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【連載小説】息子君へ 215 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-3)

 俺はセックスを素晴らしいものだと思っていて、セックスを軽視するのが間違いだということを今から書いていこうとしているのだけれど、俺はどんなセックスもいつでも素晴らしいものだと思っているわけではないんだよ。むしろ、世の中の多くのひとがセックスを男の性欲で汚れたものとして心底憎んでいるのも当然だと思っている。
 そもそものところとして、喜んでもらうためにしているセックスと、そうではないセックスがあるのだ。自分が興奮して気持ちよくなるためにしかセックスしていないのに、その自分のセックスで女のひとは喜んでくれるはずだと思ってセックスしているという男は多いのだろう。相手に何かを我慢させてしまっていないかとか、相手の側に自分にしたいことやしてもらいたいことがなさそうかとか、自分とのセックスでまともに気持ちよくなれていることを確かめられていなくても平気で、明らかに不快そうにされていなければ好き勝手に腰を振っていられる男というのも多いのだろう。
 恋愛的な感情がある間は、女のひとも、自分がやりたいことをやって勝手に満足している男の姿を無邪気でかわいらしく思っていたりもするのかもしれない。けれど、そういう時期が終わってしまったあとでは、恋愛のうれしい気分に包まれていない素面の状態になるし、前ほどうれしそうでもない顔をした男の自分勝手でさほど気持ちよくもない行為に付き合わされるのがセックスということになってしまうのだろう。
 性生活についてのアンケートの記事なんかを見ると、できればセックスはしたくないという女のひとはとても多いようだけれど、セックス自体が嫌いなひとがそんなに多いわけがないのだし、迷惑でしかないようなセックスをする男がそんなにもたくさんいるということなのだろう。そして、そういうセックスをしていてすら、男はそれに自覚がないだけではなく、むしろ自分のセックスをもっと喜んでくれてもいいはずなのにと怒っていたり、不満を持っている場合が多かったりするのだ。
 しばらく前に読んだ、そういうことを研究をしているひとの本で、若い世代の大半の男のセックス観はポルノに毒されていて、それはほとんど例外がないくらいにそうで、世代全体に致命的な影響を与えているというようなことが書いてあったけれど、実際、インターネット以前の時代に思春期を過ごした俺のまわりでも、俺ほどポルノビデオを見ていないひとはいなかったのだろうし、中学高校のクラスメイトで俺と同じように二十歳までに一本も見なかったひとは、いるにはいただろうけれど、その全員が、奥手というか性的なことにコンプレックスがありそうなひとたちだっただろうし、もっと言えば、それは見るからにオタクのひとたちと、今思えばトランスジェンダーだったり性自認が違っていたりしたような雰囲気のひとたちだけだったんだろうなと思う。そういうような、その後の人生でもセックスに対して特殊な態度を取り続けたのだろうひとたちは、別のポルノ商品は消費しているのだろうけれど、ポルノビデオは見ていなかったりしたのだろう。逆に言えば、普通にセックスに憧れて、もっとセックスしたいと思いながら生きていくような多数派の男のほとんどはポルノビデオに触れているし、その中のそれなりに多くがポルノビデオに慣れ親しみ過ぎているのだろう。
 ただ、俺は現実のセックスをするまでポルノビデオを見ずにすんでラッキーだったけれど、それは単純に生まれた時代の問題で、俺があと五年遅く生まれていたら、親の目を盗んで自宅のインターネットでポルノビデオのサンプル動画を見まくっていたのだろうし、十年遅く生まれていたら自分のパソコンでファイル共有サービスでポルノビデオをダウンロードしまくっていたのだろうし、俺が今の子供なら、海外のポルノサイトでなんの苦労もなく延々とポルノビデオを漁っていたのだろう。どうしたところで初めてセックスするまでに、女のひとの肉体の映像がセックスされていくのを何百とか何千パターンも見て、気に入ったものは何十回と見て、いつでもポルノビデオで見た女のひとの裸の身体がセックスされる姿を思い浮かべられる状態で、初めてのセックスをすることになったのだろうと思う。
