近藤丸

問い合わせ・連絡先  kondoumaru7@gmail.com

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マガジン

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    日記・忘備録 等

  • コラム・エッセイ

    コラムやエッセイ、授業で紹介する言葉などをまとめています。

  • 仏教マンガの可能性と問題点

    筆者は、仏教の言葉と出会って感じたこと等をマンガにすることをしてきたが、その過程で、仏教のことをマンガにする事には可能性もあると同時に、いくつかの問題点もあることも感じるようになった。そのことを忘備録として記録しておきたい。

  • 教材研究

    授業の教材研究の資料やメモ

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「茶化さないで」対話をしたことが、果たしてあっただろうか?

私が好きなラジオに荻上チキさんのセッションという番組がある。 TBSラジオで、平日の15:30から放送している。南部広美さんと、荻上チキさんの掛け合いで進むニュースが多めの番組である。ニュースや時事問題の裏側まで追っていこうとしている素晴らしい番組で、ラジオだからこそじっくり時間をかけて報道できるのだと思う。誠実な番組である。自分はセッションと、同じくTBSのアシタノカレッジをradikoで聞いている。 さて、今日のセッションの放送の中で、荻上さんが大切な事を言っていて、

    • 三木清の「親鸞」を読んで⑴

      「宗教」とは何か、また「宗教とどのように向き合うか」ということについて、思想家の三木清が(1897-1945)が親鸞に関する論考の中でかなり述べていることを知る。三木の宗教論を再検討することは、今日重要なことだと気づかされる。そこで子安宣邦『三木清遺稿「親鸞」死と伝統について』を呼んだ中から、気になった言葉をここにメモしておきたい。 三木の問題意識は非常に興味深い。三木は親鸞の仏教が人間味があると言われることについて、留保が必要だという。確かに彼の文章は人間味があると三木も

      • 始まりは、人間の最高の能力なのだ。始まりは人間の自由と同一のものである。 (ハンナ・アーレント『全体主義の起源』) どんな人もみな始まりを生きることができるのです。どんな苦しみの中でも新しく始めることができます。自由をなすものが人間なのです。(宮下晴輝『はじめての仏教学』)

        • 如来のまなざしと人間のまなざしー見るものから観られるものへー

          「人間がまなざす」ということについて、考えさせられる文章があったのでメモしておきたい。 大竹氏、松原氏は、『現代の不安を生きる』の中で、視線には所有の意味があるとサルトルが指摘しているという。確かに、視線は一種の暴力にもなりうる。「パノプティコン」は一方的に監視するという牢獄であり暴力である。現代の学校では牢獄のシステムや知見を利用している。しかし、また眼差しは「愛」でもある。幼い子供は親に見られている中で安心できるのである。 ところで、阿弥陀如来の衆生の見方は「覩見」で

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        「茶化さないで」対話をしたことが、果たしてあっただろうか?

        • 三木清の「親鸞」を読んで⑴

        • 始まりは、人間の最高の能力なのだ。始まりは人間の自由と同一のものである。 (ハンナ・アーレント『全体主義の起源』) どんな人もみな始まりを生きることができるのです。どんな苦しみの中でも新しく始めることができます。自由をなすものが人間なのです。(宮下晴輝『はじめての仏教学』)

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          今日のことば

          安田理深先生の『信仰的実存』という本を読んでいる。 心に残った言葉があったのでメモしておきたい。 「真に一人であるものが他と交ることができる。他と交ることの出来んものが人と一緒になれば、利用するだけです。」この言葉が非常に重い、私たちは本当の独立者になれない。独立していないのに、寂しいからと言って人と交わると、必ずそれは利用になっていく。これは真理である。

          今日のことば

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅣ(仏教マンガの問題点再考④)

          千葉雅也さんのファッションに関する論考が、自分がずっとモヤモヤしていた今のSNSや、また何かバズを狙おうとする仏教界にもある(自分の中にもある)危なさをすごく言い当てているものだった。非常に考えさせられたので、忘備録的に置いておきたい。(メモのためとてつもなく長いです) 以下抜粋、引用。 今日のファッション文化、および衣服や身体を取り巻く環境無駄を楽しむことの消失 ►ほしい服が出尽くしてしまって、もうほしい服があまり無いという時代に来ている。あと残っているのは昔のアーカ

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅣ(仏教マンガの問題点再考④)

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅢ(仏教マンガの問題点再考③)

          今度、ある場所で、漫画と仏教についての講義をしなければならない。その準備のため、思いついたことをここに忘備録としてメモしておきたい。 仏教の教義をマンガにしたものがなぜあまりないのか?と若い頃の自分はいぶかしく思っていた。教えの中身を知りたいのに、教えの中身を説いてくれるマンガはあまり無い。仏教に関する漫画があるとしても、それは仏教に関する文化やあるある話を扱う位であり、ど真ん中の教えを説いてくれるマンガはあまりない。そのことをいぶかしく思っていた。しかし私がいわゆる教えの

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅢ(仏教マンガの問題点再考③)

          Youtubeを観ていたら、ミソジニー動画がオススメに出てきて、かなりの人に観られていて恐ろしい気持ちになる。人間の差別感情や悪意を刺激するような動画がどんどん作られ、それが「お金になる」ということが、今という時代のどうしようもなさだと思う。人間存在がはずかしめられている。

          Youtubeを観ていたら、ミソジニー動画がオススメに出てきて、かなりの人に観られていて恐ろしい気持ちになる。人間の差別感情や悪意を刺激するような動画がどんどん作られ、それが「お金になる」ということが、今という時代のどうしようもなさだと思う。人間存在がはずかしめられている。

