしれないと、心が死にかけてきた自分にとって人生は色を変えつつあることに気が付いて、そこで焦って、自分は結婚するしかなかったひとだったんだと、それなのに何を自分は勘違いしていたんだろうと、愕然としながら、遅ればせながらの婚活を始めるものなのだろう。
 俺だって、結局はひとりでいてもしょうがないということになるのだから、建設的に生きるのなら、せめて誰かの孤独を埋められる役に立ちながら死んでいけるように、一緒にいてくれるひとを探すしかないのだろう。
 きっと、今までのところ、俺はひとりでいてもそれなりに自分らしくいられているのだろう。仕事で残業がさほどなくて体力的に余裕があれば、本を読んだり、映画を見たりしながら、どうなんだろうなと思うことがあったら、それについて何か書いてあるものをインターネットで読んでみたり、それこそ、こんな手紙を長々と書いたりすることもできる。彼女と一緒にいるときも自分らしかったと思うけれど、誰かがいないと自分らしくいられないとも感じてこなかった。
 他人がいないと、まともに気持ちも動かないし、やる気も出ないし、いいこともしてあげられないひとからすれば、自分をいい自分だと思うためには、誰かのいいひととして、そのひとに日々いいことをしてあげることが必要だったりするのだろう。俺はぎりぎりそういうわけでもないひととしてやってこれた。けれど、いつまでそんな自分でいられるのかわからない。というより、そもそも俺は、ずっと昔から、あれこれ本を読んだり映画を見たりすることに時間を使いたいなんて思っていなくて、子供を育てて、いいお父さんをしてあげたいと思っていたのだ。むしろ、他人の世話をして、他人に気持ちを動かしてもらって、いいお父さんであることで自分をいい人間だと思っていられるような生活こそ、俺がずっとしたかったことなのだ。
 自分のことがどうでもよくなったから、自分以外のもので生きようと、子供を育てるために結婚するひとたちと、俺が子供を育てたいと思っていることには大差はないのだろう。俺だって自分のことがどうでもよくて、それよりは、誰かに何かをしてあげるということを丁寧にやり続けるという暮らしをできるといいなと思ってきたのだ。

 俺の心がほとんど止まってしまっていて、何をするにもやる気がでないのなら、子供のことだってどうでもいいんじゃないかと思うのかもしれない。
 確かに、子供が生まれたからって、子供に興味を持てないままになる男というのはたくさんいるのだろう。やる気がないのなら、子供がいたとしても、子供といい時間を過ごすことだってできないと思うのかもしれない。
 けれど、子供というのはもっと特別なものなのだろうと思う。子供との関わりは身体と身体の関わりになる。子供は腕の中で泣いたり笑ったりしてくれるし、ずっと手を握ってきてくれて、抱きついてきてくれる。そうしてもらえれば、身体から身体へと、子供の中のはっきりとした感情が伝わってきて、止まっている心も少しは動かしてもらえる。
 これも大事なことで、だから俺は人間とはそのひとの肉体なのだと繰り返してきたのだけれど、心がほとんど止まってしまっても、肉体が自動的に感じ取って、肉体が自動的に反応してしまうものは止まってしまうわけではない。何かを思っても、その思いが自分にとって力を持たなくなるだけで、歳を取っても、身体が感じたものは心をそれなりに揺さぶってくれる。
 だからこそ、親にとっても、祖父母にとっても、生まれてきた子供との関わりは特別なものになるのだろう。現実には多くの男が子供のことをどうでもよく思いながら生きているけれど、それだって、自分の腕の中で子供に楽しそうしてもらってきた時間がなさすぎたからそうなっているのだろう。子供を抱きながら、子供が喜んでくれたことに自分の身体が強い喜びを受け取るということを繰り返していれば、自分がその小さな命から求められていることを実感できて、その子供に何かを与えられることが喜びになるはずだろうと思う。
 人間は肉体だというのはそういうことなんだ。気持ちだけでは、心が止まってしまったあと、誰ともつながれなくなってしまう。身体と身体で関わって、喜びを交換することができるから、役割を分担してもらったことに感謝する対象という以上に、相手を一緒にいてうれしい存在だと思っていられるのだ。
