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なぜ手を合わせるのか、織田先生のコラムから

名古屋御坊4月号織田先生の記事が心に残ったので転載させて頂きたい

Q.お参りの時、手を合わせるのはなぜですか?
手を合わせることを「合掌」と言いますね。これを宗教行事として、小学校の給食で合掌するのは憲法が保証する信教の自由に反すると言って議論したことがあったそうですが、もとはインドにおける尊敬表現で、九つあったうちの第四に説かれたものです。この九つの尊敬表現は、膝を屈するとか、身体を投げ出すなど全身に関係するもので、特に手に限ったものではありません。
では、尊敬表現として手を合わせることにどのような意味があるのでしょうか?人は他の動物と違って、手によって様々なモノを作り、その結果文明生活を営んでいます。こうした手の力は、私たちの考え、心を形にします。その人の心は、上か下か、損か得か、良いか悪いかといった具合に、常にヤジロベエのように二辺に揺れ動いてとどまることがありません。普段、あまり意識していないかもしれませんが、「コロコロ動く」から「こころ」というと言った説があるのだそうです。このように二辺に揺れ動く心に振り回されて、いつの間にか時が経ってしまうというのが私たちの日常ではないでしょうか。
仏教語で、知らず知らずのうちに時が過ぎてしまうことを「空過(むなしく過ぎる)」と言います。心が一つのところに静止して落ち着き合掌し、改めて自分自身を振り返ることができる時、人は生きることの実感を得るのではないでしょうか。食べ物を頂く時、仏様に向かい合う時、大事なことを祈る時、私たちが合掌するのは、普段の散漫な心がふたごころなく純粋でありたい、それを大切なこととして尊びたいという願いを表しているのです。

織田顕祐「おたずねします。仏教・仏事のギモン31」『名古屋御坊』2024年4月号2頁

たしかに、もし、合掌がなかったら、私たちは普段気持ちが揺れ動いていることすらわからない。気持ちがコロコロ動いていることすら自覚できない。合掌というのは、何か本当に大切なものと向き合いたいということを表す姿なのである。それを示すことで相手と向き合おうとする自分を表現できる。またそれによって、以下に自分の心がコロコロしているか知れる。だから一日に少しの時間でも、自分の心を落ち着けようとする時間があることは大切なことなのであろう。



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