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【連載小説】息子君へ 209 (42 心は終わっていく-5)

 人生はいつの間にか始まって、自分は自分だと思うようになるまでは猿と大差なくて、自分の行きたいところに行けるようになって、したいことをし始めることで、自分とはどんな人間なのか気付かされることになって、そこからやっとだんだん自分らしくなっていけるようになる。そして、そこからほんの十年とか、その惰性でもう数年とか、せいぜいそれくらいのあっという間に、人生の中で自分が人生そのものだと思っていたものは終わってしまうのだ。
 人生がそういうものだとして、君はどんなふうに生きるのがいいんだろうね。この手紙は、それを考えてもらえるようにと思って書いているんだ。
 俺は君が自分の気持ちを自分で確かめながら、本当にそうだなと思うことをたくさんしながら生きていってくれたらそれでいい。そのためには、ちゃんと目の前のことを感じて、ちゃんと感じたものに自分の気持ちを動かされていればよくて、そうできているのなら、あとはただ君がそう思ったことをやろうとし続けているだけでいい。君はうまいことやるために生きるんじゃなくて、君の気持ちがそう動いたように生きればいいんだ。
 生まれてきて、人生は生きていること自体が楽しい状態からスタートする。子供時代というのは、いい予感に包まれているものだろう。世界の何もかもを知らないし、明日自分が何をするのかも知らないでいられるのは、とても心地よいことなのだ。自分が今から何をするのかすらわからないで、何をして遊んだら楽しいだろうかと考えているのは、自分に自分でわくわくできているような状態だったりする。
 もちろん、親がひどいと生まれてすぐからひどい目に合い続けるのだろうし、知覚が過敏すぎるひとなんかは、いろんなことがあまりにも強烈に感じられて、ちょっとしたことに不安になりながら生きるのだろう。それでも、自分が好きなものを好きにできているときの心地よさは、全ての子供が感じていることなのだろう。
 何かを経験するたびに心が何かを思うし、それが新しいことだったなら、そんなふうに思ったこと自体に喜びがある。そういう意味では、無知でいられることは祝福なのだ。そして、それは無知を楽しんでいられる間、ずっと続く。逆に言えば、無知な子供としての幸せな日々は、無知でいさせてくれない世界や隣人たちによって奪われてしまうものなのだ。
 ある程度の歳になって、気持ちが動かなくなるのだって、そういうところの影響も大きいのだろう。歳を取って多少なりともいろいろ経験して、自分の生活している環境で自分が思うようなことはあらかた考えてしまって、自分が感じるようなことをあらかた感じてしまったことで、自分はこれからどんなことができるだろうと楽しみにしている感覚がなくなって、何をするにもあまり楽しみに感じられなくなるというのもあるのだろう。
 俺は知的好奇心が低くかったし、いろんなことを知っていくほど頭の中で知ったこと同士がつながっていくことに、世界はすごいなと思って興奮するというのを飽きずにやり続けていられるような脳では生まれてこなかった。俺の場合、自分が無知で、無知であることを当たり前に思っていて、無知で無力な人間なりに何かをするのが当たり前だと思っていたから、それなりに楽しく生きてこれたのだろうと思う。そんなふうに思っていたから、自分史上ではなかなかいい出来だったり、自分史上一番冴えているとか、そんなふうにいい気になりながら自分のやっていることを自分で楽しんでこれたのだ。
 自分がやろうとしていることとか、自分が考えていることについて、それをすごくできるひとたちがやっていることにいろいろ触れて、どんなことが可能なのか知っていかずに、何も知らないなりの自分でやっていたから、自分を他人と比べることもなく、自分で思っていたよりもよくできたと無邪気に楽しんでいられたのだ。そういう自分の無知さに楽しませてもらって、充実させてもらうというのが、自分の学生時代からサラリーマン時代をそれなりにやる気のあるひととして楽しくやっていけた大きな原動力ですらあったのだろう。そんなふうに知らないからこその楽しみを食い散らかしていただけだったから、いくつになっても何ができるわけでもないままだったというのはあったのかもしれないけれど、多少頑張ったところで自分がさほど何かができるひとになれた気もしないし、そういう意味では、できるひとと自分を比べないで、自分なりの成長を楽しむような、都合のいい視野の狭さを生きられたのは、自分にとってはいいことだったのだろうなと思う。
