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エッセイ・評論など

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音楽、その他の芸術や社会問題についての評論やエッセイなど。力を入れて書いたものから、気軽に一気に書いたものまで。とりとめのない雑感も。
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#ピアノ

慎み深くあるということ──ジャン=クロード・ペヌティエ 80歳アニヴァーサリーリサイタル

慎み深くあるということ──ジャン=クロード・ペヌティエ 80歳アニヴァーサリーリサイタル

 二〇一四年から二〇一九年まで、毎年一度、幸運な年には二度、ピアニストのジャン=クロード・ペヌティエの生演奏を聴けたことは、私の生にとって、最も大きな救いのひとつだった。あの大きくはないが厚い手のひらのぬくもりに包まれたような音。圧倒的な内省が音楽に与える、実際の静寂以上の静寂。孤独への深い理解に比例した、何者をも問い詰めない大きな優しさ。演目や会場などによって、受ける感銘の深さや種類に差はあれど

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語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

 指定された座席に着いてプログラムを読んでいると、今日のピアニスト、アレクセイ・リュビモフがまだ会場に到着していないとのアナウンスが流れた。何かの事情で来日が遅れ、空港から直接会場に向かっており、二〇分押しの予定で、到着次第すぐに始めるという(四月十一日、五反田文化センター音楽ホール)。
 中止にはならないということにまず安心したが、飛行機を降りてそのまま会場に直行して、休息の時間もリハーサルもな

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「どちらにも踏み切らない場所」に立って

「どちらにも踏み切らない場所」に立って

 大学時代、想いを寄せていた人に、「SNSで常に誰かと繋がっているから、孤独じゃない」と確信に満ちた様子で言われて、何も言葉を返せなくなってしまったことがある。自分とこの人は、孤独という言葉の定義が違う、いやそれ以前に、見えている世界が決定的に違う。心惹かれながらも、どんなに会話を重ねても話が通じていない、自分という人間を理解してもらえていないもどかしさをどこかに感じていたが、その原因を発見してし

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〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

 少々時間が経ってしまったが、10月の初めにトッパンホールで開かれた、テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによる、「シューベルト3大歌曲チクルス」の第2夜《水車屋の美しき娘》を聴いた(10月3日)。このデュオの実演を聴くのは4年ぶりである。プレガルディエンは多くの曲を長2度下げて歌っており、前回よりさらにバリトンに近づいたことを感じさせたが、テクストを深く読み込み、音

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幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

 ピアニストは、その長い銀髪に暖色の照明を反射させながら椅子に座ると、会場の響きを確かめるように、ニ短調の主和音をそっと、ペダルをかけた軽やかなアルペッジョで弾いた。眼鏡をかけた白髪のヴァイオリニストは、そのアルペッジョがたんに音としてではなく、すでに音楽を含んでいるかのように美しく広がったからか、和音のAの音に合わせて調弦することなく、ただその余韻に耳を澄ませ、ピアニストに合図だけを送った。
 

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卒業の季節に

卒業の季節に

 五年前の春、大学院の修士課程に進学したばかりの頃のこと、夕方、大学の練習室でピアノの練習していると、教務の女性と彼女に連れられた母娘が、ノックをして入ってきた。学校見学に来たのだという。
 その母娘は当然、私のことなど知らないので、私を知っている教務の女性が、ごく簡単に紹介した。そして、「せっかくだから、何か一曲」と演奏を求められた。
 この半年ほど前にも、同じことがあった。「たまたま練習してい

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自分が弾く意味

自分が弾く意味

「君より弾ける人、基本的なことができている人はたくさんいるよ。中身はどうだか知らないけど」
 大学入学前、厳しい恩師にお世話になったお礼のあいさつに伺ったときに、そう言われた。
 自分のできる限りの範囲で、自分の好きな音楽をやろう。そう思って入学した。注目されたいという気持ちは一切なかった。要するに野心がなかった。野心を抱くだけの力がそもそも自分にはないのだからという、若さに似合わぬ諦めもあった。

