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頭から煙が出そう~

ずーーーーっとダイバーシティ(特に職場においての)について考えたりしているんだけど、だいぶ煮詰まっている感がある。

私のnoteを読んでくれた友人たちが、メッセージや感想をくれると、みんな立場は違えど思うところはあって、それぞれについて「本当にその通りだよね」と思うと同時に、それが両立するのかいな、って思うと、それもまた難しいというループに入る。

いったい何が煮詰まっているのかというと、結局、人の立場というのはどんどんと変わっていくのだということ。

カテゴライズするのは好きではないのだけど、それでもカテゴライズを前提とした世の中になっているような気がするから一応カテゴライズしてみると、、、

例えば女の子が成長して「独身女性」というカテゴリーの人物になり、就職する。その人が結婚したら「既婚子なし女性」になり、子供が出来たら「既婚子持ち女性」になる。仮に離婚したら「独身子持ち女性」になり。離婚してもしなくても、子供が大学を卒業するなり独り立ちをする年齢になって、同居もしなくて金銭的な負担もなくなったら、社会的には「既婚子持ち女性」には変わらないけれど、人的資源としては「既婚子なし女性」と同じ取り扱われ方になるの?とか。そもそも「独身子なし女性」と「既婚子なし女性」にどういう違いがあるのだろう、とか。

なんか、全ての段階において、違和感を感じませんか?私は感じるんですよね。なんなら、「独身女性」の中にももっと細かい価値観の違いや、将来における希望の違い、ステータスの違いがある気がする。この例はすごい語弊がある気がするし、何度も言うけれどカテゴライズが好きじゃないので(しつこい)、なんなんそれって思うかもしれないけれど、要はそれくらい、ダイバーシティって難しいなぁという。

「健常者」「障がい者」っていうけど、ある日突然事故にあって障がいをもったら、すぐにその人は「健常者」から「障がい者」というカテゴリーに移り変わる。カテゴリーだけは「箱」として変わらないまま、人が移動していくのかな。なんかそれも不思議な気がして。

私が一度病気になったから思うことなのかもしれないけれど(それでも障がいのことを理解できているつもりは全然ないけれど)、「障がい者」という言葉やカテゴリーが登場した瞬間に、その人を巡る全てのことや取り組みが全て「福祉」になることもなんだか少し違和感があって。「福祉」という言葉にはしっかり意味や意図があることもわかっているつもりだけれど、「障がい者」と括られる人たちが働くことと「福祉」って、本質的にどういう関係があるんだろう、とも思う。働ければそれでいいのかな。人の助けを得ながら、自立できれば。食べていければ。それだけで十分幸せ?本当にそうなのか?とも思う。とりあえず私は、職場における「障がい者枠」って言葉が嫌いなんだ。私が病気でフルタイムで働けないってときに言われた「残業できない人を欲しい部署があると思う?」て言葉を一生忘れないと思うし、人は自尊心や培ってきた能力、他人にはわかり得ないだろう「やりがい」みたいなものを抱えて生きている、ということを痛感したから。

制度に助けられることももちろんあるけれど、制度があれば人は幸せなわけじゃない。現に、制度をいくつも美しく整えても、解決しない問題がある。その根本を、根ほり葉ほりしたい。「人によるよね」とか「難しいよね」で議論が終わってしまうことにものすごくもどかしさを抱えてしまって頭から煙が出そうなので(笑)、そろそろ遊びたい。うぉー!

こんな状況でも安定してワクワクを供給してくれるエンタメに助けられている最近。ドラマや映画をみて感動し、音楽を聴いて癒されています。
今週末はやーっと楽しみなことがあるので、あと数日地道にがんばろ。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。