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近藤丸
2022年9月2日 15:30
【愚痴のようなメモ・忘備録です】(不快要素あり)自分は仏教の言葉から感じたことをマンガにしてきたのであるが、今でも、その漫画を引用してくれて、記事を書いたりやツイートをしてくれる人がいる。そのこと自体はありがたいことだし、自分もそれをどこか「ねらって」書いていたところがあると思う。しかし、なんだかモヤモヤすることがある。それは引用することに対するモヤモヤではなくて、次のようなことが
2022年5月6日 00:07
(日記)売野機子先生の『ルポルタージュ』という漫画が本当に素晴らしい。この漫画は何か特別な力を感じる。読んでいて人類への祈りのようなものを感じるのである。近未来の世界。テロが日常的に起る世界で、亡くなった人の半生をルポルタージュとして書いていく女性記者の話である。読んでいて、泣けて泣けて仕方ない。人類への慈しみを感じるんのである。沢山の人類ではなくて、一人一人の人生。一人一人の人生に
2021年12月27日 12:40
昔から、飲み会等大人数が集まる場が非常に苦手である。その理由は、飲み会で話すことが無くて、ずーっと聞き役になってしまって、一言も話ができずみじめな気持ちになってしまうからだ。皆が楽しそうに話しているのを自分は笑って聞いているだけ、その事が何だかつらかった。あれ?俺もしかして…バカなんじゃないのか。一言もみんなに提供すべきことがない。1人で居るときは気にならないんだけど、誰かといると、話
2021年7月10日 10:11
仏教を漫画にすることは、水や空気を商品にすることとどこか似ている。それは、人間が私有するべきものではない、私有してはならないし、私有するとどこか歪む。漫画にしたら私有されるわけではない。しかし、どこかにその匂いがある。油断していると、そこに私利私欲が入り込んでしまう。いやそのつもりが無くてもそうなってしまうのだと思う。だから、教えを表現しようとするならば、長い時間をかけてそこに私利私欲が入り込
2021年6月13日 14:44
恥ずかしい話、自分はそれこそ10代で学んでおくべきだったことを全然やらずに通過してきたと思っている。例えば小学校の頃から友達を積極的に作ることもしなかったし、中学、高校では本当に心の許せる友人はほぼいなかった。大学時代はもっとひどくなり、ほぼ四年間一人ですごしていた。今考えると、卑屈さと自意識過剰の中を往復するようなあり方をしていた。それではいけないとどこかで分かっていたので、人と直接関係する
2021年2月23日 00:28
仏教の漫画をきっかけに、仏教に興味を持ってくれた人がいるのは良かったのだけれど、これを手放しで喜んでいいのかなとも思う。なにか後ろめたさがある。その後ろめたさを大事にしないといけないとも思う。というのは、たまにこういう声を頂くのだ。「難しいお経よりも、分かりやすくい言葉だけでいい」「お経よりもこういうのが良い」違うんだ…。そうじゃないんだ。こうした言葉になにかモヤモヤするのだ…。そういう風
2020年10月27日 10:01
以前のnoteでも書いたのだが、今年の5月から半年間コルクラボマンガ専科という漫画の教室に通って来た。先日(10月25日)そのマンガ専科の最終講義があった。とても心に残るものだった。講義の前に参加者達が最終課題の32頁のマンガを描いて提出しており、その漫画に対して講師陣の3人(編集者の佐渡島さん、マンガの学校をされているごとうさん、文章表現・コミュニケーションインストラクターの山田ズーニーさん