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友だちについて 

昨日、「シリーズケアをひらく『安全に狂う方法』(医学書院)刊行記念 赤坂真理×松本俊彦トークイベント「小さく死んで生き延びるために」」というイベントにオンラインで参加した。とても面白かった。

最近赤坂真理さんが、医学書院から、『安全に狂う方法』という本を出版された。赤坂さん自身が、関係性のアディクションに苦しんでいて、そのアディクションからどういう風に回復したか、あるいは付き合っていけるようになったかが書かれていて、この本には自分のことが書かれていると思った。
ガツンとくる読書体験だった。
今までアディクションと思っていなかったものに、赤坂さんにアディクションと名付けてもらうことによって、自分を客観的に見ることができた。

昨日の赤坂さんの話で印象的だったのは、アディクションと自覚することで自分の問題性に距離をとることができるということであった。
アディクションと理解しないうちは、その自分の問題と完全に固着してしまっている。しかし、それを課題として自覚できるようになると、少し隙間ができる。そのことが大事なのだという話であった。

赤坂さんは、恋愛アディクションだったそうだ。それは関係性のアディクションだ。すべての関係を恋愛っぽくしてしまうというのだ。これは自分にも非常に心当たりがあるものだった。
赤坂さんは、同性異性関係なくすべての関係を恋愛のような関係性にもっていってしまうので、最終的に関係がいつも壊れてしまうと。これは、よく考えると大変なことだ。例えば先生のような人にも試し行動をしたり、友達であるべき人にも、まるで彼女・彼氏であるように固着してしまう。そのような関係性しか築くことができなければ生きづらいであろう(しかし、こういう関係性しかつくれない人というのは残念ながら珍しいことではないだろう)。

あと、昨日のトークでは、emotion anonymous という言葉を知った。

感情の問題で困っている人の自助グループもあるということだった。関西にもあるそうだ。

オーバードーズの問題

それから印象的だったのは、松本先生が言っていたこと。
今市販薬によるオーバードーズが大きな問題になっているらしい。
市販薬による、薬物依存は、違法薬物による依存よりも、ある面からすると危ないということだった。どういうことなのか?
それは、こういうことらしい。
市販薬は、とても簡単に買えてしまう。そこには誰も仲介する必要がない。ドラッグストアの店頭で買うことができる。
そこではいかなる人間関係も生まれないし、人間関係を学ぶ必要がないというのだ。
今まで違法薬物を買うときだったら。それを買うために、そこにおいて人間関係を学ぶ必要があった。ディーラーと仲良くなったり、うまい人間関係を築いたり、色々なことをやりくりしないと、薬物は手に入らなかったそうだ。そのため、危ない薬の界隈で人間関係について学べるので、アディクションから回復した時には、違法薬物をやっていた人(特に若い人に関して)のほうが社会復帰しやすいそうだ。それは関係の技術は学んでいるから。ところが、市販薬による、アディクションの場合、そういう面倒さが何一つない。人間関係を学ばぬまま、一人きりでアディクションになる。これが危ないらしい。社会復帰もしにくい。このあたりのことをもう少し聞きたいなと思ったけれども、「孤立する」「一人きりでやる」という所がマズいのだろう。

このように、オーバードーズという領域においても社会における孤立化が起こっている。松本先生はこれはドラッグストア業界の問題でもあると言っていた。今までは、薬剤師が販売もしなければならなかった。ところが規制緩和によって、登録販売者という資格さえ取ればだれでも販売できるようになった。小学生でも登録販売者はとれるそうだ。そのせいで、巨大なドラッグストアが乱立した。そのことによって市販薬による、オーバードーズが可能になったのだという。これは構造的な問題だそうだ。

友だちがいないという問題

そのあと、寝ようと思ったら、ニュースで恐ろしい事件をやっていた。
このようなニュースはメンタルによくないので、あまり目を通さないようにしているのだが、つい見てしまった。

品川で、離婚を切り出された夫が、妻と子ども3人を殺してしまったというのだ。あまりに残酷な事件で苦しくなるし目を覆いたくなる。
思ったのは、このような事件は女性は起こさないのではないかということ。
男性だからこのような事件を起こすのではないかということ。
もしこの男性に、話し相手がいたら、相談相手がいたら、気軽にバカ話できる友達がいたら、このような事件は起こっていなかったのではないか。もっと何とかなっていたのではないかと思うのである。

