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「モヤモヤする引用の仕方とは?」 2022/09/02日記

【愚痴のようなメモ・忘備録です】
(不快要素あり)

自分は仏教の言葉から感じたことをマンガにしてきたのであるが、
今でも、その漫画を引用してくれて、記事を書いたりやツイートをしてくれる人がいる。

そのこと自体はありがたいことだし、自分もそれをどこか「ねらって」書いていたところがあると思う。

しかし、なんだかモヤモヤすることがある。それは引用することに対するモヤモヤではなくて、次のようなことがよくあるからだ。
私の漫画を引用した後にエクスキューズのような形で

「ちなみに私は仏教徒ではありません、でもどんな教えでも良いものは良いし、取り入れられるところは採用したらいいのではないかと思います」

のような、一文が加えられることが、かなりの頻度であって、このことに何だかものすごくモヤモヤを感じるのである。心臓をギュッと握りつぶされるような感覚を覚えるのである。そしてそれは、自分自身がどこかで同じことをやっているからこその身の毛のよだつような嫌な感じがするだと思う。

つまり、「自分は決して宗教としての仏教を信仰するつもりはない、宗教と距離を取りながらよりよく生きていきたいのです。」
「仏教自体は恐ろしい、嫌悪するところもありますけれども、私はスマートに良く生きるために、仏教のいいところを取り入れて生きていきます」という宣言でもあろう。
ここに見え隠れするのは、信仰する人は自分とは違う領域の人であり、信仰者は理解しがたい人である。自分はそちら側には決して行きたくないし、そのように見られたくない。また仏教がどのような教えであるか、本当に深く理解していこうとすることの”放棄”でもあるだろう。他者理解をしようという思いがないことが透けて見えてしまうのである。ここに「現代の浅さ」「浅はかさ」が端的に表れているように思えてならない…。仏教とはそういうものなのだろうか…。その言説の一部を取り入れて、うまく生きていくための成功法のようなものなのか?
自分の人生の全体が問われることがなくて、仏教の教えの一部をうまいこと自分に取り入れるようなあり方そのものに親鸞はものすごく警戒しているのではないか。それは仏教に擬態した何か別の教えである。

そして、自分もマンガを描き始めたころは、「宗教とはその程度の関係でいいんです」という人に刺さるように、むしろ巧妙にそこを狙って描いていたのではないか?(そのことが非常に恐ろしい。)

自分を「宗教とは直接に関係しない」という領域に置いて、仏教のある意味で「かっこいい部分だけ」を取り入れるというありかたは、宗教や信仰者を全く理解しようとする気がないということだ。そして、このことが、何かそこはかとなく恐ろしく感じるのである。根無し草のように。

そして私も多分一緒なのである。体当たりで本当に仏教に向かうことなく、おいしいところだけをつまみ食いしようとしている。(これは資本主義の問題かもしれない。仏教の言葉も消費の対象でしかないということなのだろう。)
それは、実は今問題になっている「カルト宗教」とーーー他者を本当に理解しようとしないという意味で、自分を善き側においているという意味でーーーどこか似ているのである。これまで歴史上の人たちが生きてきた宗教を知ろうとするのではなくて、「宗教」を自分の知っている範囲に押し込めて語る態度にどこか問題がないか。そういうことが気になるのである。

仏教は決して「世間を生きるための通りを 良くするような教え」ではない。もしそういうものとして語っていたり、認識されるものになっているのだとすると、その時点ですでに何かおかしいかたちで解釈されているのではないか?「人生は苦だ」と語っているのが仏教である。

仏教とはあるいは宗教とは、やはり信仰という問題であろう。とはいえ、仏教はそういう「あいまいさ」も許すような教えであるようにも思う。あまりにも厳格に「教えとはこうである」となってしまうと、気軽な気持ちでは近づきがたいものになってしまう。

いずれにせよ、愚痴を言うだけではダメなのであり、自分は仏教・浄土真宗の信仰とはどのようなものなのか自分の言葉で顕らかにしていかなければならないのではないのか。自他に対して、どういうことが信仰なのか語る責任があると思うが、そこから逃げているのである。つまりは消費するにとどまっているように思う。

(終)










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