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【連載小説】息子君へ 187 (39 どうしたらずっと一緒にいたいと思えたのだろう-1)

39 どうしたらずっと一緒にいたいと思えたのだろう

 どうして俺は誰にもずっと一緒にいたいと思えなかったんだろうと思う。
 ずっと一緒にいたいというのは、自分の人生を、そのひととずっと一緒にいる人生に変えたいということなのだろう。そうだとして、ずっと一緒にいたいということは、恋愛がうまくいっていれば、そのうちそう思うようなことなのだろうか。俺からすると、それは恋愛とは関係がない思いというか、恋愛の延長線上にあるような気持ちではないように思ってしまう。
 時代を遡れば、結婚相手というのは、恋愛で決めることではなく、家同士が決めたり、縁談がもちかけられたりして決まる場合が大半だったのだろう。俺の親が結婚した頃ですら、まだ三割近くはお見合い結婚をしていたし、恋愛なしにずっと一緒にいることになって、そこから夫婦関係を構築していくというのは、ごくごく当たり前のことだった。
 俺は恋愛してどうするつもりだったんだろうなと思う。好きになってもらうのがうれしくて心地よかったというだけだったんじゃないかという気もする。見た目で好きになってもらいたくて、お喋りで好きになってもらいたくて、セックスで好きになってもらいたくて、相手に向かっていい自分でいようとすることにはいつも充実感があった。相手に喜んでもらえるように一生懸命いろんなことをしてあげて、今まさにもっと好きになってもらったという感触がこっちに伝わってくるのが気持ちよかった。
 けれど、それだけだったのかもしれない。俺はただ、相手に好きになってもらうことで、自分が好きになってもらえるほどの自分であることを確かめていただけだったのかもしれないし、相手に喜んでもらったり、楽しそうにしてもらうことで、自分が相手を喜ばせることができるということを確かめていただけだったのかもしれない。
 相手と一緒にいるときは、ちゃんと相手に身体を向け続けて、いつでもちゃんと話を聞こうとしていた。気持ちに気持ちで反応できるようにして、相手の思ったことをもっと二人で楽しく話していられるような反応を返せるようにしようとしていた。けれど、そういうことの全てが、今自分が何をできるかということを自分で確かめたいといというモチベーションでそうしていて、付き合っていてだんだん信頼が深まっていい関係になっていけていることに対しても、いい関係になっていくように関わり続けていられる自分の能力を確かめられている充実感に満足していただけだったのかもしれない。
 その相手が好きで、その相手の気持ちの動き方を感じているのが心地よいから、そのひとと一緒に時間を過ごしていたのだろう。けれど、楽しそうな相手の気持ちの動きを感じていれば満足で、それ以上に相手に何も求めていなかったのかもしれない。感じさせてくれて、何かをさせてくれて、うまくやれたら喜んでくれることしか求めていなかったのかもしれない。そうだとしたら、自分が何を感じ取って、どんな反応を返して、相手にどれくらい楽しんでもらえるのかということだけで恋愛をしていたということなのだ。
 自分が今何をできるのかということばかりで恋愛していたということだし、それは自分が今もちゃんと自分らしくあれているということを確かめるために恋愛していたというようなことなのだろう。家庭を持つということは自分の人生が自分だけのものではなくなるということだというのはよく言われていることだけれど、自分の今を確かめるためにしか恋愛していなかった俺は、自分の人生を自分のものではなくしてしまいたい気持ちとは真逆のモチベーションで恋愛を楽しんでいたということなのかもしれない。
 ずっと一緒にいたいというのは、ずっとについての気持ちであって、今何ができるのかという時間感覚の中には発生しようがない感情なのだろう。ずっとなのだから、自分の人生全体の問題で、自分の人生をそのひとと一緒に生きる人生にしたいと思うのかということなのだ。そして、それは同時に、自分が相手の人生の一緒に生きているひとになって、相手の人生をよいものにする助けになろうとする人生を選ぶのかということなのだろう。それは人生の問題で、世の中で男が奥さんを幸せにしてあげたいと言っているのは、奥さんの人生のずっと一緒にいて自分を幸せにしてくれるひとという役割を自分がやってあげたいという意味であることがほとんどなのだろう。
