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音楽が齎す静寂と対話――ペヌティエのリサイタル

 現代は、物理的な意味においても、精神的な意味においても、日ごとに、「静寂」というものから遠ざかっている時代である。
 演奏会での静寂ーー音を発する前の、演奏中の背後に持続する、最後の一音が鳴り終わった後のーーには、何か特別なものを感じる。物理的には、人が(自分以外に)一人もいない状態で演奏している方が静かなはずだが、聴衆が入って、そこにいる人間のすべての集中がーー中には、すやすやと眠っている人などもいるかもしれない(!)がーー音楽に注がれていることで訪れる静寂、それに包み込まれるあの感覚は、他のことでは決して得られない。
 残念ながら、私の場合、演奏の度にその感覚を得られるわけではない。自分に問題があることが多いが、そうではないこともある。静寂の瞬間が訪れることと、その時間が持続することは、特別な非日常の体験である。
 聴衆の立場としても、こうした思いは同じである。逆説的だが、音楽において重要なことは、その音楽・演奏を聴いていて、実際の静寂以上の静寂ーー精神的な静けさを感じられるかどうかなのである。ただでさえ、日常が喧騒に包まれているのに、音楽によってさらに静寂から遠のくのなら、どうして音楽など聴く必要があるだろうか。人が音楽を聴くのには、様々な理由があるだろうが、最も大きな理由の一つには、音楽を聴くことでしか得られない精神的な静寂があるからということがあるだろう。

 昨年11月8日、ピアニストのジャン=クロード・ペヌティエのリサイタル(トッパンホール)を聴いていて、改めてそのことを感じた。というより、彼の演奏こそは、その静寂を、聴く者に常に齎(もたら)してくれるものではなかろうか。この騒々しい時代の中で、あれほどの精神の静けさを保っていられることには、畏敬の念を禁じ得ない。
 この日のプログラムはショパンとドビュッシー。ドビュッシーは、「ハンマーがついていることを忘れさせること」をピアノ演奏の理想としていたと言われているが、ペヌティエは、まさにそのドビュッシーの言葉を体現している。冒頭のドビュッシー『ベルガマスク組曲』から、彼の手のひらから直接音が生まれているのではないかと思うほどの、柔らかい響きが会場に広がった。
 とりわけ第3曲「月の光」は、全編がピアニッシモで紡がれ、夜の帷(とばり)が降り、そのしじまにあたりが満たされてゆき、音楽と自分だけがその静謐の空間に存在しているような感覚があった。慎ましくも光を放つ、慈しみをいっぱいに含んだその一つ一つの音粒が、心の隅々にまで水のように染み渡ってゆく。
 弱音だけではない。ショパンの『舟歌』のクライマックスのような場面でも、音量としてはフォルティシモであっても、その背後にある静けさは失われない。だからこそ、ショパンが一つのフレーズ、一つの和音、一粒の音を命がけで五線に置いたことが痛切に感じられ、こちらの胸のなかにもその想いが溢れ出す。
 ソプラノのような透き通った音で弾かれたショパンのノクターンや、実際の太陽の輝き以上に光のあたたかさ、輝かしさを感じさせたドビュッシー『版画』など、どの曲もが洗煉を極めていたが、同時に、親しい人の息遣いのようなものが感じられることに気づいた。ペヌティエは、音楽と聴き手をその大きな懐で受け止め、信じているのだろう。信じているから、語り口や歌い口が声高にならず、厳しさの中にも親密さが生まれる。だから、こちらも畏敬の念と同時に、親しみをもって音楽に寄り添うことができる。そして、ペヌティエと私との間に、音を通した対話が生まれる。
 音楽が齎す静寂のあるところにだけ生まれ得る、親密な対話がある。    

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