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【連載小説】息子君へ 214 (43 人生は終わるけれど勃起は続く-2)

 どんなふうにセックスが圧倒的に人生に大事なのかというのは、とても簡単に説明できる。セックスがなければ、多くのひとは他人への用事が何もなくなってしまうんだ。
 いい歳をした男たちでは、それは特に顕著なのだろう。男たちは寂しいからと集まって話をしようとしたりしない。群れていい気になっているのが好きでしょうがないひとたちもいるけれど、そういうわけでもなく、一緒に何かのプロジェクトをやっている仲間がいるわけでもなければ、男は男に用事なんて何もないのが普通なのだろう。そして、女のひと全般に対しても、話し相手としては何の用事もなくて、ただ、セックスができるかもしれないのなら、その可能性のために何かをしてもいいような気にはなれるとか、それくらいのモチベーションしかないものなのだ。
 もちろん、セックスがしたいからといって、多くの男は臆病で面倒くさがりだから、セックスがしたい気持ちになったからといって、よほどお膳立てされたような状況でもないと、そのために動いたりはしないのだろう。それでも、仲間と楽しくやるとか、自分の集団でいいポジションを確保するということ以外で、男が何かしたい気になったり、そんな機会はないんだろうかという目で自分のまわりの人々を見るというのは、セックスがらみしかほとんどありえなかったりするのだ。
 勃起目的ではなく、かわいいと思っていい気になるような性的興奮も含めれば、ほとんどの男は、セックスという観点でしか人々を眺めていられないし、そういう目で見るくらいしか、ひとに何かを思ったりできないのだと思う。そこに眺めていたい女のひとがいなければ、世界にも人間にも社会にも文化にも興味を持たないまま、自分の暇つぶしのことしか考えていないというのが、大半の男たちの実際のところなのだろう。世界や人間や社会に興味がなくはないひとでも、仕事ではなく趣味程度でそういうものに触れているだけなら、そういうことはたまに何か思ったときに真面目ぶって考えているだけで、いつもはセックスに付随するものとしての女のひとのことばかり考えているものなのだと思う。
 もちろん、世の中にはセックスが好きじゃない男もいるのだろう。けれど、セックスが男の心を占拠し続けて、敵と味方と知らないひとという区分から外れて、少しでも他者っぽく誰かのことを見るとしたら、セックスがらみの視線しかありえないのが男の基本形だとすれば、セックスが好きじゃない男というのは、心が体験する人生としては、そうではない男とは全く別の人生を生きている存在なのだ。俺はそういうひとたちのことはよくわからないし、この手紙のようなものでも、そういう自分とかけ離れたひとたちのことはあまり考えても仕方のない存在として、その存在を念頭に置かずに人間について語ってきた。俺が語っているのは、セックスが嫌いではないという意味で普通の男たちのことで、俺は普通の男として、普通の男について語っているのだけれど、普通の男はセックスを通してしか他人に関心を持てないものなのだ。仲間とか身内と、その反対の敵以外は、セックスの対象と、それに該当しない完全にどうでもいいひとたちとして人々を眺めているひとが大半で、そして、セックスがらみの観点でしか他人を見ていない度合いは、歳を取るほどに強まっていく。
 それは単に、若い頃は何をしていても充実できるし、何にでもその気になれていたから、何でも楽しめたというだけのことではあるのだろう。男女の友情というのは、幼ければ幼いほどありえるものなのだろうけれど、若者時代が終わってしまうと、ほぼありえないものになる。人間と人間として面白がり合ってつながるのは、心が死ぬまででないと難しくて、逆に言えば、心が止まってくるとあまりひとに何も思わなくなって、まともにひとに気持ちを動かされるのは性的なことだけになってくるということなのだろう。
 心があまり動かなくなって、何にもすぐにその気になれなくなっても、性的妄想を繰り返してきた肉体は、まだまだちゃんと機能し続けてくれる。性的妄想はすぐに自分の身体を興奮させてくれて、身体が興奮するとすぐにそういう気分になれてしまう。歳を取っても、性的なことだけは、自分をなんとなくうきうきするような気分にさせてくれるよいものとして残ってくれるのだ。
 感情は止まるけれど、勃起は続くということなのだ。そして、勃起できてしまうから、この勃起をあのひとがあのとき喜んでくれたということを思い出してしまうし、まだちゃんと勃起しているペニスを握り締めながら、まだ自分にもあんな素晴らしいことができるのかもしれないと思ってしまうのだろう。
 勃起できることで、まだセックスができなくなったわけではないと思えることが、生きることへの漠然とした希望のようなものとして機能してしまうというのは、男にはよくあることなのだろう。あの充実した時間をまだこれからも体験できるのかもしれないと思えてしまって、自分のペニスがいつでも挿入できそうな硬さで勃起しているのを自分の手のひらではっきり感じていることで、そのことについてだけは、そんなことがあればいいのになと素直に思ってしまうのだ。