 とはいえ、君はそんなふうには生きられないのだ。俺のように自分に何ができるだろうかと楽しみな気持ちを当たり前に持ち続けながら、思春期以降の十数年を過ごせるなんてことは君にはありえない。
 もちろん、俺の時代だって、子供時代にそこまで他人を気にせずに、自分の思いたいことばかりを思って毎日を過ごしていたひとばかりではなかったのだろう。けれど、今の子供たちは、むしろ大半が無知で無恥な自分を満喫することなく子供時代や若者時代を過ごしているのだと思う。
 今から育つひとは、若いうちから自分の頭に思い浮かぶことの凡庸さにうんざりして、自分がわざわざ何か思わなくても、事前に知っていた感想を確かにそうだったなと思ってすましてしまうひとが多くなるのだろうなと思う。自分にとっての自分の面白さを飽きるまで楽しむ以前に、自分らしさを意識し始める年代で、すでにみんなにとって自分がありきたりだと思い知らされていて、自分を面白がることを先に奪われてしまっている場合が大半だったりするのだと思う。
 君の世代だと、青春時代が始まって、だんだん自分のしたいことを自分で選べるようになって、そこで損得や快不快よりも欲しいものがたまたま見付かるまでは、子供の頃からずっと心が半分死んでいるというのが普通のことになっているのかもしれない。
 もちろん、生きていればそれだけで寂しさも不安も悲しみも楽しさもあるのだろう。けれど、そういう動物的な感情が快不快に応じて動いている他には、他人から内面性をほとんど感じ取ろうとしないし、自分のことを自分の心だとは思っていないようなひとの方が思春期くらいまでは多数派になってしまったりするんじゃないかと思う。
 これを読んでいる君だって、もうすでに人生がどんなものだかわかってしまっているような気分になっているのだろう。インターネットでいろんなひとたちが発信したリアルっぽいあれこれにあまりにもたくさん触れすぎてしまっているし、いろんなひとが世の中がどんな程度のものであるのかわかったような顔でわかったようなことを言っているのを聞きすぎてしまっているのだろう。そして、実際世の中はそうやって見たり聞いたりしていたのと大差ないものにしか見えていないのだろう。
 きっと君たちの頃は、若いはずなのに、生き方に迷うことすら難しくなっているのだろう。インターネットにアクセスすれば、どういうひとが認められて称賛されているのか丸わかりになっているように感じて、何についてもインターネット上の評判を丸呑みにしてしまうのだろう。そして、みんながぱっと飛びつきやすいものがいいものであるかのようになっている現実を前に、それ以外の現実を知らない君は、誰がそう思ったからそうなっているわけでもなく、人間はそういうものであるというだけの殺伐とした現象を、そのまま殺伐とした価値観として内面化していってしまうのだろう。
 俺が育ったような、大人の書いたものしか読めなかったし、大人が作ったテレビや映画をほんのちょっとしか見られなかった時代とは、子供として生きて日々思うことが全く違うのだろう。君はもう小学生の頃から、自分たちのリアルを知ってしまう。自分の身の回りの友達のリアルだけではなく、自分と似たようなひとたちの中の一番楽しそうにしているひとたちのリアルとか、世界中の自分たちのリアルも勝手に目に入ってきてしまうのだろう。
 世界には楽しそうなものがいろいろあるとして、それがどんな程度か、天井が見えているような気持ちになるだろうし、底辺にいるひとたちの屈辱にまみれながら少しでもいい思いをしようと媚びればいいのならいつでも媚びようとしているような醜悪な姿も視界に入り続けるし、自分がそういうひとたちとどれくらい差があるのかと怖くなったりもし続けるのだろう。
 そうじゃないんだよということを、俺が君のお父さんになれるのなら、教え続けてあげられたのかなと思うけれど、そうじゃないんだと教えられたって、どうにもならなかったのかもしれない。どっちにしろ、インターネットがあったらもうその時点で無知なまま生きることはできないのだろう。
 自分の手に持ったスクリーンに自分を楽しませてくれるものをいつでもすぐに表示できるようになって、世界は変わってしまった。ずっとテレビを見て、ずっとテレビの話をひととしたがるような気味の悪いひとは昔からたくさんいたのだろうけれど、みんながそういうひとたちと似た感じになってきているのだろう。
 自分が何をしたら楽しくなれるだろうかと考える前に、何をしたら楽しいという情報を与えられることで考えることを止められて、このひとと何をしたら楽しいだろうかと考える前に、楽しいことをなぞったことをしようとする友達に先回られて考えることを止められるのだ。そうやって、楽しいことというのは楽しいものを楽しむことだと思っているような子供になっていくのだろうし、人付き合いに疲れたあとは、ひとりになってスクリーンを見つめて時間を過ごして、楽しくなりたい気持ちをスクリーンの前だけで発揮しているような、単なる消費者でしかないような子供になっていくのだろう。
