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日記 2021/06/13

恥ずかしい話、自分はそれこそ10代で学んでおくべきだったことを全然やらずに通過してきたと思っている。例えば小学校の頃から友達を積極的に作ることもしなかったし、中学、高校では本当に心の許せる友人はほぼいなかった。大学時代はもっとひどくなり、ほぼ四年間一人ですごしていた。

今考えると、卑屈さと自意識過剰の中を往復するようなあり方をしていた。それではいけないとどこかで分かっていたので、人と直接関係することは避けていたが、一方で本を読むことによって人間を学ぼうとはしてきたのかもしれない。
なので、仏教を学んだのも、何か自分の人生の「一発逆転」を狙う的なところがあったような気もする。そこが自分の求道における怪しさでもある。つまり変身願望の一貫として「仏道を求める」という部分がないとも言えないのである。
その一方で、信仰を持つ人の姿に何か大事なものを感じたのも事実だ。人生全体に対する虚しさを超える道は仏教しかないという確信のようなものがあった。不純粋な思いも混じっていたことは確かだが、その一方で釈迦や親鸞の生き方に純粋に大切なものを感じる部分もあった。

SNSなどで偉そうなことを言っている私だが、その実、人としては非常に未熟であり、普段の生活もとても人に見せられないような酷いものである。


最近考えるのは「人は自分が不安だから他者からの承認を必要とするということがあるのではないか」ということだ。自分が間違っていないという事を証明するために他者の承認を求めてしまうということだ。昨年来漫画を描いてきたのであるが、今まで創作の学びや経験をくぐってきていないものだから、おそらく創作を続けてきた人や芸術を学んできた人たちがとっくに経験しているであろう創作の難点のような部分を今考えているように思う。

昨年来漫画を描き始めた。そのときとにかく量を描くことで上手くなると色々な方からアドバイスを受けて、描けるものを毎日のように描くようにしていた。(それ自体はいい事だったのだけれど)しかし今振り返ってみると、その時描いた作品の多くは、何か自分の承認欲求を満たすために描いていたところがあったことに気づいた。それが必ずしも悪いことではないのだけれど、私の場合仏教を題材に作品を描いているので、そこに何か問題があるように思う。

例えば、人の死を創作の題材にするとき、相当に慎重な姿勢が必要だと思う。人の死を軽く扱ってはいけない。死には存在の重さがあるからだと思う。死を軽く扱う創作ははっきりって下品だ。

仏教の教えを言葉にする、あるいは絵や漫画にするというというときにも、死を扱う時と同等な慎重さが必要だと感じる。やっぱりそうありたい。

それは、仏教は命を扱う教えだからだ。人間の根本問題とは何かということを真剣に考えた人たちが紡いできた教え、あるいは大事にしてきた教えが仏教だ。

ところが、自分はどこか仏教を漫画にすること自体が目的になってしまっていたところがあって、これがめちゃくちゃやばい。自分のことでありながら相当にやばいと気づいた。危ない。

別に、そうしたい人はそうしたら良いし、やっても良いと思うんだけど、自分がやりたいことはそういうことじゃないでしょうと思った。

もちろん、仏教の教えは時代時代によって表現され直していくべきだと思う。いつの時代にも、その時にあった表現で、お釈迦様の教えを受け取り再解釈する人がいて教えは伝わる。なので、仏教の論文を描いたり、詩や小説にしたりすることはとても大事なことだ。また、現代であれば映像作品や漫画も大いに作られていくべきだと思う。

しかし、そのときに大事なのは、言葉や表現を相当慎重にするということだ。仏教を大切に扱うということそのものが大事な事である。で、自分がしたいのはスルスルと仏教を漫画にすることではなくて、丁寧に学び、解釈し、表現することだと気づいた。丁寧に言葉を選ぶことだ。

今、国の中枢にいる人たちは、例えば「人流」や「三密」「テレワーク・デイズ」のようなインパクトのある言葉を、人を動かすためにインスタントに作り出しているように思う。

言ってみれば、仏教の言葉に対する態度はそれと逆ではないだろうか。
人を動かしたいがために簡単に言葉を作るような態度は言葉を軽く扱うことだ。
仏教はそうした態度は取らないはずだ。そして、漫画を作るときに必要なのはそうした慎重さだ。
その慎重な表現をしないならば、漫画にすることにほとんど意味はない。たとえ、作品が人口に膾炙するようなことがあっても、そのような安直な表現ならばそれは仏法を貶めることにならないか。(ただこれはあくまでも自分に言っていることである、他の人を批判したいわけではない。)
自分がどこかで自分の表現が「嫌だなぁ」「違うなぁ」と感じているのは、そうした安直さだった。
エッセイや創作なら何を描いても良いと思うのだ(もちろんそこにも倫理が必要)。ただ、これまで多くの人たちが本当に大事にしてきた教えである仏教を扱う以上、その扱い方自体に決定的に大事な点がある。その点を外すならば、自己が仏法を、そして自分自身を貶めることになる。


ようやく、私はその段階のことを気づいた。創作を真剣にやっている人ならば、とうの昔に気づいているであろうことであるが、私はそれに気づくのに1年以上かかった。

(終)


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