見出し画像

【連載小説】息子君へ 210 (42 心は終わっていく-6)

 みんなそのうちに、心があまり動かなくなった自分に飽きてしまう。自分のことを自分にとってすらたいして面白くもないと思うようになっていく。まだまわりからは若者と見られているうちに、そんなふうになってしまうのだ。
 自分という役回りをこなしているだけでそれなりに精一杯で、なんとかやっていけるようになってこれたことにはよかったと思っているけれど、今となっては、自分はだいたいこんな程度なんだなと思ってしまっているし、まわりからもそんなふうに思われて、こんなものだと思われている自分をこなしているだけの毎日になっていく。たいしたことのできないひととして、たいしたことじゃないことをすることを求められていて、それしかするしかないからと、たいしたことないようにしかならないやり方で、たいしたことがないことをして、つまらないなと思いながら、そう思っていてもみじめだから、うまくやれているならそれでいいんだとか、楽しくやれているんだからこれでいいんだとばかり思うようになって、だんだん自分の気持ちを自分で感じる時間が生活から消えていく。多くの大人にとって、社会の中で生きるというのは、けっこう早い段階からそういうものになってしまう。
 人生とは、統計的に見れば、既定路線としてそういうものなのだ。そうなったあとは、ひとの世話をするか、楽しいことを楽しむしかない。そして、ひとの世話をするにしても、ひとの役に立って、ひとを喜ばせられるほどのことができないと、喜びで他人とつながることはできない。君の肉体が相手の肉体に喜びを発生させられないのなら、何をしてあげたって、相手からは役割を果たしたことを感謝してもらえるだけで、君は自己満足しかしていられないことにだんだんと虚しくなっていくしかないのだ。
 そういう意味では、若い頃から何かのファンになって、面白いコンテンツをひたすら消費することで楽しくなろうとしてばかりいたり、言うと楽しくなれそうなことを友達と言い合っているだけで満足しているようなひとたちというのは、どうせこの先社会に出ても、さほどひとの役に立てないし、さほどひとを喜ばせることもできないだろう自分の人生に早くから適応しておこうとして、そんなふうに生きること全体を消費者としてより簡単に気持ちよくなれるように最適化させておこうとしているのかもしれない。
 現実的にそれが一番時間の無駄もなくてコストパフォーマンスがよかったという結果になるひとたちというのは、確かに少なからずいるのだろう。だからといって、若いうちからそんなことでいいんだろうかと思う。他人を喜ばせることで自分が自分であることを楽しむのを諦めて、自分の肉体の魅力のなさや、自分の人格の魅力のなさに卑屈になって、自己満足に閉じこもって生きていこうとしているということなのだ。自分らしさを満喫できるはずの自分の肉体と心を生きることを楽しむべき時代をすっ飛ばして、いきなり老人のような、自分が自分であることでは楽しめなくなってしまったひとたちが自分を慰めるようにして人生を楽しむところからスタートしたとして、それはどんな人生を生きたことになるんだろうかと思う。
 老人の場合は、誰も自分のやることに喜びたいと思ってくれているひとがいないし、自分も誰かを喜ばせたい気持ちがそこまであるわけじゃないから仕方がないけれど、これから大人になるひとたちも、幼児期が終わってしまったあとは、もう家族も自分のやることをたいして喜んでくれないし、友達はいても、さほどいい感情を自分に向けてくれるわけでもないからと、自分の魅力のなさに絶望してしまうということなのだろうか。
 近くにいて、受け入れ合って、優しくし合っていれば、それなりにお互いにいい感情を持てるようになっていけるものだろう。けれど、そういうひとたちは、ひとの近くにいてリラックスすることもできず、他人の感情を受け入れるだけの心の余裕もなく、独りよがりではない優しさを相手に伝えられるような献身性もなかったりするのかもしれない。