 俺はそもそも、女のひとと付き合っていて、このひとを幸せにしてあげたいと思ったことがなかった。いつだって、ちょっとしたことで傷付けることになるんだろうし、これからだって、深く傷付けてしまうことがあるんだろうと思っていた。相手が幸せそうにしてくれていても、幸せを感じられるような扱いを自分がしてあげられていることはわかっていたから、それについては満足していたけれど、だからといって、自分はこのひとを幸せにしてあげられるひとなのだというような気分になったこともないし、ずっと自分のそばで幸せそうにしていてほしいと思ったりすることもなかった。
 きっと、俺には幸せにしてあげたいという気持ちがないのだろう。自分がそばにいることで相手が幸せになれるということは理解できても、それは相手が俺といることに幸せを感じているだけで、自分の相手への感情によって相手の中に幸せが生み出されているとは感じていなかった。幸せは自分が自分で幸せだと感じるものであって、ひとに与えてもらえるものではないと思っていた。けれど、俺が幸せにしてあげていると思っていなかったせいで、俺は目の前で幸せそうにしてくれている相手に対して、これからも幸せにしてあげたいし、もっと自分と一緒にいて幸せになってもらいたいというようなことを思えなかったということなのだろう。
 世間で言われているような、金を稼いで家族を養って父親として家族を幸せにしてやれて初めて一人前の男だというようなことも、俺には全くぴんとこないままだった。幸せにしてやる、という物言いからして理解できなかったのだろう。けれど、今となっては、幸せにしてやれるものだと思っていないから、幸せにしてあげたいと思えなかったのもあったのだろうと思う。
 それ以外にも、結婚して守るべきものができると男は強くなるとか、そういう話もよくわからなかった。自分ひとりなら嫌になったら投げ出せばいいけれど、家族ができるとそういうわけにもいかなくなるから、覚悟を決めてここでやっていくしかないと思えて本気になれるとか、そういうことなのだろう。けれど、それくらいのことなら、迷惑をかけたくない相手がいるとか、格好悪いところを見せたくない相手とか、がっかりさせたくない相手がいると怠けられないとか、その程度の気持ちと大差がないのだろうし、家族への愛がどうとかということでもないんじゃないかと思っていた。本人に自覚がないだけで、家族のために犠牲になっているというヒロイズムに浸ることで、家族を養えている自分にうれしくなろうとしているというのが実際のところで、かといって、そういう思い込みなしには他人の幸せを自分のおかげだと思ったりできないひともいるということなのだろうなと思ってきた。
 世間の男が自分で愛情だと思っているような感情が俺には全般的によくわからなかったのだ。俺は幸せな子供時代を送ったけれど、それは両親がたくさんかまってくれて、全く嫌なことをされなかったことで、心から安心していられたからだと思っていた。幸せにしてあげるというのは、相手が自分で幸せになるのを邪魔しないことで、相手が幸せな気持ちになれていることを一緒に喜んであげることなのだとか、いつの間にかそんなふうに思うようになっていたから、旦那とか父親として、金を稼いで、たまに遊びに連れて行って、たまに息子とキャッチボールしたりとか、それで幸せにしてあげている気になっていたり、それで自分に愛情があると思っているというのが、そもそも不思議だったりしていたのかもしれない。
 かといって、そういう一人前の男になるために他人を幸せにしてあげたいという愛情が俺にはなかったとして、俺には別の愛情があって、その愛情によって誰かを幸せにしてあげたいと思ってきたわけではなかったのだ。俺が両親にしてもらったように、自分の子供のことを見守ってあげて、自分に向かって何か言ってくれたときに気持ちに気持ちで反応してあげたいとは思っていたけれど、俺はそれ以上に何かを思っていなかったのかもしれない。恋人に対しても、面と向かっているときに、ちゃんと気持ちに気持ちで反応してあげたいと思っているだけで、相手が幸せそうにしていたら、よかったねという顔を向けているだけだった。そうすると、俺には目の前の相手を幸せにしてあげたいという衝動を生み出すような愛情がなかったということになるのかもしれないし、それならば、たいしてまともな愛情じゃなかったとしても、一人前の男として、養ってやって、面倒を見てやって、何かあったら守ってやって、幸せにしてやりたいとでも思っている方がマシだったということになるのかもしれない。
