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満州からの手紙#1をお読みいただく前に

 これからお届けする150通の手紙は、昭和13年から当時通信兵として日ソ国境警備へと出兵した若き日本兵が、故郷(愛媛県宇和島市)に住む父母に宛てた手紙です。

 そこには一人子として遠く離れた戦地にありながら、故郷に残した父母への心温まる思いや、帰還を夢見る若者の恋の悩みと葛藤が生き生きとえがかれています。
また満州北部の悠々たる自然や日本兵の日常の描写など、コッケイとも言えるジョークを交え、美しくも壮大に描いた感動のドキュメンタリーです。

 時を超え現代によみがえった忠勝の思いを、老若男女の皆様、子育てに奮闘されているお母さん、受験勉強を頑張っている学生さん、そして今、戦争に翻弄され苦しみの中にいる皆様にお届けします。

 クスっと笑ってちょっとだけ涙して、また明日頑張ろうと少しだけ生きる力にしていただけたら幸いです。

プロフィール

善家 忠勝生誕

大正6年10月20日愛媛県宇和島市にて生誕。

父 善家 傳
愛媛県北宇和郡松町にて単身、電気会社の集金人として勤める。

母 イトヱ
愛媛県宇和島市和霊神社近くで裁縫学校を営み、女子学生に裁縫を教える。

中学校卒業

昭和11年、宇和島中学(現宇和島東高校)を第36期生として卒業する。在校時は柔道の名手として名を知られる。
卒業後は日大専へ。

宇和島中学第36期卒業アルバムより

日本陸軍入隊

昭和13年、日本陸軍に入隊。所属は松山歩兵第2連隊第1大隊第3中隊。

満州へ出兵

10月5日、松山市新玉小学校にて盛大な壮行会の後松山駅より満州へ向けて出兵する。

通信兵として第一線に

12月、満州国・ソ連国境の半截河にて通信兵どして国境警備の第一線に就く。

第15軍第55師団に編入

詳細は不明。

激戦地ビルマへ

昭和17年、激戦地ビルマでの戦闘に南方通信隊員として参加する。
その後、昭和18年2月25日にビルマ・アラカン州プチドン・アキャブにて戦死する。
南方通信隊伍長 行年29才。
遺骨は帰ることなく宇和島の港に小さな箱に入れられた石となり帰還する。

善家忠勝の墓
善家忠勝の墓の正面
善家忠勝の墓の左側面
善家忠勝の墓の右側面





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