見出し画像

共感を拒む孤絶した世界――ポゴレリッチのリサイタル

 私たちは、何を求めて音楽を聴くのだろうか? 日常の喧騒からの逃避、圧倒的な美の体験など様々だろうが、音楽を通じて、表現者の内面に共感したい、という思いも大きいだろう。共感を覚えたとき、人は心満たされる。
 しかし、ピアニストのイーヴォ・ポゴレリッチの演奏には、他者からの共感を拒んですらいるような、孤絶した世界を感じる。凍てついた、仄暗く、磨りガラスのような音が、それを象徴している。2月16日のサントリーホールでのリサイタルを聴いた。
 冒頭のバッハのイギリス組曲第3番は、硬質だが独特の広がりを感じさせる音で構造を浮き彫りにしてゆく演奏で、全体的には、ポゴレリッチの演奏についてしばしば強調される「変わった演奏」という印象はない。しかし、拍節が不明瞭なほどに遅いテンポで沈潜していったサラバンドなど、やはり危うい領域に入った部分もあったのだが、それが演奏の全体の中でどのような意味を持つのかが、明確ではなかったように思う。
 続くベートーヴェンのソナタ第11番は、バッハとは対照的に、全く構築的に弾かれなかった。全曲のどの瞬間もがカプリッチョのよう。聴き手を演奏に集中させて離さない手腕は見事だが、ベートーヴェンの堅牢な構成力を嘲笑しているような感触も残った。
 …と、前半は凄みを感じつつ、もう一つ説得力が感じられなかったのだが、後半では、彼のその孤絶した世界に圧倒されることとなった。
 後半の一曲目、ショパンの『舟歌』では、見事な声部の弾き分けが聴かれたが、その各声部が、調和するというよりも、それぞれがそれぞれの歌を別々に歌っているように弾かれている。聴いているうちに、それが、人と人とが関わり合えないことのメタファーのように感じられてくる。
 続いた前奏曲嬰ハ短調作品45では、ひんやりとした悲しみが会場に染み渡ってゆく。心がそうした感情で溢れてゆくのではなく、冷え切ってしまう。表出されているものが、悲しみや孤独であるということはわかっても、それがどういう悲しみなのかは、彼にしかわからない。
 プログラム最後はラヴェルの『夜のガスパール』。その凍てついた音でゆっくりと紡がれる中に幻想が立ち昇る「オンディーヌ」、すべての音を冷たい死の響きで染め上げてゆく「絞首台」と弾き進められ、闇に沈んでゆく。その闇の中から恐怖が噴出した最後の「スカルボ」に至っては、音楽だけでなく彼自身もが崩壊へと突き進んでゆくような、凄絶で危険な世界に入り込んでいた。
 ポゴレリッチの演奏は、他者が私を理解すること、私が他者を理解することの不可能性、つまり人間の絶対的な孤独を体現している。彼の演奏を聴くと、私たちがしばしば、自らの孤独から逃れたいがために目を背けている、人間の「わからなさ」に、向き合わされるのである。
 前半の演奏で、説得力が感じられなかったこともまた、彼が共感を拒んでいることの証左と言うこともできるのかもしれないーー全体を聴き終えて、そのようにも思った。

「スカルボ」が終わると、聴衆は熱狂したが、さるにても、このような破格で厳しい表現が、演奏によってなされた場合にはこれほど聴衆に好意的に受け入れられるのに、現代の音楽作品、つまり作曲によってなされた場合には受け入れられにくくなるのは、なぜなのだろうか?   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?