 男には愛情がないというようなことはよく言われることではあるけれど、それはそれなりに本当のことなんだろうと思う。過半数の男には、愛情という言葉があてはまるくらいの、他人を思いやるような感情はないのだろう。大半の男は、徹底的に自分本位にしか他人と関わることができない。
 もちろん、男にも自分の手下をかわいがるような愛情はあるのだろう。世話を焼いてくことで情が湧くというのもあるのだと思う。当然それは自分のものであることについての愛情だから、とてもいいものであれば、大事にしまっておきながら、ちょくちょくそれを取り出して撫でていたりするかもしれないけれど、そうでもなければ、手に入ってすぐは傷が付かないように丁寧に扱って、汚れたらすぐきれいにしたりしているけれど、少し慣れてくるととたんに扱いも荒くなって、そのうちに飽きていってしまう。それは友達でも恋人でも同じだろう。いいものだと思って手に入れて、いいものだと思っている間はとても大事にしてかわいがるけれど、実はそれほどいいものではないように思い始めると、急にぞんざいに扱ったり、早く手放したい気分になったりする男はいくらでもいるのだろうけれど、それは相手のことを自分の持ち物のように思っていることでそうなる振る舞いなのだ。
 もちろん、女のひとでも所有物のようにして友達や恋人をとらえて、手に入ったうれしさとか新鮮さを消費してすぐ飽きてしまうようなひとはいるのだろう。けれど、女のひとの一割とか二割くらいは、女のひとの多くからして女らしくないのだし、そうじゃない女のひともいるという話はあまり意味がないからしてもしょうがないのだろう。
 多くの場合、女のひとは恋人を自分の所有物のように扱う感覚は薄くて、そのひとを好きな自分をいい自分にしておきたいというモチベーションで恋愛を楽しんでいるんじゃないかと思う。もしくは、そのひとのそのひとらしさを見守って、それをかわいく思ったり、頼もしく思ったりすることを楽しんでいたりとか、もっと相手主体な感情が恋愛の中心になっているんじゃないかと思う。
 所有物への愛情と、他者や隣人への愛情というのは全く別のものなのだろう。他者への愛情ということでは、自分に懐いてくれているものしか愛せないのなら、それは愛ではないのだし、そうすると、男には愛情がないというのは全般的にかなりあてはまってしまうのだろう。特に、他人の人格に興味がないし、ひとの気持ちもまともに感じていないような、男の過半数くらいが該当するようなタイプの男たちには、男は愛情なんて感じていないというのは、まるっきりあてはまる表現になってしまうのだと思う。
 そういう愛情のない男たちは、自分の頭の中のポルノの領域でしか、その女のひとがどういう女のひとであるのかということに興味がない場合が多いのだろう。俺は表情の動き方がかわいくて、話していて楽しければ、見た目や体型は気にならなかったから、多くのひとからどちらかといえば不美人だと思われているようなひとも好きになってきたし、ダサいひとも好きになってきたし、太っているひととも何も思わずセックスしてきたけれど、過半数をはるかに超える男は、相手の見た目や肉体的な性質が自分を興奮させてくれるかどうかを異様に重視していて、自分の頭の中のポルノにうまく当てはまってくれない、自分を興奮させない女のひとを無価値な存在だと思って、視界に入ってこられることにすら不快感を持っていたりする。そういう男が他に女のひとに何かを思うとすれば、見た目がいいとか、料理が上手いとか、そういうひとに自慢できるようなところがあるかどうかなのだろう。それにしたって、自慢できるものを自分が持っているイメージに頭の中でうっとりしているわけで、頭の中のポルノをなぞってくれるものを欲しているということでは似たようなことなのだろう。
 逆に、そういう男たちは、付き合っている相手としての女のひとには、人間としてどういうひとであってほしいというようなことは、たいして何も思っていないのだと思う。もちろん、自分にやりたいことがあるときには、とにかく自分の邪魔をできるだけしないでほしいとは思っているのだろう。けれど、それ以外は、自分を求めてくれて、自分にしてほしいことを伝えてくれて、それをしてあげたら喜んでくれて、一緒にいてあげられてよかったなと思わせてくれれば充分なのだと思う。一緒にいていい気になっていられればそれでいいというだけで、相手がどういう人間であるのかということには興味を持っていないのだし、そうなのだとしたら、そこには明らかに他者への愛情はないだろう。