 それだけではなく、過干渉な親とか自分勝手なことしかしてこない親に付き合わされてばかりいることで、感情を遮断してひとに接する習慣を付けてしまう子供だって、これからも減っていかないのだろうし、親も社会もみんな今まで以上にマナーにうるさくなって、マナーにうるさいひとたちがあまりにも面倒だから、正解がわかっている場合は当たり前のように最初から正解をなぞりにいくような子供が多数派になっていくのだろう。そうなってしまえば、どういう状況であれ、自分がしたいことをしようとするより、みんながそれを楽しいと思っているものをやろうとした方がどうしたって無難だということになってしまうのだ。
 親と世間による過干渉と情報の与え過ぎによって、子供が無知で無恥な自分なりに自分が楽しくなれそうなことをする機会が奪われていくという方向性は止まらないのだろう。そして、子供から子供であることの楽しさの源泉となるものを奪ってしまっているから、子供はコンテンツ消費で楽しむことでしか楽しい生活を送れなくなって、親としても他にどうしようもないから、延々とゲームをやらせて、延々とインターネットを見させて子供の機嫌を取りながら育てていくことになるのだろう。
 子供たちの側だって、ほとんど無意識にそれをわかったうえで、そんな自分に甘んじる感じになるのだろう。自分にとって自分の感じ方が楽しいというのは、一握りのうまくいった人生を送れているひとだけがそんなふうに思えることで、どうせ自分は自分にとって面白い存在ではありえないし、だったら最初から無駄にがっかりしないように、自分で楽しむのではなく、楽しいことをできるだけやればいいことにしておこうとするようになるのかもしれない。
 無知でいられず、無恥でもいられないのだから仕方ないのだろう。何もかも体験する前に動画で世の中にどういう楽しいことがあるのか見せられて、何がイケていて何がダサいのかも、自分が何かする前に全部教えられたうえでしか生きられないのだ。
 かわいそうになと思う。俺が過ごした子供時代や学生時代は全くそんなふうじゃなかった。何も知らなかったし、それを恥じてもいない仲間で集まって、当てずっぽうに何かをやって、たいして何も思っていないおかげで、いつも思っていた以上に楽しいことばかりが起こっていたけれど、そういう時間は本当にいいものだった。自分を楽しめばいいし、ひとりひとりの違いを楽しんで、何もなぞらず、思いついたものの続きを思い浮かべて、それをやって、たいしたことができたわけでないことにも気が付かないまま、けっこういい感じにできたなと、自分が自分なりにうまくやれた手応えに満足していられた。
 用意された楽しみを消費していくのではなく、自分の感じ方を楽しんで生きていられるのが大事だと、この手紙のようなものの中で何度も繰り返したけれど、本当にそれは大事なことなんだよ。けれど、君が生きる時代は、君がそんなふうに自分の人生を楽しむのを邪魔してくる。それをうまくすり抜けて、君がいつか自分の好きなひとたちと好きなことをしていられるひとになれるようにと思って、この手紙のようなものを書いているんだ。
 親や友達に恵まれれば、今の時代に育ったって、自分がみんなと何をすれば楽しいのかとわくわくしながら考えて、みんなといろんなことをして、みんなにいろんな反応を返してもらって、そのたびに何かしらに驚かされながら、もっと楽しいことをしようとあれこれ考えて明日を楽しみにしているような子供時代を送ることができるのだろう。君がそんなふうに育っていけるといいなと思う。そのために、君のお母さんが俺からしたときにどれほど自然と気持ちが行き来しない相手だったのかということや、当たり前のように自分を多数派だと思っているようなひととは特別な友達になれないつもりで適当に楽しくやっていればいいというようなことを書いてきたんだ。
 そして、君が楽しければいいとしか思っていなくて、すぐにいい気分になれる刺激を欲しがって、あとはいろいろ面倒くさがりながら、うまいことやれるならうまいことやっておきたいというくらいのことしか思っていない子供にならずにすんだとして、そうすれば、君は無知で無恥でいることの楽しさも含めて、何をやっていても勝手に充実するというのがしばらく続くけれど、かといって、それはずっとは続かないということをわかっていてほしいということなんだ。




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