見出し画像

自分のやってることは大丈夫なのか?

仏教の漫画をきっかけに、仏教に興味を持ってくれた人がいるのは良かったのだけれど、これを手放しで喜んでいいのかなとも思う。なにか後ろめたさがある。その後ろめたさを大事にしないといけないとも思う。


というのは、たまにこういう声を頂くのだ。「難しいお経よりも、分かりやすくい言葉だけでいい」「お経よりもこういうのが良い」

違うんだ…。そうじゃないんだ。こうした言葉になにかモヤモヤするのだ…。そういう風に読んだ人に言わせてしまっている自分にもそれでいいのかと思う。こういう意見に対してはNOと言いたい。

「そうじゃないんです…、やっぱり難しいお経と時間をかけて向き合う必要があるんです。インスタントに答えてくれるような思想では人間の本当の悩みは解決されないんです。深い悩みに応えるのは深い思想だと思うんです。深い悲しみに応えるためには深い思索が必要だし、それに応えるような長い時間をかけて作られてきたような思想と対峙することが必要だと思うんです。」これは僕の意見ですが。もちろんインスタントなものに救われることも多々ある。

やはり仏教の原典・難しいと言われるお経こそが大事で丁寧に読む必要がある。

仏教を語る際に歴史や経典を軽視するといわゆる“スピリチュアル”的なものに接近してしまう怖さがある。”スピリチュアル”と一括りには出来ないしこの言葉自体もっと丁寧に考えていく必要がある。しかし、やはり、何か危うさがあるのも事実だ。というのは、スピリチュアルなものには「原典・経典」がない。長い歴史をかけて何人もの人によって裏付けられてきたような歴史・思想史が無い。そこに危うさがあると思っている。「言いたい放題」「何でもあり」という事になってしまわないか?(スピリチュアルな構えに根本的に感じる疑点は長い間蓄積されてきた叡智や学問よりも、今生きている人間の直感や考えを絶対化するように思えるということだ…。逆に人間を絶対化しているというのだろうか…)

そもそも、お経(お釈迦様の言葉をまとめたもの)を軽視するという事自体仏教徒として意味が分からないのだけれど、そういうことをしてしまう。それは原典に当たらずに、解説書だけ読むような態度だ。そうなるとそれはもう、仏教を道具化して売っているようなもので、自分の実存的課題を解決するという事とは離れていく気がする。

分かりやすい話感動する話は危ない…学的営為・歴史を軽視してはならない。

これに関しては、最近自分のマンガが占い師?や預言者みたいな人たちに引用されて「私が言いたかったことこれ」みたいに言われることがよくあって、なんかこれもモヤる。なんだかわからないのだが、モヤる。


今回はメモだけにしたのだが、この後ろめたさの正体を考えてみたい。

それから、一体スピリチュアルとは何なのか?これを学問的に考えてみる必要がある。

(終)








※【註釈】

[元になったつぶやき]

難しいと言われる仏教の原典こそが大事で丁寧に読む必要があると再認識。分かりやすい話、感動する話という形で仏教を語ることは“スピリチュアル”的なものに接近してしまう怖さがある。一括りには本来できないが危うさも感じる。学問的営為・歴史を軽視してはならないインスタントな思想からはインスタントな答えしか出ない




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?