 確かに、自分のことしか感じていなくて、ひとの気持ちをまともに感じていないのなら、君のお母さんのように他人に親切にしたかったり、いいひとだと思われたいという気持ちが強ければなんとかそれなりにやっていけるのだろうけれど、そういうわけでもなければ、結婚しようが子供ができようが、ひとといい気分で一緒に過ごしたというより、一生ずっと頭の中でできるだけ自己満足できるようにごちゃごちゃと考えていたばかりだったなと思うような人生を送るしかなかったりするのだろう。だったら、ポルノ女優でも、アイドルでも、好きなアニメのキャラでも、自分を興奮させてくれてくれるものになるべくたくさん興奮して、なるべくたくさんありがたい気持ちになりながら過ごせているのが、マシな人生に思えるのかもしれないし、そうなのであれば、そうやって消費者としての人生に自分を最適化させていけばいいのだろう。
 快適な環境でできるだけ面倒なことはしないでおいて、不快なことを他人から言われないで生活できて、あとは、楽しいことをして、気持ちいいことをして、気分よく生きていられたらそれでいいのなら、それでいいんだろう。みんなから排除されないように、こういうときにはこういうふうに言っておくみたいなことだけを喋って生きていれば、みんなと一緒に自動的に気分よく生きていけるのだろう。嫌な友達が多かったり、嫌な会社に入ってしまったり、パートナーと合わなかったり、そういう不運な状況から抜け出せなくなっているわけでもなかったなら、それで何の問題もないのだろう。
 もちろん、そんなふうに思ってもいないことばかり話して生きていたって、生きていればいろいろ思うこともあるのだろう。トラブルも行き違いもあるだろうし、抱えきれない気持ちでいっぱいになることもあるのだろう。けれど、自分の気持ちを生きている度合いが低いのなら、うまくいかないことがあって悲しかったりしても、その悲しみと自分の人格や自分の人生との結びつきにいろんなことを思ったりもしないのだろう。漫画を読んだりドラマを見たりして、自分もそういう気持ちだったなと思ったり、友達と笑い話にしながら盛り上がったりできたなら、それ以上はもやもやし続けたりしないのかもしれない。ひとには言えないような暗い気持ちになったとしても、インターネットを検索すれば、いくらでも自分と同じような、思ってもしょうがないことを思っているひとの言葉が見付かるのだ。ひとしきりあれこれ検索するだけで、やっぱりそう感じるものなんだなと思ってほっとできるのだろう。そして、そんなふうに何かを思った一分後にはほっとできてしまうせいで、もうそれ以上にはひとりで自分の気持ちをじっくりと感じてみようとしたり、それを自分なりに言葉にしようとしたりはしないままになるのだろうし、むしろ、何かしらに自分もそうなのだと思えたことで、自分なりに何か思ったつもりになってしまって、あとは不快な感情がだんだんとうやむやになっていくのを待っているだけになるのだろう。
 自分の心を生きてこなかったひとは、何かをまともに悩んだり、自分は本当はどうしたかったのかを考えることもできないのだ。私はそういうつもりじゃなかった、私はあのときあんなに辛かったのに、全然理解しようとしてくれなかった、伝えたいと思っていたのにあんな態度を取られたことでその気持ちもずたずたになってしまった、私は自分にできることはしていたのにとか、だいたいそんな感じの、自分の頭の中のいいわけめいた自分勝手な思いを弄ぶようにしただけのことを考えて終わりにしてしまうのだろう。
 自分の心が何を思っているのかということを、確かに自分はそう思っているんだろうと自分で納得できるくらいに実感が伴う言葉にしてとらえるというのは、それを日常的にやってきたひとでないと、そう簡単にやれることではなかったりするのだろう。多くのひとは、大人になっても、老人になっても、自分の気持ちを自分なりに言葉にしようとするたびに、あまりにも陳腐な言葉しか出てこなくて自分でびっくりしていたりするのかもしれない。
 こういうときは普通こう言うものだという言い方をなぞるのと、自分の心にしっくりくる言葉で気持ちを伝えるのとは全然違うことなのだ。俺の場合は、付き合っていたひとたちと、毎晩のように長々と喋っていたのが大きかったのだと思う。相手が自分の気持ちを感じようという態勢でいてくれるから、自分も自分の気持ちを感じることに集中しながら喋れたし、そういう状態になって、わかってもらえるようにと繰り返し一生懸命言葉にしようとしてきたから、それなりに自分の気持ちにしっくりくる言葉を思い浮かべられるようになっていけた。そして、自分の気持ちにしっくりくる伝え方ができるほど相手にもよく伝わるし、それが楽しいから、うまく伝わる言い方で話したいというモチベーションがいつもある状態になって、そうすると、うまく喋れなかったことにはうまく喋れなかった感覚が残って、そのあとで本を読んだり映画を見たときに、こういうことだったのかもしれないと自分のこと振り返ったりすることもちょくちょくでてきて、またそういうことを話すときに、そうやって学んだ表現も使って語ろうとしたりもして、そうやってだんだんと自分の思っていることを自分でしっくりくる言葉で伝えることに自分なりにこなれていけたのだろう。