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メナヘム・プレスラー

メナヘム・プレスラー

 ピアニストのメナヘム・プレスラーの実演は、彼が93歳のとき、2017年10月16日にサントリーホールで開いたリサイタルを聴いたのみだが、その音楽の根底に息づいていた瑞々しい明るさは、今でも折々思い出している。
 大分時間が経ってしまっていて、当時もごく短いメモしか残していなかったので、当時感じた通りに精確に述べることは難しいが、とりわけ、前半が素晴らしかった。彼の芸風のためには会場が広すぎるとも

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「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

 傑出した芸術家は、無論みな非凡な才能を持っているわけだが、それを特に「天才」と呼びたくなるのは、どういった場合なのだろうか。
 哲学者のイマニュエル・カントは、『判断力批判』のなかで、天才を「芸術に規則を与える才能(自然の賜物〔天分〕)」(岩波文庫、篠田英雄訳)と定義している。カントによれば、天才は、訓練によって習得できるものではない独創であると同時に、それ自体がある規範や規則になるものである。

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追悼 レオン・フライシャー

追悼 レオン・フライシャー

「最後」というものには、最後であると予定されているものと、必ずしもその予定ではなかったが、それが最後になってしまったというものがある。
 2015年に聴いたピアニストで指揮者のレオン・フライシャーの演奏会は、結局、彼の最後の来日公演となってしまった。2015年11月20日、すみだトリフォニーホールで行われた新日フィルの定期演奏会に、指揮者およびソリストとして客演したときのことである。私は、「今まで

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共感を拒む孤絶した世界――ポゴレリッチのリサイタル

共感を拒む孤絶した世界――ポゴレリッチのリサイタル

 私たちは、何を求めて音楽を聴くのだろうか? 日常の喧騒からの逃避、圧倒的な美の体験など様々だろうが、音楽を通じて、表現者の内面に共感したい、という思いも大きいだろう。共感を覚えたとき、人は心満たされる。
 しかし、ピアニストのイーヴォ・ポゴレリッチの演奏には、他者からの共感を拒んですらいるような、孤絶した世界を感じる。凍てついた、仄暗く、磨りガラスのような音が、それを象徴している。2月16日のサ

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音楽が齎す静寂と対話――ペヌティエのリサイタル

音楽が齎す静寂と対話――ペヌティエのリサイタル

 現代は、物理的な意味においても、精神的な意味においても、日ごとに、「静寂」というものから遠ざかっている時代である。
 演奏会での静寂ーー音を発する前の、演奏中の背後に持続する、最後の一音が鳴り終わった後のーーには、何か特別なものを感じる。物理的には、人が(自分以外に)一人もいない状態で演奏している方が静かなはずだが、聴衆が入って、そこにいる人間のすべての集中がーー中には、すやすやと眠っている人な

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破壊のあとに残った美――アファナシエフのリサイタル

破壊のあとに残った美――アファナシエフのリサイタル

 ヴァレリー・アファナシエフの演奏は、好むと好まざるとに関わらず、聴き手のなかに大きな問いとなって残る。11月25日のリサイタル(紀尾井ホール)を聴いた。
 最初のハイドンのソナタ第20番ハ短調が弾き出された瞬間から、悲しみを歌うためだけに存在しているかのような音に引き込まれた。ペダリングやテンポ感をはじめ、一般に想像される古典的な演奏とはやはり全く違うが、音に透明で冷たい艶を纏わせ、ハイドンの音

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精神の危機を感じ取る――ペトルシャンスキーのリサイタル

精神の危機を感じ取る――ペトルシャンスキーのリサイタル

 芸術は、人を圧倒的な美の世界に惹き込む。特に音楽は、その不可視性ゆえに、美の陶酔を瞬時にもたらし、人を日常の喧騒から遠ざける力をもっている。
 しかし、エンタメはともかく、芸術としての演奏会や展覧会に、例えば昨今よく見られるような「癒しのひととき」などの宣伝文句があてられていると、どこか違和感を覚える。そもそも、人を癒すことが目的化された表現によっては、人は癒されないだろう。芸術は、美という言葉

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