 老人になると、社会内存在としてすでに終わっている状態になる。多くのひとの場合、実際にはもっと前に終わっているし、もっと前に、周囲にいるひとからも、もういなくなってくれていいひとだと思われているけれど、自分の中では、勃起しなくなったことで、もう完全に自分が終わったという感覚になるひとが多いのだろうと思う。もちろん、老人になっても勃起は続くし、勃起できるうちに呆けてしまって、勃起できなくなった絶望を味わわずに人生を逃げ切るひともたくさんいるのだろう。
 けれど、勃起の終わりと自分の人生の終わりを同一視するというのは、セックスくらいしか思い出せるようなものがない人生だったと自分のことを思っている男にはとてもよくある思い方なのだろうと思う。逆に、セックスで喜んでもらえた記憶がないひとの場合だって、人生全体で復讐心のようなものを込めて自分のペニスと付き合ってきたという場合は多いのだろうし、老人になって、フーゾクに行くつもりもなく、もうセックスすることはないのだろうと思うようになってからも、自分が勃起できることは重要なことであり続けるのだろう。
 そういうひとは世間のセックスを楽しんでいそうなひとたちを目にして、恨みの言葉を頭の中に浮かべて、復讐心をモチベーションにした性的妄想で自分をなだめたりしているのだろう。頭の中で世間への仕返しをしているだけだとしても、それに肉体的な性的興奮をかぶせて、射精によって肉体的に復讐心をすっきりさせられることが、人生を通して重要な息抜きであったりしているひとというのは、さほど珍しくないのだろう。そういうひとからしても、勃起しなくなってしまうことは、世間に反抗する力すら失ってしまったような、逃げ場のない敗北感に沈められるような決定的な出来事になってしまうのだろう。
 君はわかっていないかもしれないけれど、セックスは歳を取るほどに大事なものになっていくんだ。若い頃の方が性ホルモンの分泌量的な性欲は強いとしても、セックスのことくらいにしか心が動かないということでは、むしろ歳を取るほどセックスのことしか考えられなくなるのが普通なんじゃないかと思う。現実にセックスのために行動するとか、よりたくさんポルノを見てたくさん射精するというようなことでなく、セックスさせてもらえるのなら多少のプライドは捨てられるということなら、歳を取るほどその度合は高まっていくのだろうと思う。
 それまでセックスを何よりも大事に思ってきたひとたちは、心が止まってしまったあと、またいつかいいセックスができるかもしれないという可能性だけが、変わらずに素晴らしい未来にありえる可能性のイメージとして、あまり何も思わなくなってしまった自分を支えてくれているような気持ちで生きている場合が多いのだろう。
 それは単純に、歳を取って鈍感になりすぎてしまったせいで、自分に向かって身を投げだしてうれしそうにしてくれる姿からしか、生きていることの素晴らしさを感じられなくなってしまったということでもあるのかもしれない。けれど、感情をはっきりと出しながらひとと関わることがなくなってしまって、誰からも自分のやったことを本気で喜んでもらえなくなったなら、どうしたってそうなってしまうんじゃないかと思う。多くのひとが犬や猫を飼って全力でにこにこでれでれしながらかわいがったりするのだって、そのためなのだろう。犬は本気で喜んでくれるから、本気でかわいがることができる。そうやって思い切り相手に気持ちをぶつけられる時間は、ほとんど一日中自分の気持ちとは別の顔をしてばかり生活するようになってしまったひとにとっては、とても気持ちのいいものになる。
 夫婦でセックスレスが関係性として致命的になる場合が多いのは、一緒に何かしていてどういう気持ちなのか伝わるというようなことではなく、お互いの相手に対しての感情を行き来させるということでは、セックスとその前後でしか、相手に自分の感情を受け取ってもらおうとしていなかった場合が多いからなのだろう。日常生活の中では、何かを感謝したり、苦労をねぎらったりするにしても、言葉だけだったり、軽い笑顔が付け足されるくらいだったりしてしまう。そもそも、セックスがなくなってしまったときに、家庭というプロジェクトの中でしないといけないことはするにしても、それ以外には配偶者に用事が何もなくなってしまう場合も多かったりするのだろう。一緒に暮らしている二人だからこその気持ちの行き来がセックスとその前後の時間にしかなかったなら、セックスしなくなれば、もうそれで相手は気持ちで関わることが難しい存在になってしまうのだ。
 友達夫婦としてうまくいっているのなら、そこで関係性がサイクルしていったりもするのだろうけれど、話しているだけで楽しいという関係になれていない夫婦というのはとても多いのだろう。友達夫婦としては全くうまくいっていなくて、家族というプロジェクトのパートナーとしても不満だらけで、とはいえ、もともとはそれなりに恋愛的な気持ちの盛り上がりがあったことで、親密さ自体はそれなりにあって、それによってなんとかぎりぎりつながれていたという夫婦も多いのだと思う。恋愛的な親密さの残り火によってセックスしているからなんとか一緒にいられたような関係性だったところからセックスレスになって、家族だからという以外には、このひとと一緒にいる意味を自分の中に見出すことができなくなってしまったというパターンの夫婦がとてつもなくたくさんいるのだろう。