 きっと昔から、自分の気持ちを自分なりの言葉で伝えようとするひとは少数派ではあったのだろう。けれど、今の若いひとたちは、小さいときから、ぱっと見てぱっとわかるようなものばかりを大量にコンテンツ消費しているし、自分なりの言葉で喋ろうとする感覚なんてなくて、最初からそれっぽい言い方を当てはめることが自分の気持ちを表現することだと思っているひとが圧倒的多数になっているのだろう。
 俺が会社で関わる若者なんかでも、その状況にあったそれっぽい受け答えを当てはめただけの、自分がどういう態度なのかということすら伝わらない喋り方をしていることに自覚すらなさそうなひとがたくさんいて、喋ろうとしてもうまく喋れなかった経験をたくさん我慢して積み上げてくることなく大人になってしまったのだろうけれど、だとしても、その自覚もないというのはどうなんだろうなと思ってきた。
 けれど、そういうひとたちからすれば、みんながそうなのだからそれで何の問題もないのだろう。同じくらいのレベルでしか自分の気持ちを感じていない友達と、気持ちを触れ合わせるというわけでもなく、自分たちに起こるようなことや、それに対して自分たちが思うようなことは、どれほど世間のあるある話として言い尽くされていることなのか確認するような話をするなら、そうだよねと同意し合うことを言っているだけで満足できるのだろう。なんとなく感傷的になってしまったって、そういう自分のことばかり考えているひとが感情移入しやすいような主人公の漫画を読んだり、ドラマを見たりして感傷に浸ることができる。それによって新たなあるあるネタを頭の中に蓄積させられるのだし、また友達と話しているときには、すぐに相手の言っていることをあるあるネタに結びつけて、そうだよねと同意できて、なんとなくうれしくなったりできるのだろう。
 もしかすると、君が成人するくらいには、もうそういう文明の成れの果てとして、完全に正解なライフスタイルができあがっているのかもしれない。ドラッグで脳を快適にキープした上で、ゲーミフィケーションで調整された何もかもで、それをしていること自体がなんとなく気持ちがよくて楽しいような気持ちになりながら、みんな思い思いの楽しいことをして過ごしていればいいということになっていてもおかしくないのだろう。
 君が育っていく頃には、何も思わなくていい社会が実現してしまっているのかもしれないのだ。自動的に楽しめるように作られた楽しみを自動的に楽しめる脳と肉体があれば、人格は特に何の役にも立たないものになるような社会は可能なのだ。もしかすると、社会がそうなるのはそんなに遠い未来のことじゃないと見越して、みんな赤ちゃんの前にタブレットを差し出しているのかもしれない。現実なんて感じる必要はないというのは、もしかしたら、君の世代にとっては正しいのかもしれない。

 君には、心が止まってしまうまでに、本当の人生を存分に楽しんでもらいたいけれど、君が育つ時代にはそれすら難しかったりするのだろう。だからこそ、俺は君にゆっくりできるようになってほしいと思って、こんなふうにいろんな語り方で自分の心を生きなくてはいけないと繰り返しているんだ。
 俺は君が自分のまわりにいる多くのひとを目の前にいる相手の気持ちもまともに感じていないひとだと軽蔑しながら、少数のしっくりくる相手との時間に生きがいを依存した、友達の少ない、どこかしら疎外感につきまとわれた人生を生きればいいと思っている。そうしないと、簡単に手に入れられる自動的な楽しみを楽しんでいるくらいしかできることがなくなって、スクリーンの中のすごいひとたちからしか、人間が生きていることの何かを感じることがなくなってしまうんじゃないかと思う。
