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研究メモ 長谷正當『本願とは何か』①
これは、雑多な読書・抜き書き メモである
とても心に残ったのが次の言葉「 われわれの生きている世界は我執に囚われた世界であり、「白骨累々たる世界」、死骸に満ちた世界である。それは「何ら生気のない世界、満足のない世界」(同前)、いつでも不満と怒りに満ちた世界である。そういう世界の中にあって、「有り難い」という思いが生じるのは、そこに、われわれの生きている世界を支配している原理とは異なった原理がはた
毎田周一の懺悔に関する言葉 (3)
以下は研究メモです 忘備録のため置いています
化土往生に関しての毎田周一の理解
→毎田は、一九願・二〇願のものは、いまだ不信にとどまっている。この不信が「懺悔」せられないと浄土往生ではないという。不信のものは、いったん化土へ往生して、そこで疑惑の罪を「懺悔」しなければ、真実報土へ往生は出来ないと説示する。
毎田周一の懺悔に関する言葉 (2)
以下は研究メモのため 雑多なメモ書きである
毎田は、徹底的な懺悔を通して、一念の横超に至るという。やはり親鸞との違いは、懺悔ができると考えているということではないだろうか。懺悔の転回を現在只今の真の一念に味わうべきであると述べる。しかしこれは、親鸞のの言う懺悔とは違う。
→疑惑の罪の懺悔される必要を述べており、その契機を化身土とみている。ここにも毎田の懺悔観の特徴がある。さらに、また、二益を一
毎田周一の懺悔に関する言葉
毎田における懺悔の一つは、到底この世では真理に到ることがない。死んでしかさとりに到ることができないという自覚である。この気づき、自己の罪悪性・生きている間は真実になどなれない我であったと気づくこと。この気づきが懺悔と呼ばれている。毎田はこれを「絶対否定」と言っているが、これは絶対否定なのだろうか?
毎田のいう「知的転換」とはどういう意味なのか?
「この絶対否定によってのみ、懺悔を通してのみ、金
研究メモ 海のように働く信心
マイケル・コンウェイ先生の言葉
マイケル・コンウェイ先生は、「私の信心ということを考えるときに、私の身で終わるというふうに思うんですけど、親鸞聖人は信心海とか海という言葉を使います。自分の身を完全に包むような大きな用き、大きな場ですよね」とおっしゃる。私に用く信心が、私の身で終わらない。個人所有で終わらない。その心が海のように展開しているので、私を包んで用いていているというのである。
マイケル
毎田周一の言葉⑶ 往生・死について
毎田周一の文章を読んでいるが、かなり難解でわからない。
毎田は学問的に真宗・仏教について学んでいるわけではなく、文章を読んでいると、概念規定などをすっ飛ばして自分の直観で書いているように思う。そのため、ついていきがたいというか、その意味を想像せざるを得ないところがたくさんあるように思う。
また、厳しい自己確立を迫るような文章に感じられ、現在の私たちがよむと、かなり厳しいと感じるし、何か「死」とかを
毎田周一 懺悔について⑴
今思想家の毎田周一が懺悔ということをどう考えたか調べているが、毎田は懺悔に関して多様に語っており、それらを統一的に見ることは難しい。可能なのは広く資料にあたり、前田の懺悔の諸相を描写することであろう。
毎田の懺悔思想において、重要な資料となるのは論文「親鸞聖人論ー教行信証信巻末懺悔の研究ー」『全集』四pp.541-558である。
今回は、この論文に収められているいる、文章を抜き書きしていきたい。
研究メモ 「他力釈」①
「他力釈」に何が書かれているのか?
『教行信証』「証巻」の結釈に次のような文章がある。
ここで、親鸞が「他利利他の深義」と示すものは、曇鸞著『論註』の「利行満足章」にある文章のことを指す。かかる文言は、「行巻」の「他力釈」に引用されており、この「他利利他の深義」が親鸞思想における「利他」概念の理解に大きな影響を与えていると考えられる。そこで、「他力釈」において利他がどう語られているのかを見てい
「一乗海釈」に学ぶ⑴
親鸞『教行信証』「行巻」にある、「一乗海釈」は、その直前にある、「他力釈」と大きく関係していることに気づくかされた。
まず本文を示す。
特に注目したいのは、親鸞の自釈である以下の部分である。
この部分において、海の用きということが示されている。
まず、私たちのありようが、
久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて
と示されている。この部分に注目したい
「信仰というものは、九十パーセントの疑いと十パーセントの希望だ」
小説家ベルナソスの言葉
今日NHKの『100分de宗教論』という番組を観ていたら出て来た言葉。
非常に大切である。常に揺れ動き、疑う私たち。疑いの中にも宗教の歩みがある。疑うことこそが大切なのだ。
舐めているのと怯えているのは同じ
本田由紀先生の言葉が非常に今の自分に刺さる。自分にも、その人の前に出ると怯えてしまう人がいる。しかしそれは相手を野蛮で理解不能な人間と見ているのだと。敬意を払うべき人間と見ていないと。たしかに、自分が怯えている相手は、自分のこと舐めているんだろうなと、こっちが思って怯えているけど、それは相手にも伝わっていて。それだから、いつまでたっても敬意を持った関係にならない。
そういうことをもういい大人だから
Phaさんの『パーティーが終わって、中年が始まる』を読んだ
Phaさんの新刊を読んだ。
40代半ばを過ぎて、Phaさんに起こった心境の変化がつらつらと書かれたエッセイ。自分もいつのまにか40歳になって、体や心の変化があらわれてきて、なんだこれはと思っていたので、すごく考えさせられる部分や納得させられる部分が多かった。人の考えを知ることは面白いなと思わされる読書体験だった。心に残った言葉をいくつかメモしておきたい。
ここは焦った。自分はいまだに俺ダメな人
久しぶりにマンガを描きました。『絶望のトリセツ』(法蔵館)7/25刊
久しぶりにマンガを描きました。法蔵館から『絶望のトリセツ』という本が7月25日に発売されます。
希死念慮者の話を長年聴き続けてきた根本一徹(臨済僧)さんの著書です。本のマンガ部分を担当しました。宗派は違えど、大切な活動をされておられる方で、こんな僧侶がいるんだと驚きました。
共著者の川本佳苗さんは、お世話になった先輩で、尊敬する研究者です。仏教倫理について精力的に研究を続けておられます。自死の