あくまでも本当のところはわからない。
男性の友人関係一般の話をすると、男性は、仕事をし始めてから友達関係を築くのが非常に難しくなると聞いたことがあるし、実感としてもある(cf.トーマス・ジョイナー著『男はなぜ孤独死するのか 男たちの成功の代償』)。男性は、緩いつながりの友達を作るのが女性よりも下手だと思う。仕事関係か、家族かという人が多いように思う。そうすると、つながりの関係の先がどうしても家族や恋愛相手に集中してしまうということがあるように思う。そうするとその関係が絶たれたときに、自分の世界が絶たれるように思うのではないか。もしその時に、緩いつながりがいっぱいあったり、そんな馬鹿なこと考えるなということを言ってくれる友だちがいれば、こんなに極端なことをせずに済んだのではないだろうか…。と思わずにいられない。そしてこの話が昨日聞いた赤坂さんの話とつながるのだ。この男性もまさに、関係性へのアディクションになっていたのではないだろうか。

男性が、友達を作ることができにくい、仕事と家族だけになってしまいがち、ということは社会問題の一つだと思う。
もちろん、それは個人差があるだろうし(男性でも友達が多い人はたくさんいる)、個人個人の努力の問題でもある。しかし、男性は仕事中心と思われてきた社会構造の問題も無関係ではないように思うのだ。

仏教における友の問題

こういうことは、仏教においてもあまり、問題化されない。しかし、特に近代に入ってからは、独立した個を作り上げるという文脈で親鸞も読まれてきた。戦中までの国家主義を超克するための個人の信仰ということが強調されてきたように思う。それ自体は間違ったことではないし、仏教そのものが自己探求的な性格を持っている。しかし、それだけでは、やはり仏教が個人的なものになりがちという面もあると思う。

これからは、僧伽とか、共同体のことをもう一度考え直していかないといけないのではないだろうか。仏教における友だちというか、仏教をハブとしてどのような友だち関係を築いていくのか。信心においてどのような他者との関係性が開かれるのか。
仏教に目覚める時にどのような関係性が立ち上がるのか。そうしたことをもっと探求していくべきではないだろうか。
ひとまずは親鸞における友について考えてみたい。


また、松本俊彦先生の話でなるほどと思ったのは、資本主義とアディクションは結び付いているということ。例えば、F1のスポンサーはとてもお金がかかるらしいのだが、そのスポンサーになっているのは、タバコ会社やアルコールの会社が多い。いずれも、アディクションさせて儲ける会社である。ところが、現在、タバコやアルコール忌避によって、タバコ会社などはスポンサーになることが減っているそうだ。ところが、今度はどんな会社がスポンサーになっているかというと、例えば「レッドブル」だという。これもやはり、カフェイン中毒によって莫大な富を得ている会社である。
…確かにと思った。現在私たちの社会でのお金儲けは多くはいかに人を依存させて買い続けさせるかというところに目が向いている。例えばスマホやアプリゲームも同じ仕組みである。今、桁違いに儲けている会社はそういう会社だ。

そう考えると、例えば連続ドラマだって、次の回も見たくなるように作られているし、漫画もそうだ。
たぶん自分が作り手になれば無意識のうちに、ずっと見たくなる仕組みづくりをするだろう。そう考えると、私たちは人を依存させることをいつのまにか幸せと勘違いしてきたのではないかと考えさせられた。
しかし本当にしたいことはそういうことではないのではないか?
いかに人を依存させないか。それこそが本当に大切なことではないか。
いかに人を独立させるか。そのことに目を向けていきたい。



追記
今日綿矢りささんの講演会があったのに、すっかり忘れていて聞き逃してしまった。とても聞きたかった。綿矢さんは自分と同じ年齢で、そういう人が若い大学生にどういうことを語り掛けるのかを聞きたかった。
自分は大人が若い人に何を語り掛けるのかを聞きたいのだ。
そういう意味でやはり学校が好きなのだなと思った。

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