 心が死ぬ前に心がないみたいな人間になってしまうのはもったいないことなんだ。君は君の君らしさをいろんなひとに喜んでもらえるはずで、喜んでもらえるひとの場合、喜んでもらおうとしないのは本当にもったいなさすぎることなんだ。
 喜んでもらえることがどれくらいすごいことなのかというのも、俺はこの手紙のようなもので繰り返し書いてきた。君のお母さんは俺と不倫関係になれて、とてもうれしい時間を過ごすことができた。それはセックスフレンドができて何度かいい感じのセックスができてうれしかったという程度のものではなくて、俺にセックスでかわいがってもらったことで、君のお母さんの人生は一気に変わってしまった。君のお母さんにとっては特別魅力があった俺の肉体で、俺の影響力でもって、俺の感情を注ぎ込むようにして、君のお母さんに喜んでもらえるようなことをしてあげたときに、それは君のお母さんをあまりにもうれしい気持ちにさせたし、それによって君のお母さんにとっての自分が自分であることの価値は変わってしまったし、毎日生きていてどんな気分なのかということすら一気に変わってしまったのだ。君のお母さんをそんなふうに喜ばせられたことに、俺がどれだけ深く満たされた気持ちになっていたのかわかるだろうか。
 誰かにとって、自分の姿や声や態度や触れ方や抱き方やキスの仕方が、うれしすぎて顔がうれしいまま固まって、そのまま何も言えなくなってしまうくらいに心地よいものになっているのを感じたときに、相手の喜びがリアルタイムに伝わってきている肉体にどれほどの喜びが発生するのかということなんだ。しかもそれは、相手が寂しい時期に誰でもいいからとむしゃぶりついているわけではなかったのだし、こっちがその場限りでとってつけた優しさや格好つけに喜んでくれているわけでもなかったのだ。君のお母さんにとって俺は、何年もその男がいろいろしている姿を見ていて、ずっといいなと思っていて、抱かれてみてやっぱり抱いてもらってよかったと泣きたくなるほどの男だったのだ。それはとてもうれしいことで、君もそんな喜んでもらい方をしてもらえる男にならないともったいないんだ。
 君だって、セックスを素晴らしいものだと思い続けて、自分のセックスを喜んでもらいたいという気持ちだけでセックスすることで、どれだけ見詰め合っいても、本当に揺るぎなくいい感情で見詰めてくれていると思えて胸がいっぱいになって、抱き合えば抱き合うほど好きになってしまうようなセックスをしてあげられるようにならないといけない。自分がいいひとだなと思っている女のひとが腕の中でどんどん幸せになっていくのは最高の気分なんだ。
 セックスしてガス抜きさせてあげるだけなら、心が死んでいても勃起はするのだし、誰でもしてあげられるのだろう。けれど、君のお母さんは三十五年以上生きてきて、俺で初めて全力ででれでれしながらセックスできたんだ。
 君のお母さんみたいに頭の中で生きていると、いい歳をしてそんなことになってしまう。そして、そんなお母さんですら、俺は初めての感情でいっぱいにさせてあげられた。それはたまたまじゃないし、俺は十年前でも同じことができたのだと思う。むしろ、自然としっくりこないひとともいい感じにやろうとすることや、自分の思うように振る舞うことが苦手なひとにリラックスしてもらおうとすることに慣れていたから、歳を取って心が止まっても、まだセックスでならそれくらいのことはできたということなのだ。君も心が止まるまでに、ひとに喜んでもらえることができるようになっておかないと、心が止まったあと、セックスですら自己満足としてしか楽しめなくなってしまうんだ。
 そのためにも、世の中の大半のひとたちは心が止まっているし、若いひとたちですら自分からまともに何も感じないようにしているということを君はよくわかっておかないといけない。みんなと同じようにしていてはダメで、ちゃんと心で他人に反応して、他人の心を動かしてあげられるひとにならないといけない。
 君はそうできるひととしての本当の人生を満喫しないといけない。ちゃんと満喫していれば、その心が止まってしまったあとも、誰かをうれしくさせられることをしてあげることくらいはできる。そうやって生きてきた身体で、残りも生きていける。君はそういうつもりで生きていくべきなんだ。




次回

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?