          共にが共ににならないという問題を教えられた記事

          親鸞は、『教行信証』 「化身土巻」に道綽禅師の『安楽集』を引用されている。それによると、末法の時代にはいると、次のようになると言われている。 教学研究所から発行されている『ともしび』2019年9月号を読んでいたら、この言葉が紹介されていた。著者の佐野氏は、「聞くものがいなくなるということです。聞くものがいなくなると、そこに道を求める者がいなくなるということになります。末法において減尽していくような衆生を、道綽禅師はさらに「痛焼の衆生」という言葉でお示しになっています。…末法

          共にが共ににならないという問題を教えられた記事

          「自己肯定感の授業」から考えたいこと

          自己肯定感が、誰かと比較したうえで自分の有用性を認められたところに得られるものだとしたらそれでは話にならないのである。 誰かが言うような自己肯定感ではダメなのではないか。 前向きになるとか、比較するとかそういうことがそもそもあんまり意味がないと腹落ちしなければ、そこから自己肯定感を考えなければあんまり意味がないのであろう。ということを、以下のニュースを見て思った。高校で自己肯定感を高め自殺防止をすると言う授業が行われているらしい。これ自体は素晴らしいことであり、こういう取り組

          「自己肯定感の授業」から考えたいこと

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅡ(仏教マンガの問題点再考②)

          今度、ある場所で、漫画と仏教についての話をしなければならないため、思いついたことをここに忘備録としてメモしておきたい。 仏教の話や言葉をマンガにすることのある意味の危なさというものは、浄土真宗の教えを聞いているからこそ起こるものではないかと考えられる。 ある先生から、繰り返し教えてもらっているところであるが、浄土の救済というのは心境の問題ではないのだ。人間の心境の問題ではない。喜べたとか、喜べないとかそういうことを問題にしない教えである。仏が求めているのはただ「念仏してく

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅡ(仏教マンガの問題点再考②)

          日記2023.11.15わかりやすいほうがいいって本当なのだろうか?

          「わかりやすいほうがいい」 「若い人はわかりやすい仏教の教えを求めている」 こういう言説を聞くことがあるが、これは本当なのだろうか? 若い人をなめているのではないだろうか? 「わかりやすさ」に辟易しているということもあるのではないだろうか? 例えば生徒たちの中には「僕(私)コミュ障なんです」という者がいる。 しかし、「コミュ障」という言葉で自分をわかりやすくまとめてはいけない。 「あなたはコミュ障なんて言う言葉でくくれないもっと複雑な存在なんだ」という言葉によって救われ

          日記2023.11.15わかりやすいほうがいいって本当なのだろうか?

          いのちについて考えさせられる新聞記事

          新聞記事に、非常に考えさせられるものがあったのでメモしておきたい。 一匹の鶏に与えられたスペースはわずかB5用紙1枚程度であり、ぎちぎちのケージの中でその中で一生を終える。人間が卵を食べる為だけに生み出され、一生を終えていく。職員一人が管理する鶏の数が10万羽ということにも何だか恐ろしいものを感じる。もう、一匹一匹を見るということがとうてい出来ない数字である…。 こうした鳥の命をどう考えたらいいのだろうか。われわれの社会は命をこのように扱う社会である。こういう中でどのように

          いのちについて考えさせられる新聞記事

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅠ(仏教マンガの問題点再考①)

          仏教とマンガについて講義しなければならない機会があるので、メモとして考えたことを置いておきたい。 仏教とマンガは実は相性が悪いと思っている。それは、おそらく漫画は一瞬を切り取るメディアだからだと思う。それは漫画の特徴で良さなのだと思う。切り取ることが出来る、一瞬を切り取る。しかし、それは同時に何か膨大なものを捨てて行く事でもあるのだ。しかも同時にそこに、描く者(作者)の自我・エゴが入らざるを得ない。そこが魅力でもあり、逆に作者のエゴがすべて見えてしまうので、一歩間違えれば、

          マンガ表現と仏教の相容れなさⅠ(仏教マンガの問題点再考①)

          人間における回復-アングリマーラの救済の物語を通して-

          瓜生津隆真先生の本を読んでいて、教えられるところがあったのでメモしておきたい。仏典に登場する「アングリマーラの物語」の話である。この話を通して仏教における救済の特徴が考えさせられる。 アングリマーラは、殺人鬼になってしまったが、ここに人間の業の問題を考えさせられる。もしアングリマーラの先生がもっと嫉妬深い人でなかったら、アングリマーラがこんなにも純粋でなければ。おそらく彼は殺人鬼にはならなかった。しかしいろいろな縁が重なって、アングリマーラは人を殺した。これは他人ごとではな

          人間における回復-アングリマーラの救済の物語を通して-

          自他を愛することの最も基礎的な修練

          瀧波ユカリさんの言葉 今日であった瀧波ユカリさんの言葉にうならせられた。 瀧波さんは、自分を愛するということは「自分に向かって しね と言わないこと」だと言う。これはすごく大切な話だと思った。自分からは出てこない眼である。 愛するということを私たちはロマンチックに考えすぎという言葉が刺さる。愛する形には色々なものがある。そして、自分に死ねといわずに自分を扱うということも、愛する形だという。愛というのは間違いなく修練だと思う。愛するということはある種の修練のように続けて行かな

          自他を愛することの最も基礎的な修練