 男が愛情がないのは女のひとに対してだけのことだけではないのだ。男は身内ではない他人に対してまともに優しさを持って接することができないひとがとてつもなく多い。そういう男たちが人間的な感情を持って接することができるのは、仲間意識とか、仲間内の上下関係とか、仁義とか兄弟愛的なもので結びつけている関係の中だけなのだろう。
 ひとに優しくしているようなひとでも、実際は身内にしか優しくないというのは、女のひとでも多いけれど、単純に人間としてどうなのかという感じだろう。けれど、男の場合は、身内に対しても、優しくしなくても関係が成り立つ相手には攻撃的に振る舞う無神経なモラハラ男が大量にいる。だから、身内に身内だから優しくするだけのわざとらしい男でも、身内に優しければそれで充分じゃないかと、世間的には優しい男という扱いになっていることが多いのだろう。
 身内への優しさがまともな優しさではないというのは、それが他人に優しくなるための人生経験になっていないことからもわかるだろう。身内に優しくしたり、ほめたり、ねぎらったりしていても、それは集団内の自分の価値を高めたり、集団内のポジションを相手と確かめ合うための行為でしかない場合も多い。だから、いい先輩やかわいい部下は演じられても、よく知らないひとにはどう振る舞えばいいのかわからない男がたくさんいるのだ。付き合う前の相手には、探り探りそれっぽく振る舞うけれど、付き合うことになったり、結婚した相手には、何も考えずに接するようになって、相手を自分より下だと思っている場合は、急に横柄な態度をとるようになったり、もしくは、急に横柄な自分勝手なかわいがり方をしてくるようになるような男というのも、パターンでしか行動していないことでそうなっているのだろう。
 それは関係性を通してしか優しくできないということなのだろう。ひとりの人間とひとりの人間として、気持ちを感じ合っている中で、優しくしたい気持ちになったから優しくするというような、当たり前の対等さの感覚が働いている瞬間が男にはほとんどないのだ。そんなにまでも自分の集団内のポジションのことでしか動いていないということだし、それはつまり、愛情をモチベーションに行動している瞬間なんてほとんどないということなのだ。
 男全般として見るなら、男の愛情とか、男の家族への愛情とはそういうものなのだ。自分が家族をうまくやれているのかどうかということが中心で、家族それぞれの人格にも、家族それぞれの気持ちにも興味はないのだ。そういうことはどうでもいいから、自分がやってあげたことに喜んでくれて、自分のことを尊重してくれていればいいとしか思っていないのだろうし、実際、だんだん変わってきているとはいえ、世間の父親のイメージというのはたいていそういうものだろう。
 もちろん、そういう愛だとしても、愛してはいるのだろう。何よりも君と子供が大事だよ、というように男が言ったとき、それが嘘ではないことも多いのだと思う。実際に家族よりも大事なものがない場合も多いのだ。けれど、一番大事だからって、なるべく自分をいい気分でいさせてくれとしか思っていなかったりするのだ。そして、子供もある程度の歳になって、子供が無邪気に自分にじゃれついてくれなくなったり、奥さんから男として求められている感覚がなくなってしまったりすれば、他のものと比べたときには一番大事なものに思えるからといってまるっきりどうでもいいし、家族に何かあればどうにかするし、必要があれば何でもする気ではいるけれど、かといって、別に家族がどうなろうがどうでもいいというのが本心になってしまう。