 実際、俺の弟は高校生の頃に自宅でインターネットが使えるようになった感じだったけれど、俺が大学生になって実家を出てしばらくして、帰省したときに、父親からお前は家でオナニーしていたのかと聞かれて、していたけれどどうしてかと聞いたら、弟のオナニーする音とか気配がちょくちょくするけれど、そういえばお前の部屋からはしなかったから、ということだった。確かに、俺は音がしたり何かが揺れたりしないようにオナニーしていた。弟はそんな注意も働かないくらい一生懸命オナニーしていたということなのだろう。そして、またしばらくして実家に帰って、そのころ弟は大学生だったけれど、弟はファイル共有サービスで膨大な量のポルノビデオやエロゲーやエロ漫画をダウンロードしていた。ただ、幸か不幸か、弟はきっとポルノに毒されているのであろう自分のセックスを誰にも披露することがないままできている。弟はそこまで無神経なやつではないけれど、とはいえ、あまりにも長い期間ポルノだけをセックスだと思って、女のひととセックスの話をすることもなくおじさんになってしまっているし、今から誰かとお見合いでもして結婚したとしても、とりあえず最初は気味が悪いセックスをして相手にがっかりされることになるのだろう。
 いろんな男がいるし、いろんなセックスへのモチベーションがあるのだろう。俺はセックスするときに特別セックスならではのモチベーションがあるわけでもないタイプだったのだと思う。向かい合ったら、あとはいい感じになろうということしか思っていなくて、相手の反応を確かめながら、身体がくっついている感触がいい感じであり続けるようにというだけでなんとなく身体を相手に押し付けていた。
 最初からそんな感じだったのは、ポルノビデオを見ていなくて、せいぜいエロ漫画を立ち読みしていたくらいだったというのが大きかったのだろう。ほとんど現実と混同してしまうようなポルノに慣れ親しんでいなかったから、現実の女のひとの裸を見たときに、ポルノの中の女のひとの裸がどんなふうにやられていたのかを思い出して、その妄想的なイメージを相手の身体に重ね合わせて興奮しようとすることがなかったのだ。
 けれど、それと同時に、普段の生活と同じように、目の前にひとがいると、漫然と相手の気持ちを感じ続けようとしてしまうのがセックスのときも変わらなかったというのも大きかったのだと思う。相手が裸になっていても、俺はほとんど相手の顔を見ていたし、相手の気持ちの動きしか感じていなかった。もちろん、それは普段の他人に顔を向ける感覚がそのまま働くくらい、セックスならではの相手への顔の向け方をしていなかったということで、それだって、ポルノビデオを見ていなかったからというのは大きかったのだろうとは思う。
 けれど、俺はセックスをする前も、セックスをし始めてからも、ポルノビデオをたまに見るようになってからも、女のひとの身体にどんなセックスをすると興奮できるのかということに全く興味がなかったのだと思う。俺だって日々性的な妄想を繰り返してはきたけれど、それはほとんどセックスの前後の妄想というか、その女のひとがどんなふうに自分とセックスする気になって、どんなふうに気持ちよくなってきてくれて、どんなふうに自分への態度が変わって、どんなことを自分に言ってくれるようになるかという妄想で、相手の身体をどんなふうにしてやりたいということを妄想することは全くといえるほどなかった。現実のセックスで実現したい性的妄想というものがそもそも俺にはなかったということなのだろう。だから、いつも今セックスしている相手の反応に集中しようというだけでセックスしてきたのだろうし、それはずっと変わらなかったのだ。