 そもそも、過半数の男は、みんなが家族を養っているから自分だって負けずにいい父親をやりたいという対抗意識を除いたときには、このひとと一緒に生きていくためにできるかぎりのことをしてあげたいなんて全く思っていないのだ。相手が自分に一緒にいてほしいと思ってくれているのだろうから、だったらそれでいいというくらいの気持ちしかないのは、世の父親の無気力さと受身さとか、やれと言われたことと習慣化されたことしかしない姿を見ていれば明らかだろう。
 男に愛情があるとしても、愛されて尊重されているから、それに応えて愛してやろうとするというのが基本パターンで、男の大半には、自分の所有物への愛情以外に、まともな愛情なんてないということはすでに書いた。奥さんを幸せにするのが目的ではなく、結婚して家族を養ってうまくやれている男でいることが目的だから、なるべく少ない労力でその目的を達したいと思っているのだろうし、だからこそ男たちは、自分は家族を養うといういいことをやっているのだから、いい見返りがあって当然だろうというような、ふんぞり返った思い方で家族のことを見ているのだろうし、自分には喜んでもらうためにあれこれやってあげたいという気持ちもないくせに、臆面もなく、もっと自分に感謝してほしいし、自分のしてあげていることにももっと喜んでほしいというようなことを思っているのだろう。それは思い上がりでしかないのだろうけれど、若くてもそんな感じ方をしている男は珍しくないのだろうし、旧世代の男も含めれば、そんなふうにふんぞり返って勘違いしたことを思い続けている男の方が多数派なくらいなのだと思う。
 そういう男は、金を稼ぐ以外では、やらされていることを面倒くさがりながらやるのと、あとはどこかに連れて行ったりデートとかイベント的なことをやってくれるというくらいで、話していても面白くないし、一緒にいてもたいして何をもたらしてくれるわけでもない存在だったりする場合が多いのだろう。けれど、そういう男でも、恋愛が盛り上がっていた頃には、いちゃいちゃしたりセックスしながら一緒にいるだけで相手を喜ばせていられたのだ。
 男の側からすると、恋愛が終わってセックスレスになってしまったけれど、自分はその前後で何も変わっていなくて、それなのに、昔は一緒にいて喜んでくれていたのに、今は一緒にいても全くうれしそうにしてくれなくて、何をしてくれないとか、自分のことばかりだと責められたり、嫌そうな顔をされるばかりになって、それに対して、ただただわけがわからないと思っていたりする場合も多いのだろう。
 確かに、恋愛中だって、さほど面白い話をしていたわけでもないし、特に気の利いたデートができていたわけでもなかったけれど、それでも一緒にいると、たいしたことじゃなくても笑ってくれてうれしそうにしてくれていたし、世話を焼いてくれていたときも、うれしそうにあれこれしてくれていたのだ。そして、そのとき男の側は、うれしそうにしてくれるからいい気分になって、自然とかわいいと思って接して、一生懸命セックスしていただけだったのだろう。だから、男の側は、今だってうれしそうに世話を焼いてくれれば、かわいいと思いながら頑張ってセックスするし、付き合い始めた頃みたいにいいセックスができて一緒にうれしくなれたら、もっとお互い毎日いい気分で生活できるのになと素朴に思っていたりするのかもしれない。
 多くの男は、昔は自分が何をしてあげていたわけでもなく、デートしてセックスしてあげているだけで相手に喜んでもらって、満足してもらえていたと思っているのだろう。だから、関係が落ち着いても、以前のように、何をしてあげているわけでなくても、自分と一緒にいてうれしそうに世話を焼いてくれてもいいはずだし、自分とセックスして喜んでくれてもいいはずじゃないかと思っているのだ。むしろ、自分の方だって、一緒にいてうれしそうにしてくれていたり、セックスしてうれしそうにしてくれていたから好きになって、一緒にいようと思ったのに、これでは騙されたようなものだと思っていたりするのかもしれない。どうしてセックスしてくれないのかと思って、昔みたいにセックスを喜んでくれるだけでもっと仲良く一緒にいられるはずなのにひどい話だと、完全に相手のせいだと思っていたりもする場合も多いのだろう。
 もちろん、それは男がそう思っているだけで、そういう男たちの配偶者の大半にとって、その男のセックスは、相手がしたいことに付き合ってあげているというだけで、わざわざ奥さんの方から欲しがるほどの価値や喜びがなかったりする場合が多いのだろう。恋愛中だったから、好きなひとが求めてくれているのが心地よかっただけで、恋愛的な感情がなくなってしまえば、求められてうれしいという気持ちはなくなってしまう。うれしくなくても、やっていて優しさとかよい感情が伝わってきて、肉体的にも気持ちよくしてくれるなら、まぁいいかと思えるのだろうけれど、そうでもないのなら、自分のことしか感じていない男とのセックスなんて、気持ちよくなくても気持ちよさそうにしないと不機嫌になられることで脅されながら、裸になって肉体を使いながら相手の至近距離で感情労働を強いられるという地獄のような行為でしかないのだろう。




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