 家族といても、毎日自然と心からの笑顔を子供とか奥さんと向け合っているわけではなくなってしまったおじさんというのは、自分では家族を愛していると思っていても、そういう所有物への執着と、社会欲ベースの責任感と、共有された思い出くらいでしか構成されていない愛情しか持っていないのだろう。そういうおじさんたちは、自分が家族から不必要だと言われて、もう二度と関わりたくないと言われたとしても、だったらそれで仕方がないとしか思えなくて、すがりつくことなんてできないのだと思う。心底から家族のことを自分の所有物のように思っているひとは、所有物や既得権益を奪われることに反撃しようとするのだろうけれど、そういう気持ちが湧かない場合は、人格と人格のつながりなんてなくて、その集団内での自分がうまくやれているかどうかということが家族への感情の実体だから、自分を受け入れてくれなかったひとたちから早く離れたいというばかりで、すがりつくほどの感情は浮かばないのだろう。そういうおじさんにとっては、そうなったとしても愛情とか人生の問題ではなく、プライドの問題にしかならないのだ。
 それは家族関係が冷えたものになってしまったことで投げやりな気持ちになったということではないのだと思う。もともと新婚で毎日楽しくやっているときですら、相手の人格なんて感じていなかったのだ。自分がいい気分でいられたらいいとしか感じていないから、それなりに長い時間を一緒に過ごしても、気持ちのつながりや、お互いの気持ちを受け止めあった経験を蓄積したからこその信頼感みたいなものはできていかなくて、そうしたときには、関係が冷えてしまったあとには、責任感とプライドでつなぎ止められているだけの、剥き出しのどうでもよさだけがお互いの間に横たわった関係性になってしまうのだ。
 男が何もかもどうでもよく思っていることをみんなどう思っているんだろうなと思う。世の中には愛しているのならどうでもいいなんて思わないはずだと考えるひとがそれなりにいて、男に対して、どうしてああなのかと非難する言葉が毎日膨大に発信され続けているけれど、どうして男が愛していると思っているのか、今までずっとよくわからなかった。世の中の愛情っぽい振る舞いをマナーのように真似していたり、女のひとたちのトーンに合わせているだけで、それは全て男たちからすれば、付き合わされているだけのことだったりする。どうしてそういうことすら男たちから感じ取れないんだろうなと思う。
 もちろん、女のひとたちだってどうでもいいという気持ちにまみれて生きているのだろう。それに、女のひとは家族と子供のことはどうでもいいと思えるようなことではないと社会から教え込まれながら育つのだろう。それによって男女で家族への意識がまるっきり違うというのはあるのだと思う。日本の男に家族愛が希薄なのは、男女の違い以上に、女のひとに全て任せて、何もかもどうでもいいと思っていられる立場を許されてきたから、それに開き直っていることでそうなっているというのは大きいのだろう。
 無神経な男たちだって、人生全体は自分のいる集団内でのポジションを巡るあれこれしか気にしていない無神経な人生を送るとしても、自分の腕の中にいる子供と膨大な時間目を合わせて過ごして、言葉にならない言葉と一緒に、たくさんの感情を行き来させながら時間を過ごしたなら、子供との間に深い感情的なつながりを実感できるようになるのだろう。逆に、子供とそういう時間を過ごすことで、無償の愛のようなもので何かをしてあげられることが自分に大きな喜びをもたらすということをやっと知ることになるようなひともいるのだろう。
 女のひとだって、母親になって子供に対して愛情を持って接するようになったけれど、それまでは自分の損得ばかり気にして、親切心も表面的なものしか持ち合わせていない自意識過剰な人間だったという場合は多いのだろう。愛情とはそういうもので、世の中の男たちに愛情がないように見えるのは、男たちが子育てを主体的にやらなかったからというのもあるのだと思う。
 もちろん、子供を育てないと愛情を持てないなんてわけはないのだろう。子供を育てる前から、他人と愛情を伝え合えるような男だってたくさんいるのだ。そうすると、両親や恋人から愛情を持って接してもらえなかったから愛情でひとに接するという感覚が身に付かなかったということなのかもしれないし、男の場合は、自分の父親が子育ての中で愛情を知った男ではなかったり、自分のまわりにいる男たちの大半もそうではないことで、男とは愛情なく他人と接するものなのだと思いながら育ってしまうケースというのがとてつもなく多いということなのかもしれない。
 ただ、そうやって子供を育てることで愛情を知っていけるのかもしれないとしても、男の場合、やっぱり女のひとのように、自分の人生そのもののようにして子供を愛しているわけではない場合が多いんじゃないかと思う。弱いものを守ってあげたいとか、喜んでくれる顔が見たいというような感情でしかなくて、それは求められることに応えてあげたいというような気持ちに近かったりするのだろう。