 頭の中の性的妄想で興奮しながらセックスしているひとたちと俺とでは、セックスしているときに体験しているものがかなり違っているのだろうなと思う。どういうセックスをしたいという妄想がないのなら、セックスしている相手への感情でしかセックスできないのだ。そうすると、セックスしていても、相手に喜んでもらいたいとか、いい気分になってもらいたいとか、気持ちよくなってもらいたいとか、そういうことしか思うことがなかったりする。実際、君のお母さんとセックスしていても、君のお母さんさえよければいいという感じで、自分がどう興奮したいとか、どんなふうに気持ちよくなりたいというものは何もない状態でセックスしていた。俺としてはペニスを入れて動いていればそれで身体は気持ちよくなるし、身体の気持ちよさはそれで充分だから、あとは相手にできるだけ気持ちよくなってもらって、相手が気持ちよくなってくれているのに同調して、相手の気持ちよさを自分の気持ちよさのように感じながらやっていて、君のお母さんは本当にとてつもなくうれしそうにしてくれていたから、それが伝わってきて俺もとてつもなくいい気持ちになれていた。
 二人の人間が向かい合ってお互いを気持ちよくさせようとしているのだから、そういうセックスのやり方は、むしろとても自然なものであるはずだろう。けれど、男たちのどの程度が、喜んでもらえるようにと思いながら、相手のことしか感じていないようなセックスをしているのだろうと思う。面と向かって喋っていてもひとの気持ちが全然わかっていない男というのはとてつもなくたくさんいるし、そういうひとは自分のことしか感じていないひとなりのセックス観を形成するのだろう。
 ただ、そういうひとも、独りよがりな思い方ではあっても、喜ばせたいという気持ちはあったりするのだろうし、優しくしてあげたいと思ったり、かわいいとほめてあげたり、格好つけてあげたいと思ったりはするのだろう。女のひとによっては、それくらいで充分満足だったりもするのだろう。独りよがりなやり方だし、こっちもちゃんと見ていないし、相変わらず気持ちよくないなと思いつつ、優しくしようとしてくれて、かわいいと言ってくれれば、そういう気持ちを伝えてくれていることにうれしく思えたりするのだろう。
 自分のことしか感じていないセックスだったとしても、自分がしたいセックスのイメージの中に、いかにもポルノ的な女のひとを屈従させることでいい気分になろうとするようなイメージだけでなく、奥さんに優しくしてあげて、奥さんがそれに喜んでくれてというラブラブな雰囲気を楽しみたいというイメージが含まれていれば、セックスの時間は、ちょくちょくと相手に優しくしたくてたまらなくなる時間が挟み込まれたものになるのだろう。セックスレスとか、セックスしたくないと思っている女のひとの比率を考えれば、独りよがりな思い方だったとしても、相手に優しくしたり、相手を喜ばせたいと思っているだけでマシな男だというのが現実だったりするのだろうなと思う。
 六本木の会社にいた頃、飲み会で同年代くらいの同僚のひとが隣にいて、どういう話の流れだったかは忘れたけれど、「相手に優しくしてあげたくて、めいっぱい優しくするためにするのがセックスですからね」というようなことを俺が言ったのに対して、思いっきりぎょっとされて、心底意味がわからないという顔で、「優しく?」と聞き返されたことがあった。俺もびっくりして、そりゃそうでしょうと言ったけれど、そのひとは、わからないなぁと言って、俺に対して気味悪そうにしていた。
 そのひとは、どちらかといえばおとなしいけれど、特にオタクっぽくもなく、文化系でもなく、いわゆる普通っぽい感じのひとたち中の、あまりイケていないけれど一応だいたいみんな彼女がいるくらいのグループに属しているようなひとだった。そして、人並みより鈍感なひとで、仕事上でも、よくまわりから「大丈夫なの?」「ちゃんと聞いてたの?」「わかったの?」と呆れられながら聞かれているようなひとで、何もかも面倒くさがっているような、自分のことしか感じていないタイプのひとだった。
 ぱっと見た感じとしては無害そうな雰囲気のひとではあったのだろうし、会社でも女のひとたちに対して腰を低くしていたけれど、こういう男も中身は完全に多数派の男たちと同じで、徹底的に男尊女卑的なものの見方を内面化しているし、ポルノ的なノリでセックスするのを当たり前だと思いながらクソみたいなセックスをするんだなと思って、このひとでそうなら、本当にとてつもない割合の男がそうなんだろうなとげんなりした。




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