 そして、単純に子供は心が止まっていないというのもある。子供と一緒に過ごすというのは、自分が本当に何を思っているのかもわからなくて、それを確かめるように、いつも一生懸命自分の気持ちを確かめようとしている存在と一緒にいられるということなのだ。その子供が、どんどん自分らしくなっていくところを身体と身体で触れ合いながら見守っていられるのは、もう心がほとんど動かなくなったひとにとっては特別な時間になる。自分の心がほとんど止まってしまっていても、本当の気持ちで生きていて、そういう気持ちで何かを話しかけてくれるひとがそばにいる生活を送れるのなら、その姿にいろんなことを思っていられる。薄い関係の友達付き合いのいくつかを不定期に繰り返して暇をつぶしているよりも、はるかにいろんな新しいことに気付かされながら、子供に向ける感情によって、自分が自分であることにしっくりこれる毎日が過ごせるのだと思う。
 自分が若者でなくなる頃には、友達も若者ではないひとばかりになってしまう。そうなったあとには、ほとんどの場合、もう自分の子供しか、心が止まっていないひとが自分に向かっていろんなことに本気で楽しそうにしてくれたりすることはありえなくなってしまう。
 自分と同じように心が止まっているひとには、何かを思ってそれを話そうとしても、まともに聞いてもらえそうな気がしないから、腰が引けた感じでしか話せないし、話し始めても、相手の反応の弱さに、自分が思ったことの話になっていく前に自分から話を終わらせていくばかりになる。それでも、当たり障りのない範囲で楽しく喋っていることはできるのだろう。けれど、話していて何かを思ったとしても、どうせそのまま伝えられないからと、そう思っている気持ちのままの顔を相手には向けられないし、相手だって同じで、思っているままの顔で話しかけてくれている瞬間なんてめったになくて、お互いに自分が思っていることとは違う顔をし続けたままでその場が流れ去っていくことになる。
 けれど、子供だけは違うのだ。子供に対しては、子供の問いかけに思ったことをそのまま返してあげれば、それを面白がってもらえる。虐待とか過干渉しなければ、子供は今の本当の気持ちで接してくれる。だから気持ちを動かしてもらえるのだし、自分も今の本当の気持ちで接してあげられる。子供に対しては、自分の気持ちのままの顔を向けていられて、だから子供を産んで女のひとはきれいになるし、表情がよくなるのだ。
 人間は肉体で、肉体と肉体で感じ合うことができるということが、心が動かなくなってしまう大人たちを、なんとか愛情で誰かと結びつけてくれているんだ。それはもちろん子供との触れ合いだけで起こることではないのだろうし、子供が親を世界そのもののように思って全力で語りかけてくれるのはほんの数年だけなのだろう。何人も子供を育てるわけではなかったひとからすれば、それが人生で一番の経験だったとしても、人生のほんの一期間でしかなかったりするのだろう。そして、人生全体を通して、心が止まってきたとしても、いつでも強制的に自分をどきどきさせてしまうものとして、恋愛とセックスがあるのだろう。
 腕の中の自分の赤ちゃんが全力で自分に笑いかけてくれればうれしい気持ちになるし、腕の中でこっちを見てうれしそうにして興奮してくれているひとがいれば興奮できる。心がほとんど止まってしまっても、身体は相手の身体にそんなふうに反応してくれる。
 だから俺は、人間とは本人が自分の頭で思っているものではなく、自分の肉体であり、自分の影響力なんだということを書いてきたし、セックスのことと、セックスによって発生して、セックスによって形成されたもののことをいろいろ書いてきたんだ。
 心が止まって、他人と競争したい気持ちもないもなくて子供もいない俺には、もうセックスしかないんだ。そして、もう若者ではなくなってしまって、もうセックスしかなくなってしまった男女が、セックスしたからお互いを好きになれたみたいなセックスで君は生まれてきた。それがどういうことなのかということについても、君はいろいろ思うべきことを思っておけるといいんじゃないかと思う。




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