 子供以外への愛情も含め、女のひとの愛情というのは、もっと自分と結びついているのだろうと思う。自分が誰を愛したのかということは、自分がどう生きたのかという単なる結果ではないのだ。自分がどんな人生を生きているのかということの一番中心にあるのが、誰を愛して誰の世話をして誰を守ってあげて幸せにしてあげてきたのかということになる場合が女のひとは多かったりするのだろう。
 女性の恋が上書き保存なのもそういうことなのだろう。自分のこととして、自分の一部として愛しているから、そこにはひとつのものしかはまらないのだ。男にとっては、恋人は自分の何かではなく、所有物とか、いいように言っても自分の経験でしかないから、どの恋人も別の経験でしかなく、上書きなどされようもないのだ。別々の経験ということにしかならなくて、愛しているというより、そのつど愛することができたというだけで、それは、食べに行くのが好きな店が複数あるようなことと大差がないのだろう。
 男は自分のことのようにはひとを愛さないというのはそういうことなのだ。男は誰を愛しているのかということで自分を確かめてはいなくて、自分の名誉の方を自分自身だと思っている。パートナーや子供をとても大事にしている男たちも、妻子を大事にする自分という自己イメージを名誉なものに思ってそうしている場合が多いのだろう。
 もちろん、女のひとが自分のこととして男を愛するというのも、自己イメージなぞっているだけだということもできるのだろう。女としての自己実現ということで、社会的な成功という面でも、男や子供というものが人生の成功に直結しているから、自分がいい具合で生活できているだろうかと思うたびに、男のことや子供のことを思ってしまうというのはあるのだろう。
 俺が誤解しているだけで、女のひとたちにしたって、愛着と責任感と自己イメージによって子供や家族を大切にしているのかもしれない。けれど、ディルドで牛の子宮頸部を刺激することで、他の牛の子にも乳をやったりするようなものとして、母性本能といえるような気持ちの働きが肉体的なレベルで存在しているのだ。誰かを特別な相手と認識して、その相手を慈しみたいという気分になるように身体ができているのであれば、そういう感覚に背中を押されるようになると、好きな相手を確保しておくことで、心を安定させられるということになってくるのだろう。
 例えば、女はいつでも誰かに恋していたいものなのだという言葉はよく言われることだけれど、どうしたところで、男はそうではない。男は恋人のことばかり考えてしまうような時期にしかひとりでいるときに恋人のことを考えることはなくて、そういう時期を過ぎたあとは、ケンカして後ろめたいことがあったりでもしないと、一緒にいないときは心の片隅にすら恋人は存在していなくて、何かしら恋人を連想するものに目が止まったりでもしないと、恋人のことを思い出さない。
 男だって恋をすれば女のひとと同じようにそのひとのことばかり考えるけれど、そういう気持ちの動きがあっても、誰かへの愛情が自分の中に持続しているのが心地よくて、それをキープしておきたいというのは男にはない感覚なのだ。それは肉体的なレベルでの気持ちの動き方の違いで、男女の愛情のあり方はそういうレベルで違っている。
 もちろん、それは全ての女性がとか、全ての男性がと言えるようなレベルで備わっているものではないのだろう。性同一性障害のようなものもあるし、発達障害のひとはトランスジェンダーとかアセクシャルを自認する割合が明らかに高いというのも何かで読んだ。母性本能的なものも、定型的に発達した場合に身に付いているものなのかもしれない。
 女のひとだって、いかにも定型的に発達したというわけではないひとというのはとてつもなく多いのだろう。多数派の女のひとたちから見て、見た目とか受け答えとか顔つきとか、何かしらの面でどうにもあまり女のひとらしくない感じのするひとというのは、全体の一割とか二割くらいいるのだろう。そして、学者とか研究者とかには発達障害のひとが多いのだろうし、情報を発信しているようなひとにも多いのだろうし、そういうひとたちは何でもかんでも男が女がと一般化するなと訴えるけれど、いかにも定型発達的でさほど傷付けられずに育ったひとたちの界隈では、それなりに女とはどういうものだと一般化できてしまう現象はあって、母性本能とかもそういうもののひとつなのだろうと思う。
 もちろん、発達障害的な傾向のあるひとは女のひとでも増え続けているのだろうし、これからは女のひとたちの多数派にも定型発達的ではない感覚はどんどん食い込んでくるのだろう。むしろ、今の子育て世代にだって、母性本能的なものに充分に背中を押してもらえない状態で子育てをしているひとたちがたくさんいて、そういうひとたちは男と同じように、愛着と責任感と自己イメージで子育てをしているから、子育てを苦しく思う度合いが高くて、そういうひとたちが中心になって子育ての不平等感が強く非難されるようになっているというのもあるのかもしれない。
 お腹が空いていなくても食べれば味はするけれど、食欲の充足とともに感じる味は格段に強い喜びを与えてくれる。同じように、母性本能が働いているひとは、大事な相手の世話をすると、肉体レベルでの充足感も一緒に発生することで喜びがより大きくなるというのはあるのだろう。逆に、母性本能があまり働いていないひとというのは、子供と接しているとなんとなく満たされたり、落ち着けたりするという見返りを得られていないから、子供の世話で苦労させられているという感覚ばかりが蓄積してしまうというのもあるのかもしれないのだ。子育てが自分にしっくりきて毎日楽しいひとでも、子育ての苦労が自分に集中すると不平等感で腹が立ってくるものだろうし、欲求が満たされるような感覚なしに子供の世話をしているひとたちは、もっとはるかに腹が立ってしまうのだろう。
 生まれてきて、父親と母親で同じように子供の世話をしたとしても、そういうような子育ての肉体的な手応えの違いがあるのだ。そして、生まれてくるまではもっとはっきりと子供との関わり方が違っている。お腹の中でどんどん大きくなって、生まれてくるまで身体の一部として一緒に生きて、そして、生まれてきても、自分の母乳でどんどん育っていくのを自分の腕の中で実感するのだ。家族だからとか、ずっと世話をしてきたからという以前に、肉体的に関係のある相手として愛しているのに、男親が自分だって母親と同じ愛情を持っていると主張する方が不自然だろう。
 産んだ女性にしか愛情を持つことはできないと言いたいわけじゃないんだよ。子供という誰かが守り育ててあげないと生きていけない存在を自分が守ってあげて、元気に幸せに育っていってくれることを願いながら世話をしていくということは、男女どちらもできるのだろう。そして、それこそが愛情なのだろう。そういう意味では男にも愛情はあるのだと思う。ただ、守ってあげたいという気持ちになっているとき、そのひとの中ではいろんな感情や衝動が動いているのだろうし、男女ともに子供を守ってあげようという気持ちはあるけれど、そこに含まれている感情の種類に違いはあるのだろうということなんだ。
 危険から守ってやるとか、言うことを聞けばかわいがってやるというのは、悲しい思いをしないでいいように守ってあげたいとか、触れ合って世話して甘やかしてあげたいというのとは別種の気持ちの動きだろう。何でもかんでも愛情だと思ってしまうと、どうして本人は愛しているつもりなのに、他人からは全然そうは見えなかったりするのかもわからなくなってしまう。男には愛情がないかのようであることだって、ただ男文化がクソだからだと思っているのでは、男のことがわからないばかりになる。そんなふうでは、この手紙のようなものを読んでいたって、どうして他人を自分の所有物のように思わずに、相手を尊重しながらいい関係になっていけた俺が、そこまでの感情がないからと、誰ともずっと一緒にいようと思えなかったのかということがまともに理解できないままになるのだと思う。
 男の多数派とは恋愛の価値観がそれなりに違ったからといって、俺は自分がどうしようもなく男的なものの感じ方をしているなと日々思いながら生活している。男の大半を自分のことしか感じていない嫌なやつらだと思っているからといって、女のひとたちの思うようなことのほとんどに、自分はそんなふうに思ったりしないなと思っているのだ。俺の気分や感情の動き方が男の肉体の定型的なものの範囲に収まっていることと、俺の中にありえる愛情の形はどうしたってひとつながりのものなのだ。




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